- 2025/5/15
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ニューストランスクリプション
00:00:002011年10月1日
00:00:09中国の建国記念日国慶節を祝って
00:00:13天安門広場に孫文の肖像が掲げられました
00:00:17今から100年前の1911年
00:00:26孫文は新朝の皇帝支配を破り
00:00:29中華民国を打ち立てました
00:00:32侵害革命です
00:00:37孫文は今も革命の父
00:00:43国父として人々に尊敬されています
00:00:53今年北京では侵害革命100周年を祝って
00:00:57盛大な式典が開かれました
00:00:59孫中山先生
00:01:02和新海革命先驱
00:01:04为中華民族建立的历史攻击
00:01:08彪兵史冊
00:01:10在新海革命中英勇奋斗
00:01:14和壮力犧牲的知識们
00:01:16永遠值得中国人民尊敬和祭念
00:01:20新海革命
00:01:22永遠是中華民族
00:01:25偉大復兵政策上
00:01:27一座
00:01:27一座
00:01:27微燃一律的日程碑
00:01:30侵害革命を描いた映画
00:01:361911も公開されました
00:01:39主演
00:01:51総監督を務めたのは
00:01:52中国を代表する映画スター
00:01:55ジャッキー・チェンさんです
00:01:57平等な社会を作ろうと立ち上がった
00:02:08若者たちの姿を描いています
00:02:10ご視聴ありがとうございました
00:02:40新海革命の陰には
00:03:01多くの日本人の支援がありました
00:03:03孫文はたびたび日本に亡命
00:03:089年間で1000人を超える日本人と出会います
00:03:13政界の大者や財界の有力者
00:03:18そして民間の若者たち
00:03:21多才な人々がいました
00:03:23さらに近年
00:03:28軍の有力者が
00:03:30密かに手を差し伸べていたことも
00:03:32明らかになってきました
00:03:33日露戦争を勝利に導いた
00:03:37海軍の参謀
00:03:38秋山真行
00:03:40その人です
00:03:41秋山は
00:03:44中国の未来を担う人物として
00:03:47孫文に注目し
00:03:48日中両国の提携を進めようとしていたのです
00:03:52日本に期待を寄せていた孫文
00:04:02しかし
00:04:06日本政府は
00:04:08孫文に敵対する
00:04:10北方の軍閥政権を援助し
00:04:12やがて
00:04:14大陸進出への道を歩んでいきます
00:04:17それでもなお
00:04:22孫文は
00:04:24アジアの平和を求め続けました
00:04:27孫文と
00:04:33それを支援した日本人の
00:04:36知られざるドラマに迫ります
00:04:39中国南部にある
00:04:52関東省を駐山市
00:04:54孫文は1866年
00:04:57この地に生まれました
00:04:59孫文は
00:05:03なぜ革命を志すようになったのでしょうか
00:05:06その一端を知る手がかりが
00:05:11ふるさとに残されていました
00:05:13孫文の成果は
00:05:19現在記念公園になっています
00:05:21関東省は
00:05:2819世紀から
00:05:29海外へ移住する人が多い地域でした
00:05:32孫文の一番上の兄も
00:05:36ハワイに渡って成功を収め
00:05:39この家を建てました
00:05:41天井が高く
00:05:47窓が多いのは
00:05:49ハワイからもたらされた
00:05:50当時最先端の様式です
00:05:53孫文も
00:05:5912歳の時
00:06:00ハワイに渡り
00:06:02欧米式の教育を受けました
00:06:04こうした関東の風土が
00:06:11孫文の国際的な視野を育んだのです
00:06:14孫文の一番上の話
00:06:22帰国した孫文は人々を救いたいと
00:06:51医学の道に進みます
00:06:53正義感の強さは子供の頃から培われていたといいます
00:06:58孫文は小さい頃から不正や不平等にはとても反抗的な子供でした
00:07:12子供の頃
00:07:14友達が豆腐売りにうっかりぶつかって
00:07:19豆腐を落としてしまいました
00:07:22怒った豆腐売りは友達の頭を叩きました
00:07:28それを見た孫文は
00:07:31大人なのに子供を叩くなんて許せないと思ったのです
00:07:37それで孫文は石を拾って豆腐売りに投げつけました
00:07:44その後彼が革命の道を歩み始めた時も
00:07:49同じように不公平を感じたからです
00:07:52中国が貧しくて
00:07:55民衆が虐げられている
00:07:58だから中国の自由と平等を求めたのです
00:08:02少年時代の孫文を伝える像です
00:08:08村の孫老が孫文が生まれる2年前まで続いていた民衆の反乱
00:08:14太平天国の乱を語り聞かせています
00:08:18間違った政治は正さなくてはならない
00:08:23孫老の言葉を孫文は心に刻みました
00:08:27抵抗の気風が強い孔衆の風土が
00:08:33革命家孫文を生んだのです
00:08:36当時250年余り続いた新朝の支配は大きく揺らいでいました
00:08:48近代化を目指す改革は保守派の反対でことごとく失敗
00:08:56日清戦争で日本に敗れると
00:09:01欧米列強は競って利権の獲得に乗り出します
00:09:06新朝は列強と不平等条約を結び
00:09:11借還と呼ばれる資金の融資を受けていたのです
00:09:15ご視聴ありがとうございました
00:09:45苦しんでいる民衆を救うためには
00:09:59皇帝支配を打破し新しい国家を作るしかない
00:10:04孫文は28歳の時大きな決断を下します
00:10:13革命結社宝珠会を結成したのです
00:10:17列強は今
00:10:30虎視淡々と中国の豊富な資源を狙い
00:10:33中国の国土を分割しようとしている
00:10:36しかし
00:10:38異性者は怠慢
00:10:39民衆はといえば
00:10:41無知も前で
00:10:42祖国の将来を見通すことなどできない
00:10:45堂々たる中華の我が国が
00:10:48列強に対抗できず
00:10:50外国人たちにバカにされているのである
00:10:53我々は今こそ立ち上がらなくてはならない
00:10:58国民を苦しみから救い
00:11:01国家の滅亡を防ぐのだ
00:11:04子孫を外国の奴隷としてはならない
00:11:07孫文は
00:11:13公衆で武装放棄を計画
00:11:16しかし
00:11:18実行前に計画が漏れ
00:11:19失敗に終わります
00:11:21孫文には懸賞金がかけられ
00:11:26新朝から追われる身となったのです
00:11:291895年
00:11:38孫文は日本に亡命します
