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  • 2025/5/13

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ニュース
トランスクリプション
00:00ここは太平洋戦争末期の沖縄戦
00:09旧日本海軍最後の拠点だった
00:14元海軍兵たちが戦った69年前
00:26この場所の地下から撃たれた伝聞が今も語り継がれている
00:31沖縄県民各戦い
00:36県民に対し後世特別のご後輩を賜らんことを
00:42これを打電したのは海軍沖縄方面根拠地帯司令官太田実
00:49ここにはもう一人太田と心を通わせた人物の思いも込められていたと言われている
00:59太田と同じ沖縄戦開始のほぼ2ヶ月前に赴任した
01:04戦中最後の沖縄県知事島田明だ
01:08沖縄の島森と呼ばれた島田は死ぬことを求められた時代に
01:15周囲に生きることを繰り返し説いていた
01:18その一方で本土防衛の捨て石とされた沖縄への赴任は
01:23共に死を覚悟してのものだった
01:26戦争の仕方
01:29日本軍とアメリカ軍の戦争の仕方は全然違う
01:34海軍部隊で伝令を務めていた上上義義孝さんは
01:40司令官太田を公表す
01:42ただいろんな言葉からいろんな情報からして
01:48本人の行動からして私は戦争は反対だ
01:52戦争は賛美者じゃなかったかと思う
01:55太田は数多くの言葉を残していた
02:00そこに込められたメッセージとは何だったのか
02:04異色の司令官が残した伝言とは
02:08明治24年千葉県に生まれた太田は
02:23志望校の受験に失敗し海軍を志した
02:26海軍では陸戦隊に所属
02:30その陸戦に長けたリーダーが求められての沖縄不認だったが
02:35その沖縄に人間太田が読み取れるあるメモが残っている
02:41米国は敗日をなし不都合なりとせむる日本人は
02:48朝鮮人に対し台湾人に対し
02:53いかになしやりやを考えてのち
02:55米国を責むる幾人ありや
02:58当時の軍人とは思えない大胆な意見
03:04さらに
03:07孔子曰く
03:09立国上理想主義
03:12礼節、異色、兵備のうち
03:16第一に移るべきは兵備
03:19昭和7年日中戦争への入り口となった
03:25上海事変から戻った時の父の言葉を
03:28娘たちは今も忘れられないでいる
03:31こんなエピソードもある
03:52肺結核にかかったことで
03:55衛生面にうるさくなっていたという
03:57長崎県佐世保市
04:17一家が最後に共に暮らしたのがこの地だった
04:21太田は佐世保海平団長として
04:25新平らの教育に当たっていた
04:27その日は突然訪れた
04:30電話は昔の壁掛け式っていうんですか
04:35それで電話があって
04:37お母様そこに座ってたと思うんですよ
04:40で、めったに電話なんてかかってこないから
04:42お母様はもちろん立ちますよね
04:45で、私は見えるわけですよ
04:47お母様の顔が
04:48そしたらパッと変わったんですね顔色が
04:51だからあっと思ったんです私は
04:55沖縄赴任の命令だった
04:58出発前夜は家族にとって
05:02いつもと違う特別な夜だったという
05:04そして昭和20年1月19日
05:10太田は家族とこの道を歩き出発していった
05:15無言の別れだった
05:18お父様が何にも言わないで
05:23一人一人に教師の礼をして
05:26で、最後ならだったんですね
05:29そのまんま
05:30それがもう本当に生きた
05:32あのお父様の最後だった
05:35沖縄の玄関口、那覇空港
05:44付近には海軍兵1万人が配置されていた
05:49太田が降り立ったのは
05:52その前身のオロク飛行場
05:55オロクはまさに海軍の拠点で
05:58早くから攻撃の的になっていた
06:00そのオロクの地で出会ったのが
06:05島田知事である
06:06きっかけは那覇港での救援物資や食料の陸上げの際
06:11作業の手際が悪いと
06:14太田が沖縄県の熊崎輸送課長を出席したことだった
06:18当の熊崎はこう振り返る
06:22今夜中に運べないとはなんだ
06:27島田知事はどこだと猛虎のごとくたけり狂った
06:31悪人は無責任だ
06:34運べなければ責任を取れ
06:38数日後、太田は島田や熊崎を遠赤に招待している
06:43オロク飛行場近くの海軍の施設だった
06:47太田司令官は真っ先に私に杯を差しながら
06:54那覇港内の船舶を港の外へという陸軍に反対して
06:57貴重な物資を一個でも多く陸上げすべきだと主張した立場上
07:01俺も一生懸命だった
07:03勘弁してくれという
07:05あなたの面前で死んでやろうと思ったが