00:11:41明治維新によって急速に近代化を遂げ
00:11:46日清戦争に勝利した日本
00:11:49町には活気があふれていました
00:11:53その姿が孫文の目をとらえます
00:11:56維新の気風にあふれた日本で
00:12:04孫文は多くの支援者を得ていきます
00:12:07中でも孫文に最も早く注目したのは
00:12:13熊本県荒尾に生まれた宮崎当店です
00:12:17宮崎の成果を孫文も訪れています
00:12:23今は文化財として保存されています
00:12:26孫文さんが2回滞在したというこの家はですね
00:12:30日中の友好の交流史をこの家が物語っています
00:12:35このお二人の対談、筆談の様子ですね
00:12:39これはここのお座敷で
00:12:43とっくり再現されたそのままなされたわけですね
00:12:47宮崎当店は孫文に初めて出会ったその日から
00:12:55中国の革命を目指す理想に惚れ込みます
00:12:59その思想の高尚さ、指揮権の託伐さ、豊富の偉大さ
00:13:09我が国にこれほどの人物が何人いることだろう
00:13:14まさにアジアの宝である
00:13:17当時、外務省の調査員として働いていた宮崎は
00:13:24孫文を多くの政治家にも紹介し
00:13:27支援の輪を広げていきます
00:13:29宮崎と孫文が筆談で会話した時の記録です
00:13:40そこには、宮崎が孫文を犬貝強氏に紹介し
00:13:50革命について語り合ったことが記されています
00:13:54民権派の政治家、犬貝は
00:13:59孫文と意気投合し支援していくことになります
00:14:03梅谷正吉も孫文を献身的に支えた一人です
00:14:12孫文に多額の革命資金を援助しました
00:14:19梅谷は日本活動写真、日活の創始者の一人です
00:14:24当時最先端の娯楽だった映画
00:14:27南極探検に撮影隊を同行させるなど
00:14:32画期的な興行で莫大な富を築いていたのです
00:14:36君は兵を挙げよ
00:14:43我は財を挙げて支援す
00:14:47なぜ梅谷や宮崎は孫文に惹かれたのでしょうか
00:14:56一つは孫文の革命による破壊と
00:15:05その後の中国の国家建設
00:15:08このビジョンがはっきりあったことです
00:15:11それから孫文の有弁ですね
00:15:15弁説
00:15:16中国もそうですが英語の弁説もね
00:15:21ように人を感動させるようなものがあって
00:15:24宮崎東天も宮正吉も
00:15:27一夜にして孫文支援者になった
00:15:31孫文の魅力
00:15:33それは孫文の弁説の力だと思いますね
00:15:38日本で支援者たちに支えられ
00:15:43革命の準備を進めていた孫文
00:15:46孫文は日本の明治維新を
00:15:49中国革命の重要なモデルと考えていました
00:15:53日本は開国以来今日まで
00:15:59いまだかつて外国に支配されたことがなく
00:16:02強大な軍事力を持つ列強も
00:16:04彼らを征服することはできなかった
00:16:07彼らはヨーロッパ文化を柔軟に取り入れながら
00:16:12国家を発展させ
00:16:13明治維新達成後
00:16:15アジアで最も強大な国家となり
00:16:18欧米列強も一目置く国家となった
00:16:21我々が中国の発展を考えるとき
00:16:25日本は非常に重要な模範である
00:16:28孫文は横浜市山下町中華街の近くで
00:16:38亡命生活を送っていました
00:16:40その頃の孫文の知られざる一面を知る人がいます
00:16:46はいこんにちは
00:16:47どうぞ
00:16:48孫文の孫宮川東一さんです
00:16:52これが今言った大月香織さんの若い時のお写真です
00:17:04宮川さんの祖母大月香織さんは
00:17:11若い頃孫文と共に暮らしたことがあったのです
00:17:15カオルさんが70代になってから
00:17:27孫文との思い出を語った録音
00:17:30これまで公開されたことはありません
00:17:34孫文と初めて出会った時
00:17:40カオルさんは11歳でした
00:17:42私は子供でね
00:17:52板村でしたから
00:17:552階で暴れて
00:17:56蚊蜜食い出して
00:17:58それでその花瓶の水の下が落ちたんですよ
00:18:02それを大雪まで地図広みて
00:18:04皆さんとお話していらっしゃるとか
00:18:07私は怒ったんです
00:18:08なるほど
00:18:09それで謝りに行こうと言うので
00:18:11私は一緒に着いて謝りに行ったんですよ
00:18:16それは初めては
00:18:19そしたら怒られると言う子は泣くって
00:18:22あらいい子だ
00:18:24お菓子なんか珍しいね
00:18:27八重の里付け団のデモンドの里付け団の下がって
00:18:34その時初めて会ったんですよ
00:18:38なるほど
00:18:38中山さんって言って
00:18:41中山 新さん
00:18:42中山 木古市
00:18:44中山ね
00:18:45それでその時は
00:18:47その分は
00:18:49何でしょう
00:18:51亡命者ですから
00:18:53カバーに出たんです
00:18:54カバーに出たわけですね
00:18:56それでソン一線って言いましたね
00:18:59ソン一線ね
00:19:01当時ソン文は一線というあざ名で呼ばれ
00:19:08中山 木古という偽名を使って生活していました
00:19:12そして5年後
00:19:16ソン文はカオルさんに結婚を申し込みます
00:19:202人は婚約し
00:19:22カオルさんは子供を見ごもりました
00:19:25しかしその後
00:19:30ソン文は世界各地を飛び回り
00:19:33連絡が途絶えることもありました
00:19:35カオルさんは婚約の解消を決断しました
00:19:40これは
00:19:44初犯の状況が明らかになって
00:19:50その後生まれた子が
00:19:54宮川さんの母
00:19:55文子さんです
00:19:56宮川さんと文子さんは
00:20:011980年
00:20:03ソン文の子孫として認められ
00:20:06中国
00:20:07台湾に招かれました
00:20:09宮川さんは
00:20:14人生の岐路に立つたびに
00:20:16ソン文の孫であることを
00:20:19強く自覚したといいます
00:20:20それだけの血巻を受けているのであればね
00:20:26他の方々よりも
00:20:30一段と世の中に役に立つ
00:20:33何かをしていかなきゃならないと
00:20:38だからそういう心構えで
00:20:41実際は仕事をしてきましたね
00:20:44ささやかながらも
00:20:45一つは会社を退社してね
00:20:50自分が独立しようという方針を決めるときに
00:21:00それはやっぱりね
00:21:03ソン文先生に聞いてみるという姿勢は取りましたよね
00:21:08ソン文先生なんか
00:21:10僕がそういう局面にあったのに比べてはね
00:21:13お呼びもつかないくらいのお仕事をね
00:21:16成功した段階ではいいけど
00:21:18その途中ではいろいろと失敗したりね
00:21:22戦って勝ったり負けたりしてたわけだから
00:21:25それは苦戦苦闘やってるわけだから
00:21:27最初の来日から4年後
00:21:31ソン文はその後最も信頼を置くことになる兄弟と出会います
00:21:37山田義政と純三郎です
00:21:45弟の純三郎は
00:21:52ソン文が兄の義政のもとを初めて訪れた日のことを
00:21:57後々まで記憶していました
00:21:59兄が
00:22:05今日はシナの偉い人が来るから
00:22:08相撲を取ったりせずに静かにしておれと言った
00:22:11障子に穴を開けて覗いてみて驚いた
00:22:16おでこが突き出て
00:22:21口元の引き締まった確かに偉そうな人だ
00:22:24それがソン文
00:22:26その人だったのである
00:22:28兄の義政は当時30歳
00:22:35日清戦争で中国語の通訳を務め
00:22:39戦争が終わった後も海軍の食卓として
00:22:43中国各地を回りました
00:22:45そこで民衆の貧しさを目の当たりにして
00:22:49深い道場を寄せていったといいます
00:22:52中国の状況もある程度見ているわけですので
00:23:02そういう中で大変
00:23:04当時の中国がですね
00:23:06列強に
00:23:09そういう意味では
00:23:11それこそ好きなようにされているという
00:23:15一般の民衆はそれに対して全く抵抗できないという
00:23:20現状のままではダメだ
00:23:22ということに対してたどり着いてたんだろうと思います
00:23:28やっぱりそのソン文のそういう
00:23:30やっぱりなんて言いますか
00:23:33革命にかける本物の情熱といいますかね
00:23:36それに触れたんだと思うんですね
00:23:38吉政はソン文とともに台湾に渡り
00:23:44慎重打倒の武装砲機へと動き出します
00:23:47当時日本の植民地だった台湾には
00:23:53総督府が置かれていました
00:23:55吉政はかねてから知っていた台湾総督の
00:24:02児玉玄太郎と
00:24:04民政局長後藤新平にソン文を引き合わせます
00:24:08ソン文からの革命支援の要請に対して
00:24:12児玉と後藤は武器と援軍を送ることを確約しました
00:24:17ソン文が武装砲機の場に選んだのは
00:24:23ふるさとに近い関東省の慶州です
00:24:27児玉と後藤はこの砲機に乗じて
00:24:31密かに台湾から出兵し
00:24:33アモイを占領しようと考えていたのです
00:24:371900年10月
00:24:44革命軍が慶州で放棄しました
00:24:48革命軍は山に陣地を築いて立てこもります
00:25:01地元の農民からも放棄に参加する者が増えていきます
00:25:06両官衣さんの祖祖父もその一人でした
00:25:10新朝軍に包囲された
00:25:40革命軍
00:25:41弾薬が突きかけていました
00:25:44こちらはここに少々です
00:25:54今は、こちらを見るときにも
00:25:57おかない場所です
00:25:58ここによく連携された方は
00:25:59ここに行っています
00:26:01ですから、保護の力を支障しています
00:26:03そして、ここによく研究しています
00:26:05これを消灭でします
00:26:06ここに必須は山下に上にに
00:26:08それを上げています
00:26:09他用的工事にいくつかの山下に
00:26:12革命軍は台湾からの武器が届き次第
00:26:33アモイに向かって進撃する計画でした
00:26:36しかし衝撃的な事態が起こります
00:26:42日本の首相が伊藤博文に代わり
00:26:50列強の非難を恐れた伊藤は孫文への武器支援を禁じたのです
00:26:55台湾にいた孫文は進撃を断念せざるを得なくなります
00:27:06孫文の中止命令を慶州の前線に伝える役目を担ったのは山田義政でした
00:27:19慶州に赴く時吉政が家族に宛てた手紙が残されています
00:27:27己の身を平成し
00:27:36死なの勇士か
00:27:41その人に対し
00:27:45地下において面目なし
00:27:52吉政はこのままでは革命の途上で倒れた同志たちに顔向けできないという思いを抱いていたのです
00:28:07革命軍に命令を伝えた吉政はその後戦死しました
00:28:20去年31
00:28:29侵害革命100年の今年
00:28:31その地に吉政の像が作られました
00:28:35孫文の命令を伝えるため馬に乗り
00:28:41前線に急ぎ赴く姿です
00:28:45秘文には吉政の名が孫文の日本の友人として刻まれています
00:28:54吉政はなぜあえて危険な前線に赴いたのでしょうか
00:29:03ノンフィクション作家の穂坂正康さんは
00:29:07長年にわたって
00:29:09孫文と吉政との関わりを調べてきました
00:29:12山田吉政としてみれば
00:29:18日本人が一回約束したことを徹底して守る
00:29:22特に中国人との間で革命協力すると守る
00:29:26武器も出すと言って
00:29:27期待して
00:29:28それで運動が高揚して
00:29:30待っている時なのにね
00:29:32いや実はと言って言うようなことで
00:29:35なんて言うんだろう
00:29:36嘘を言うのはつらいだろうけど
00:29:38そのためには自分が犠牲になっても
00:29:41一つの筋を通すというような
00:29:43生き方をしたんだと思いますね
00:29:44日本人の裏切りとかね
00:29:46そういったものが問われて
00:29:49革命そのもので
00:29:50常に日本人はずるい関わり方をする
00:29:53国家的な
00:29:55政治家が関わる時はそういうのあるんだけど
00:29:56国家的な
00:29:57あるいは軍人が関わる時は
00:29:59国家的なエゴイズムで関わるけど
00:30:01そうではないんだ
00:30:02っていう形の
00:30:04そういったイメージのね
00:30:07日本人の
00:30:09なんて言うんだろう
00:30:10死死と僕は言うんだけども
00:30:12死死の心持ちを残したんじゃないかと思いますね
00:30:15孫文は革命に命を捧げた吉政のことを
00:30:22生涯忘れることはありませんでした
00:30:25吉政のふるさと
00:30:28青森県弘前市には
00:30:30孫文が送った慰霊碑が残されています
00:30:33孫文自筆の秘文
00:30:49そこには
00:30:53吉政を追悼する
00:30:55孫文の思いが刻まれています
00:30:58思い起こせば
00:31:01外国の死死にして
00:31:03中国の共和のために犠牲となったのは
00:31:05君が最初だったのである