07:10あいにく拳銃に装填してなくて命拾いしたと答えたら
07:14たじまち腹をゆすってすまんすまんと笑い出した
07:17一気に場が和み、息統合した太田と島田は
07:23簡単相照らす仲となった
07:25ただ、この時言及した陸軍との関係は
07:30その後の戦いに大きな影響を及ぼすことになる
07:33沖縄戦は4月1日
07:42アメリカ軍が沖縄本島に上陸し本格化
07:45圧倒的な戦力で日本陸軍の司令部がある首里を目指した
07:51一方、太田率いる海軍の拠点、オロクでは
07:56ゴーと呼ばれる自然洞窟に置かれた司令部が
08:00激しい攻撃の中で移動を繰り返していった
08:03その一つは今も戦いの跡を残している
08:085月上旬、総攻撃に失敗し
08:16日本軍主力部隊の兵力が3分の1に低下すると
08:20陸軍は海軍兵力の切り込み隊への投入を求めた
08:24自らの部隊が引き抜かれ
08:27首里防衛の最前線に送り込まれる作戦に
08:30太田は大きな疑念を抱いていた
08:32槍を主体とする右翁の州となる
08:36海軍兵力をして要塞を放棄し
08:39歩兵として使用するの具
08:41陸軍との確執はその後決定的となった
08:475月22日、陸軍は方針を転換
08:52首里を放棄し南部撤退を決めた
08:56指揮下にあった海軍にも
08:58陸軍援護のため南部への移動を命じた
09:01しかし、思惑より早く海軍が移動を完了したことに
09:07驚いた陸軍は
09:08おろくへ戻るよう命令したのである
09:11それは移動を完了した翌日のことだった
09:18太田は淡々と事実を報告している
09:22戻った後に陸軍は再び南部への移動を命じたが
09:28今度は太田がおろくを動くことはなかった
09:32この時の天末を太田の部下が主旗に残している
09:41陸軍は豪の民間人を追い出して
09:44軍隊が豪に入って戦うというのだが
09:47海軍の司令官はこれに怒って
09:50軍隊というものは住民を守るのが目的であり
09:54これを艦砲射撃にさらすのは忍びないといって
09:59急遽元の守備陣地おろくに戻った
10:02そして今後は陸軍との共同作戦はできないとして
10:07海軍は自らの手で築いた陣地で最後まで頑張り通した
10:13そのおろくにアメリカ軍が一気に攻め込んできた
10:19今は埋め立てられ
10:24那覇空港ターミナル地区となっているこの場所に
10:276月4日アメリカ軍が再上陸
10:30午前5時上陸開始
10:35猛撃を加わるなど撃退に努めしも
10:40敵は逐次浸透
10:43この砲台からの反撃もとても立ち打ちできるものではなく
10:49最後に構えた拠点も陥落は時間の問題となっていた
10:55最後の時は近づいていた
11:16敵戦車軍は我が司令部洞窟を攻撃中なり
11:23根拠地帯は11日23時30分玉砕いす
11:29猛攻撃の中アガリエさんが司令部号に飛び込むと
11:34しばらくして外へ出ろと上官に命じられた
11:38その瞬間聞こえたのは乾いた発砲音だった
11:43司令官たち自決だと出ろと言って追い出された
11:48ピストル自殺中です
11:50沖縄赴任から144日後のことだった
11:56全滅の時が迫る中で太田はある命令を出していた
12:03戦死しなさいじゃなくて自決しなさいじゃなくて
12:09国上に脱出しなさいということが太田さんの指令なんですよ
12:14国上に脱出しなさいの意味というのはやはり
12:16生き残れということです
12:19軍人としては言えないことですよ
12:22そして生きることを部下に命じたのをあえて陸軍首脳に伝えていた
12:30敵後方を拡乱または遊撃戦を遂行のため
12:36総統数の将兵を残地す
12:40右将来のため一言申し残す次第な
12:46脱走ではなく自分が命じて脱出させたことを強調したのである
12:54沖縄戦で巡り合った知事と軍人は
12:59時代に逆らう価値観を共有していた
13:02沖縄戦は陸軍が撤退した南部で
13:09避難していた多くの住民が戦闘の巻き沿いになった
13:13おろくに留まった海軍が陸軍と一線を隠していたことに
13:18評価の声はある
13:20が、とどまったことで住民の多くが犠牲となったのも事実だった
13:25日本の大学で唯一の沖縄戦の抗議を行う吉浜教授は
13:33おろく地区に接する当時のトミグスクソンの住民犠牲者の多さに注目している
13:38アメリカ軍は海岸線から上陸する一方で
13:43時を同じくして首里方面からも海軍司令部を目指し進行した
13:48完全にこのトミグスクが包囲されている
13:54米軍に包囲されている状況が分かるわけです
13:57そしたらそこにいた住民は逃げば失う
14:01実際は砲爆撃、つまり鉄の暴風にさらされる
14:05軍民混在の状況があると
14:08そういう中での3名に1人の
14:111000名余りですね