00:31:07君は
00:31:09日本政府が革命の支援を禁じたにも関わらず
00:31:13それを意に介せず
00:31:16決死の覚悟で前線に赴き
00:31:18革命のために命を捧げた
00:31:21これは誠に得がたく
00:31:24尊むべきことである
00:31:26願わくば
00:31:29中国人民の自由と平等のために奮闘された君の精神が
00:31:33さらに
00:31:35日本の人々に
00:31:37引き継がれんことを
00:31:38祈る
00:31:39継修放棄の失敗
00:31:50再び日本に亡命した孫文は
00:31:54革命勢力の結集を図ります
00:31:59それを助けたのが
00:32:01宮崎東天です
00:32:03東京都市幕に
00:32:05宮崎が晩年暮らした家が残されています
00:32:09孫文はたびたびこの家を訪れました
00:32:12水深治福
00:32:19狂気を開いて人と接するという意味の孫文の書です
00:32:25孫の福さんは宮崎の妻
00:32:30土子さんから革命支援に奔走する宮崎の姿を伝え聞いています
00:32:36神奈川革命の当時に
00:32:41本当に宮崎の家は貧乏で貧乏で
00:32:46当店が収入があれば
00:32:51それは革命に使うんであって
00:32:53君たちを養うお金はないって言われて
00:32:57土子は結構熊本の
00:33:02お金持ちの家に生まれてるんですよ
00:33:06ですけど
00:33:07もう本当に内職をしながら
00:33:11子供を育てて頑張ったんですね
00:33:15これは宮崎のもとに集った
00:33:20中国人革命家たちの寄せ書きです
00:33:23東京にいた革命家たちは
00:33:27出身地ごとにグループを作っていましたが
00:33:30一堂に会する機会はありませんでした
00:33:34宮崎はこうした人々を
00:33:41孫文のもとに結集させていきます
00:33:431905年
00:33:51東京で中国同盟会が結成されました
00:33:55集まった革命家は300人以上
00:33:58後に革命軍総司令官となる高校を
00:34:04孫文と引き合わせたのも宮崎でした
00:34:07総理に選ばれた孫文は
00:34:12三民主義の思想を解き
00:34:14革命派の心を一つにしようとします
00:34:17三民主義とは
00:34:22人民の人民による人民のための
00:34:25ということであります
00:34:26つまり国家は人民が共有するものであり
00:34:31政治は人民が共同管理し
00:34:33利益は人民が共に受け取るということです
00:34:37孫文は世界中を駆け巡ります
00:34:44中国革命への支持と資金を得るため
00:34:50東南アジアからヨーロッパ
00:34:53アメリカと回り
00:34:54それは実に2年5ヶ月に及びました
00:34:59継修放棄の後
00:35:06革命派は10年の間に9回放棄しました
00:35:11しかしことごとく失敗に終わります
00:35:16そんな中で東京の中国同盟会は
00:35:23勢力拡大に努めました
00:35:25新たなメンバーには
00:35:34新朝の軍人たちも加わっていました
00:35:37彼らは新朝が近代化を図るために創設した
00:35:43新軍の軍人で
00:35:44日本に派遣されていたのです
00:35:47日本留学中
00:35:53革命派に共感した軍人たちは
00:35:55帰国すると
00:35:57新軍の内部で
00:35:59密かに革命の工作を進めていきました
00:36:021911年10月10日
00:36:23武将で新軍が反乱を起こします
00:36:27侵害革命の勃発です
00:36:40映画でジャッキー・チェンさんが演じたのは
00:36:47孫文の命を受けて革命軍総司令官となった
00:36:51高校です
00:36:52全ての最老は24歳
00:37:09最老は16歳
00:37:13全ての死亡
00:37:16全ての死亡
00:37:17何かという理想や目的に
00:37:19何かという理想や目的に
00:37:491911年10月10日
00:37:54革命軍が街を占領すると
00:37:56北京から新朝の軍隊が鎮圧にやってきました
00:38:00当時敷かれたばかりの鉄道に乗って
00:38:06武将の街に迫ります
00:38:08この線路で革命軍との間で
00:38:12激しい戦闘が繰り広げられました
00:38:15革命軍の総司令部となった建物が
00:38:36現在博物館となっています
00:38:39展示室には
00:38:50侵害革命に関わる資料が多数展示されています
00:38:54その中に放棄した部隊の名簿がありました
00:39:03部隊を指揮した将校の中には
00:39:08日本の陸軍士官学校の卒業生が
00:39:12多くいることが分かります
00:39:14日本の陸軍官の軍官は
00:39:26中国本身像保定軍官学校
00:39:30保定軍官学校培養することができました
00:39:32大部分は日本の軍官学校の
00:39:37日本の軍官が培養することができました
00:39:38新海革命時代の四種社会の力量
00:39:43都和日本
00:39:46有比较密切的関係
00:39:49侵害革命が勃発した時
00:39:56孫文はアメリカにいました
00:39:59革命の報を受けた孫文は
00:40:02すぐには帰国せず
00:40:04ヨーロッパに渡ります
00:40:05孫文はヨーロッパの資本家が
00:40:14新庁と借観を結び
00:40:16資金や武器を援助しないよう
00:40:18訴えていきます
00:40:19ご視聴ありがとうございました
00:40:22ご視聴ありがとうございました
00:40:23ご視聴ありがとうございました
00:40:25ご視聴ありがとうございました
00:40:26ご視聴ありがとうございました
00:40:55ご視聴ありがとうございました
00:41:30ご視聴ありがとうございました
00:42:00孫文は中国に帰国しました
00:42:03孫文は中国同盟会のメンバーの
00:42:33メンバーたちの姿です
00:42:34その中には2人の日本人もいました
00:42:38横浜での出会いに帰国の日本人もいました
00:42:39横浜での出会い以来
00:42:46孫文を支援し続けた
00:42:48宮崎東天です
00:42:50宮崎はこの時の心境を
00:42:54次のように述べています
00:42:56今や中国は青年の天下なり
00:43:01孫文は孫文の天下なり
00:43:03孫文の天下なり
00:43:04孫文の天下なり
00:43:07孫文を出迎えた日本人がいました
00:43:11山田
00:43:41贈るように事づけたと言います
00:43:43尊文は戦死した吉政とその遺族のことを気にかけていたのです
00:43:53こうした尊文の思いを示す書が山田の遺族のもとに残されています
00:44:01我が父のことしということなんですけれども
00:44:08要は革命を手助けした山田兄弟のお父さんに対して
00:44:21要するに尊文がまるで尊文のお父さんのようだと
00:44:27こういうふうに言ったということが書かれているんです
00:44:32だから父親もこれだけは家保にしておいてくれということで
00:44:37大事にしておいてくれということで言われましたね
00:44:39純三郎もまた亡くなった兄吉政の意思を継いで
00:44:49尊文を支援していくことになります
00:44:51武将放棄をきっかけに中国の十七の省が
00:44:59次々に新朝からの独立を宣言します
00:45:031912年1月1日
00:45:07南京で中華民国が成立しました
00:45:11尊文は臨時大総統に選出されます
00:45:18就任演説で尊文は日本の支援者たちに感謝の言葉を述べました
00:45:25今日までの10年余り
00:45:31我が同志はみな献身的に革命に打ち込み
00:45:35数々の困難を打ち破ってきました
00:45:37これまで度重なる放棄に失敗したにもかかわらず
00:45:42諸外国の我が友人たちは我々の苦しみを理解し
00:45:46我々の革命に平和の望みをかけ
00:45:49見守ってくれました
00:45:50隣国の熱い友情には心より感謝しております
00:45:56日本の民間人によって支えられた侵害革命
00:46:07その成功は日本の軍部の中にも
00:46:13尊文に注目する人々を生んでいきます
00:46:16陸軍の中で
00:46:21密かに尊文を支援する工作が進められていたことが
00:46:26最近になって明らかになってきました
00:46:28こんにちは
00:46:35こちらこそよろしくお願いします
00:46:38どうぞ
00:46:39陸軍大将宇都宮太郎の7000点を超える機密文書が発見されたのです
00:46:48これが宇都宮太郎の日記です
00:46:53明治から大将にかけて15年にわたって書かれた日記です
00:47:01侵害革命当時
00:47:07宇都宮は重宝や暴力を担う
00:47:11参謀本部第二部長の要職にありました
00:47:14宇都宮が残した極秘資料から
00:47:20それまで全く知られていなかった
00:47:23尊文をめぐる秘密工作の全貌が浮かび上がってきたのです
00:47:28侵害革命の直後
00:47:361911年10月28日の日記です
00:47:42岩崎久也を丸の内なる三菱会社にとぶらう
00:47:48宇都宮は三菱合資会社の社長を
00:47:58岩崎久也を密かに訪ねました
00:48:01久也は岩崎八太郎の息子で
00:48:09三菱財閥の総帥でした
00:48:11宇都宮は一つの極秘資料を岩崎に示します
00:48:21対品試験
00:48:23宇都宮の中国政策についての意見書です
00:48:28その中で
00:48:32中国における日本の権益を確保するため
00:48:36尊文の革命派を援助すべきであるとの考えを述べています
00:48:41宇都宮は尊文支援のために
00:48:49工作資金を出すよう岩崎に求めました
00:48:5210万円
00:49:02現在の1億円以上に相当します
00:49:06日記によれば
00:49:12岩崎はしばし木工した後
00:49:14最後に欠然として
00:49:16次のように述べたといいます
00:49:19承知いたしました
00:49:22宇都宮の膨大な資料を研究分析している
00:49:32桜井良樹さんです
00:49:34桜井さんは
00:49:36この事実は歴史を書き換えるものだといいます
00:49:42やはり一番最初驚いたのはですね
00:49:45宇都宮が岩崎被災の下を訪ねて
00:49:51個人的に資金の提供をしてほしい
00:49:55という要請をした記事があったことです
00:49:58これまで三菱と革命との関係ということは
00:50:03ほとんど知られていなかったわけですけれども
00:50:06やはり三菱のですね
00:50:12商売のことを考えてのことだったと推測されます
00:50:16宇都宮は岩崎から得た資金で
00:50:22退役軍人を使った秘密工作を始めます
00:50:25公式に出したお金でいった人が何か問題を起こすとですね
00:50:31それこそ日本政府の問題になりますので
00:50:34そうではなくて
00:50:36陸軍の正式な人ではなくて
00:50:41そこで使われるのが退役した軍人ということになるわけです
00:50:45民間人
00:50:46これは私的なルートですので
00:50:48陸軍からはお金をもらってというわけじゃなくて
00:50:51そこで使われるのが岩崎被災家から調達したお金だということになりますね
00:50:59これは宇都宮が中国に密かに派遣した人物のリストです
00:51:07その数およそ40人
00:51:10派遣先は革命が起こった武将
00:51:16さらには北京や満州
00:51:19そしてモンゴルやウンナンなど
00:51:22辺境の地にまで及んでいました
00:51:25これはもう少し暴略的になるわけですけれども
00:51:29その各地に送った軍人たちに
00:51:34その地域の有力者と接触をさせて
00:51:38一つには革命を大きくしていくような
00:51:43機運を作っていくということが一つでしょうし
00:51:47その独立した各省の政府と日本との関係に何らか資するような
00:51:55日本にとって有利なような状況をですね
00:51:58作り出していこうという
00:52:00リストの中に金子慎太郎という名があります
00:52:05金子は当時陸軍隊員を退役後
00:52:13ふるさとの新潟で村長を務めていました
00:52:16中国問題に詳しく
00:52:22かつて新潮の軍隊に教官として招聘されたこともある金子に
00:52:27宇都宮は期待していたのです
00:52:30日記によれば11月5日
00:52:39金子を自宅に招き
00:52:41秘密工作の目的を次のように述べました
00:52:46南北の講和を妨げ
00:52:49南方に一国でも数国でも混流する必要がある
00:52:54当時南で孫文の中華民国が成立したものの
00:52:59北では北洋軍の実力者
00:53:02遠征外が台頭しつつありました
00:53:05宇都宮は日本の権益を拡大するため
00:53:11中国を南北に分裂させ
00:53:14孫文を支援しようとしていたのです
00:53:17金子は革命の震源地武将に派遣されました
00:53:25金子の消息を調べてきた木根渕武さんです
00:53:33金子が日本を出発する前
00:53:57妻に宛てた手紙の写しです
00:54:00今回の巨は最も重大なる仕事なれば
00:54:07もしならざる時は床下の力持ちなり
00:54:14また生命は亡き者と心得るべし
00:54:21派遣からわずか1週間後
00:54:27金子は武将で戦死しました
00:54:30慰霊碑には宇都宮が金子の死を悼んで読んだ歌が刻まれています
00:54:38当時金子の死の真相を公にすることはできませんでした
00:55:02宇都宮は自らの秘密工作で命を落とした金子のことを追悼したのです
00:55:12孫文を支援することで
00:55:34中国における日本の影響力を強めようとした宇都宮
00:55:39しかし中国情勢は宇都宮の期待とは全く逆の方向へと動いていきます
00:55:50孫文から臨時大総統の座を譲り受けた遠征外は
00:55:59その後独裁化を進めていきます
00:56:02こうした中で日本政府は列強とともに遠征外政権を承認
00:56:13やがて遠征外は革命派を厳しく弾圧していきます
00:56:18孫文は遠征外を打倒しようと第二革命を起こしますが
00:56:26あえなく敗北
00:56:28宇都宮の孫文支援工作はこうして継いだったのです
00:56:42再び亡命を強いられた孫文
00:56:45しかし日本政府は受け入れようとしませんでした
00:56:51イヌカイツヨシラ
00:56:55古くからの支援者の奔走で
00:56:57孫文はようやく上陸することができました
00:57:01孫文は日本政府の厳しい監視の下
00:57:07と隠れるような亡命生活を送りました
00:57:11旧地に立たされた孫文を家族ぐるみで支え続けたのは
00:57:24梅屋正吉でした
00:57:26梅屋の日記が今も残されています
00:57:37これが梅屋正吉が残した日記です
00:57:43割と細かい字でこういった新聞の切り抜きなんかとともに残されています
00:57:54梅屋は孫文に何度も資金を提供しました
00:58:03また梅屋は革命軍からの武器調達の要請にも応えました
00:58:13小銃7船長
00:58:19機関銃7門
00:58:21大砲5門
00:58:23さらに梅屋は中国初の航空隊を創設
00:58:33遠征外打倒の切り札にしようとします
00:58:43日本人パイロットを教官にして飛行訓練を繰り返しました
00:58:49この亡命中
00:58:58孫文は後に中国国家副主席となる宋敬礼と結婚します
00:59:06披露宴は梅屋の屋敷で行われました
00:59:10梅屋の求めていたものは革命成功のもう少し先にある
00:59:18本当にアジアの平和というものを見ていたので
00:59:22それを実現するためには本当にきりがなくお金が必要だったと思うんですね
00:59:29梅屋も限られている資産ですから
00:59:35全てのオーダーに逆に答えられたかどうかはそれは分かりませんけれども
00:59:40できる範囲でお答えしていったんだと思います
00:59:43飛行機を買って飛行訓練学校を作ったり
00:59:46そういうこともしていますので
00:59:49本当に自分の大きな夢がなければできなかったことじゃないかなと思います
00:59:55孫文が日本に亡命していた1914年
01:00:03第一次世界大戦が勃発します
01:00:06参戦した日本は
01:00:11ドイツが権益を持っていた三島半島に進出
01:00:151915年には遠征外政権に21か条の要求を突きつけます
01:00:28そこには三島半島の権益をドイツから引き継ぐこと
01:00:41南満州や内蒙湖の権益の強化などが記されていました
01:00:50日本の要求が明らかになると
01:00:59中国で反日の機運が急激に高まりました
01:01:03孫文の中に日本政府への不信と疑惑が生まれていきます
01:01:15一方
01:01:24日本政府は孫文への監視を強めていました
01:01:28警察の監視記録によると
01:01:31この時期孫文と最も多く面会していた日本人は
01:01:36山田純三郎でした
01:01:38窮地に追い込まれた孫文を支え続けた純三郎
01:01:47その原点には
01:01:51志半ばで倒れた兄吉政
01:01:55そして吉政に報いようとする孫文の姿がありました
01:02:01孫文は吉政の遺骨を探し出して
01:02:08遺族に届けようとしていました
01:02:10遺骨が見つからなければ
01:02:14土だけでも持って帰るよう
01:02:16たびたび部下に命じていたのです
01:02:19純三郎さんは常にやっぱり
01:02:27吉政と孫文の関係っていうのが根っこにあって
01:02:33兄貴、兄、兄を思いを寄せた革命家
01:02:37それで孫文さんはそれに応えて
01:02:39探し出して骨まで拾って
01:02:41そしてお墓まで、秘文まで書くという
01:02:44そういうところの特別な扱いをしてくれるというところの
01:02:48つながりっていうのはね
01:02:49孫文という人に対してやはり
01:02:52まあ、惚れるっていうのかな
01:02:55で、それも惚れるのも
01:02:57単なる革命家っていうよりも
01:02:59この人は立派だ
01:03:00あるいは、人間としても素晴らしい
01:03:03っていうような
01:03:04惚れ込み方して
01:03:06そしてこの人に忠誠を誓う
01:03:08当時、満鉄の職員だったジュン・ザブローは
01:03:14政財界との人脈を生かし
01:03:17孫文の革命資金を調達しようと奔走します
01:03:21中国の孫文研究の第一人者、ショウ・オ・メイケンさんは
01:03:33孫文にとってジュン・ザブローは
01:03:36かけがえのない存在だったといいます
01:03:39今残されている資料からは
01:03:44孫文が
01:03:46山田・ジュン・ザブローを
01:03:48とても信頼していたことが分かります
01:03:52遠征外政権と
01:03:56どう戦うのか
01:03:58資金の調達は
01:04:01どうするべきかなど
01:04:03いろいろなことを相談しました
01:04:07孫文は
01:04:09山田を非常に信頼しました
01:04:13彼を真の友達
01:04:17または軍師として見ていたと思います
01:04:211914年
01:04:26山田・ジュン・ザブローと孫文との間で
01:04:29ある名役が結ばれていました
01:04:32日中名役です
01:04:36全11か条にわたる名役の中で
01:04:44孫文が再び政権を取った際には
01:04:47日本軍と連携していくことが謳われています
01:04:51中華海陸軍に外国軍人を併用するときは
01:04:59主として日本軍人を採用すること
01:05:03兵器、弾薬、兵器、弾薬、兵具等は
01:05:14すべて日本と同式のものを採用すること
01:05:191980年代
01:05:24この名役所の存在が明らかになって以来
01:05:27中国、台湾の学会では
01:05:31その審議をめぐって議論が続いてきました
01:05:34特に台湾では大きな反響を引き起こしました
01:05:38基本上孫先過去
01:05:42これからね
01:05:43国家の国家の権威と別人の権威を交換しました
01:05:49それをしたいかもしれません
01:05:54これはないのが
01:05:56それらのような据えを支持
01:05:58孫先の考慮を変えることができました
01:06:02このような考慮を考えるとそういうことは
01:06:04一方中国の学会では現在多くの学者が日中名役の存在を認めています
01:06:34きっとアイテムの学生ならではなく、しかし、いろんな遅いのではないでしょう
01:06:50ディスのものが労働する必要はないです
01:06:57しかし、私たちの何ときには、私たちに行く必要はず、日本誰とはしています
01:07:04その後、この名役所について様々な検証がなされてきました
01:07:25現在、日中の学会では孫文自身の署名であるという評価が定まっています
01:07:32この名役はどのようにして作られたのでしょうか
01:07:47署名者の一人である山田純三郎は、後に次のように改装しています
01:07:54秋山将軍が筆を取り、私が持って行って孫さんに趣向をした
01:08:11秋山将軍とは、日本海海戦を勝利に導いた海軍の参謀、秋山実行です
01:08:20この頃、海軍の対外政策を担う軍務局長だった秋山は、中国問題に深い関心を寄せていました
01:08:31孫文の秘書で、秋山など日本の要人との通訳を務めた大紀藤は、後にこう書き残しています
01:08:43秋山実行は、中山先生の最も親しい友人と言えるだろう
01:08:52総理の革命事業に、彼は物質的にも、精神的にも、多大の援助を与えた
01:09:00防衛大学名誉教授の田中博美さんは、秋山が日中名役に関わっていた可能性は高いと言います
01:09:11あの中立は役は、革命政府を助けるということですから
01:09:24当然、彼の思想とぴったり一致していますから
01:09:31彼が書いても、不思議ではないと思います
01:09:35海軍の中では、珍しく秋山は、新北に対して明確に見解を持っている数少ない人だったと思うんですね
01:09:46秋山が中国の変化に注目し始めたのは、侵害革命が起こる3年前、1908年のことです
01:09:58軍艦、おとわの艦長として、たびたび上海に入港した秋山
01:10:06中国の急成長ぶりに目を見張る一方、日本政府の対応が遅れていることに焦りを感じます
01:10:17秋山は、海軍の上司に日本と新朝の海軍が連携していく方策について、次のように提案しています
01:10:30商工教育一切を引き受け
01:10:37もって日清海軍の関係を永遠に保持したる方
01:10:43直接間接の利益、遥かに多大なるかと悪心つかまつり候
01:10:51秋山は、日本が新朝の海軍商工の教育に深く関わることで
01:11:03長期的な友好関係を結ぶことの必要性を訴えたのです
01:11:08学研だと思いますよ
01:11:15教育に目をつけて、長い時間かかってやっていくことに将来的に意味があるんだという
01:11:24早く新日派の学生を養成しなければいけないと
01:11:28でないと、日米争った時に、中国人はみんなアメリカの味方になっちゃうんじゃないかという
01:11:34多分そういう恐れを抱いていたんじゃないかと思いますね
01:11:39日露戦争を勝利に導いた秋山真幸
01:11:48秋山は将来、日本とアメリカの間で戦争が起こることを予想していました
01:11:56そのために、中国との連携を今から強めなければならないと提言したのです
01:12:05秋山は、海軍中央とは別に
01:12:13孫文ら、南方派の将来性を高く評価していました
01:12:17今のうちにシナと固い握手をしておかなければ
01:12:23対戦終了後に困ることになる
01:12:26我が国に反対する遠征外を倒し
01:12:30我が国に好意を持つ南方を援助し
01:12:34公衆同盟と経済同盟を結ぶのだ
01:12:38孫文との日中迷役の後
01:12:46秋山は1916年
01:12:50新たに孫文への資金援助を拡作します
01:12:54新興の財閥、久原久之助から100万円
01:13:02現在の10億円以上に相当する資金を引き出し
01:13:07孫文に手渡しました
01:13:09しかし、その翌日の2月21日
01:13:18秋山は突然職を解かれ
01:13:21第一次世界大戦の視察のため
01:13:24ヨーロッパへ派遣されます
01:13:28左戦です
01:13:29この感じの左戦だと思いますね
01:13:31当時ヨーロッパ戦線に派遣されて
01:13:38向こうの実情を調べる人というのは
01:13:41中佐とか小佐クラスが多くて
01:13:44大佐もいますけどね
01:13:46召喚が、しかも軍務局長という重要なポストにいる人が
01:13:52わざわざ行くまでもないんですよね
01:13:56じゃあなんで突発的な陣地しなきゃいけなかったということになると
01:14:03どうしても中国問題に首つ込んだことしか理由が見当たらないんですね
01:14:10孫文の革命を支援し
01:14:15日中の連携によってアメリカと対抗しようとした秋山
01:14:20しかし、日本政府は秋山の思いとは裏腹に
01:14:26遠征外の死後、その後を継いだ
01:14:29暖気水政権を援助するという方針を打ち出します
01:14:33その後、日本政府が孫文を援助することはありませんでした
01:14:41秋山がヨーロッパへ渡った翌年
01:14:48孫文は甲州に戻り
01:14:51暖気水の北京政府と対決するため
01:14:54関東軍政府を自立しました
01:14:56中国が南北に分断している状態の中
01:15:04列強はみな北京政府を認め
01:15:07孫文ら南方派は忘れられていきました
01:15:111919年、第一次世界大戦が終結
01:15:21パリで講和会議が開かれます
01:15:24ここで日本は三島半島のドイツの権益を
01:15:30引き継ぐことを認められます
01:15:32しかし、アメリカは三島問題について反対し
01:15:40ウィルソン大統領は民族自決の原則を打ち出します
01:15:47これを受け、中国ではナショナリズムの波が高まります
01:15:52学生を中心に保守運動が起こり
01:15:56三島半島の返還を訴えました
01:15:59孫文は中国での権益保持に走る日本政府に対し
01:16:10初めて非難の声を上げます
01:16:13日本は明治維新を達成しアジアの大国となった
01:16:20我々もまた日本の後陣を廃止
01:16:24中国の維新を目指してきたのである
01:16:27ところが思いがけないことに
01:16:31日本の軍人たちが帝国主義の野心をたくましくし
01:16:35明治維新の志を忘れ、中国に干渉し
01:16:39侵略政策を推進したのである
01:16:43孫文の日本政府に対する決別宣言でした
01:16:53孫文はこれまでの強国の支援に頼った革命方針を捨てます
01:17:02中国国民党を率い
01:17:05民衆を主体とする革命を目指していきます
01:17:09孫文が強い関心を寄せたのはロシア革命でした
01:17:182年前の1917年
01:17:23労働者、農民、兵士が一丸となって
01:17:27皇帝支配を打倒した事実に注目
01:17:31国境を越えて帝国主義に対抗する必要性を
01:17:36訴えるようになります
01:17:37現在、我々の目の前に立ちはだかり
01:17:44我々の頭上で圧迫しているのは帝国主義である
01:17:47帝国主義を打倒しようとするならば
01:17:51多くの民衆を結集させ
01:17:53強固な勢力を結成しなければならない
01:17:56そうしなければ
01:17:58中国人民はいつまでも
01:18:00バラバラの砂のようにまとまることがなく
01:18:02永遠に帝国主義に踏みにじられるだけである
01:18:06ソンブンの国民党はソビエトとの連携
01:18:14そして中国共産党との合作によって
01:18:18新たな革命を目指そうとします
01:18:20いわゆる連蘇要強の方針です
01:18:25ソンブンはソビエトから軍事顧問を迎え
01:18:34士官を要請する
01:18:35広報軍艦学校を設立します
01:18:38これによって中国国民党は
01:18:42革命のための自らの軍隊を持つことになりました
01:18:46法庁に任命されたのは
01:18:5136歳の紹介席です
01:18:54共産党から政治部の責任者に
01:18:5826歳の衆恩来が送り込まれました
01:19:021924年11月
01:19:1157歳の孫文は6年ぶりに来日しました
01:19:15日本に渡る時
01:19:20孫文が期待を寄せていた日本人がいました
01:19:23古くからの支援者
01:19:26犬会強氏です
01:19:28犬会はこの頃
01:19:36定審大臣として入閣していました
01:19:41孫文は手紙を送り
01:19:43日本が欧米列強の側に立つのではなく
01:19:47抑圧されたアジアの人々とともに
01:19:51帝国主義と戦おうと呼びかけたのです
01:19:54しかし
01:19:57犬会からの返事はありませんでした
01:20:00日本政府は社会主義国
01:20:05ソビエトとの連携を図る孫文を警戒し
01:20:08東京に立ち入ることを禁じていました
01:20:11そのため孫文は神戸に上陸
01:20:19日本の民衆に自らの思いを訴えようとします
01:20:2311月28日
01:20:32講演会場となった
01:20:35神戸高等女学校には
01:20:373000人を超える聴衆が詰めかけました
01:20:40東洋の文化は
01:20:47神戯道徳を唱える王道の文化であり
01:20:52正義と道理によって人々を感化することであります
01:20:56西洋文化は波動の文化であり
01:21:02鉄砲と大砲によって人々を脅し
01:21:05圧迫することであります
01:21:07我々が現在転称している大アジア主義は
01:21:13圧迫を受けている民族の不平等を
01:21:18打発しなければならない
01:21:19これは波動に背く文化であり
01:21:23あらゆる民衆の平等と
01:21:27解放を求める文化であります
01:21:29あなた方日本民族は
01:21:33欧米の波動の文化を取り入れていると同時に
01:21:38アジアの王道の文化も持っています
01:21:40日本が将来の世界の文化に対して
01:21:45果たして西洋の波動の手先となるのか
01:21:48あるいは東洋の王道の砦となるのか
01:21:54あなた方日本国民がよく考え
01:21:57慎重に選ぶことにかかっているのです
01:22:01他の主要的意図
01:22:08恐怕
01:22:10他是計画於日本的人民
01:22:14来糾正
01:22:15日本的軍規主義的政策
01:22:18はどのように言われたか
01:22:24日本はやはり日本の国民は
01:22:25それに対して
01:22:25日本の国民の中で
01:22:26日本の国民の中で
01:22:28台湾の国民の中で
01:22:29日本の国民の中で
01:22:31東方の干成
01:22:32これに対して
01:22:35は大統領で
01:22:37大統領の国民の利益を
01:22:39建立一個和平的、和泄的大同世界。
01:22:46沒有壓迫、沒有補削。
01:22:51この理想的基礎、主要的、
01:22:58日本和中國要友好、要親善。
01:23:04神戸での演説からわずか4ヶ月後、1925年3月12日、孫文は北京で58年の生涯を終えました。
01:23:22隣住の場に立ち会った同志たちに、孫文は遺言を託しました。
01:23:31世は、力を国民革命に尽くすことおよそ40年。
01:23:38その目的は、中国の自由平等を求もるにあり。
01:23:43現在、革命なお未だならず。
01:23:48我が同志は、引き続き努力せよ。
01:23:52孫文が最後を迎えた時、
01:23:59ただ一人、その傍らにいることを許された日本人がいました。
01:24:06あの、山田純三郎です。
01:24:14私は泣いた。
01:24:16ただ泣いた。
01:24:19私は半血に水を含ませて、唇を示した。
01:24:25静かに死が訪れていた。
01:24:28その時の孫さんの顔が、今でも目にこびりついている。
01:24:34山田純三郎は、その後、日中戦争から敗戦に至るまで上海で暮らし、83歳で亡くなりました。
01:24:51純三郎が残した資料の多くは、今、愛知大学に保管されています。
01:24:57孫文と日本との関わりを示す貴重な記録です。
01:25:06その中に、孫文が純三郎に送った書が残されていました。
01:25:12姿勢、神の今年ということになると思います。
01:25:18これは年代がはっきりしておりませんけれども、この本来の意味は、こういう孫頃はどこにでも通じるというような意味なんですけれども、
01:25:30孫頃というのは、まさにそういう山田兄弟の孫文及び孫文の始めを行っている革命に対する一貫した姿勢。
01:25:41それを言っているんだというふうに私は思っています。
01:25:49中国南京にある中山寮。
01:25:53孫文の亡骸は、今、ここに眠っています。
01:25:59中山寮の一角に、梅や小吉が送った孫文の像があります。
01:26:16孫文の死後、日本と中国は、満州事変から日中戦争へと悲劇の道をたどっていきました。
01:26:28孫文とその革命の思いに共鳴し支援した日本人の姿は、日中の歴史に確かな記憶として刻まれています。
01:26:53孫文の中山寮。
01:26:56孫文の中山寮。
01:26:58200年経ったこういう時に、山田さんのような考え方、そういう人の考え方がもう一回、歴史の中で見直されるべきだと思います。
01:27:11それは中国と日本人の間には、やはり友情が育つし、育った友情は歴史的にも意味があるんだ。
01:27:20それを政治や軍事で一方的に殺して、抹殺してはいけないんだという考えですね。
01:27:27残るのは精神とか、それから最後に残っている気持ちのつながりですよね。
01:27:35精神のつながりだと思いますよ。
01:27:37文化を通じて精神の、あなたの国と僕の国は文化が違う。
01:27:42しかし、そこには共有できる世界を作れるんだというようなことが、媒介になってつながっているわけですから。
01:27:50今、そういう媒介になるものはなかなかないから、やはりそういう媒介も必要なのかなという気がしますけどね。
01:27:56ご視聴ありがとうございました。
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