14:14トミグスクの人がそこで亡くなったという事実を忘れてはいけないと
14:19沖縄戦で亡くなったトミグスクソン出身者の3人に1人が
14:25アメリカ軍に包囲された村内で犠牲となっていた
14:28それも海軍が亡くに戻って以降
14:32大たら幹部が自決するまでの期間に集中していた
14:36軍隊は戦争をやるものですから
14:39住民はそうじゃない
14:41そういう立場の違うのが
14:44同一戦場に置かれた場合
14:46一体どうなるかという事でしょうね
14:49軍人と民間人が混在した事による悲劇は
14:54海軍の拠点の周辺でも起きていたのである
14:57住民の犠牲が軍人を上回った沖縄戦で
15:02沖縄の人々が得た教訓は
15:04軍隊は住民を守らないだった
15:07沖縄戦の実装は
15:10大田の目指した形とはあまりにもかけ離れていた
15:21毎年この旧海軍司令部号を訪れるのは
15:24大田実の三男、落合太夫さんだ
15:28大田が沖縄に赴任した当時5歳だった落合さんは
15:36その後、いわば父の後を継いで海上自衛官になっていた
15:41その落合さんは沖縄が日本に復帰した1972年
16:01父を追うように沖縄に赴任していた
16:04復帰と共に配備された自衛隊に人材を集める責任者として
16:09戦争の傷が消えない復帰直後の沖縄と
16:13正面から向き合う日々だった
16:15ここが我々だったんですよ
16:22こういうところに全部赤いビラを貼られて
16:283枚の、今でもそうでしょ、シャッターなんでしょ
16:31そのシャッターに夜中でスプレーで落書きして
16:35我々毎朝起きてね
16:37まずこのシャッターの前のスプレーを消して
16:40それからシャッターのところに貼ってあるビラを剥がして
16:43この辺を剥がして、それから仕事が始まるんです
16:46復帰直後の沖縄には沖縄戦で住民を虐殺するなどした
16:53日本軍の再来だと自衛隊への強い抵抗感があったのである
16:57なぜこれほど自衛隊は嫌われるのか
17:02落合さんは反発心さえ抱いていた
17:05しかし、ある人の言葉が気持ちを変えさせた
17:10復帰運動をリードした矢良長廟知事である
17:15初めての面会で抗議するつもりだったが
17:18かけられたのは意外な言葉だった
17:21しかしあなたのお父さんが沖縄県民各戦い
17:24あの電報を打ってくれたおかげで
17:27今日沖縄県は日本に復帰できたんですよ
17:3027年間沖縄は里子に出されたんです
17:35それはやっと20年経って親元に帰ってきたんですよ
17:38その気持ちを汲んでやってくださいって
17:41沖縄について勉強してくださいって
17:43コンコンと言われちゃったとかでびっくりしてね
17:46それでも悩むと落合さんの足は
17:50父の最後の場所に向かっていた
17:53支えていたのは司令官室での父との対話だった
17:58お前何やってんだこの野郎って
18:01怒られというような印象は強いですよね
18:03これはもう精神誠意ね
18:05誠意に尽くすしかないということで
18:08なんてベストを尽くしがないということですよ
18:12そしていつしか沖縄の人に
18:16溶け込めるようになっていたという
18:18体感して18年
18:22落合さんはOBとして
18:25後輩や関係者への講演を続けている
18:28自衛隊初の海外実任部
18:38ペルシャ湾での嫌い除去活動
18:401991年
18:42総海底部隊を率いたのが
18:44当時の落合一等会社だった
18:47湾岸戦争後とはいえ
18:50命の危険がつきまとう中で大きかったのは
18:53父の存在だった
18:54戦友交絡というかね
18:57司官戦闘とかね
18:58要するにその
18:58まず部下を思いということが
19:02ずっと至るところにありますよね
19:04そういったのはやっぱりね
19:06そうだなと思いましたよ
19:08だから心がけてはいましたね
19:11ともかくまず考えることは
19:13まず隊員のこと
19:13部下を思うその原点は
19:17玉砕主義に抗い
19:18生きることを命じた父の
19:20あの伝聞だった
19:21脱走したんじゃないよ
19:23俺の命令で生きるために
19:25みんなをそのためにこれを出した
19:27あの家はね私好きなんですよ
19:29みんなが国にあげてさ
19:30そうやってあの捕虜になるな
19:32山添魂でなんとかってね
19:34そういう
19:34その時に部下のことを思ってね
19:37あれはあの伝聞はやっぱりすごいなと思うんですよ
19:405歳で別れた父と息子を
19:43沖縄が結びつけていた
19:45島田の思いも受け止め
19:51太田が打電したのは
19:52戦場の沖縄県民の苦難だった
19:55軍事はそのサイレントネイビーでね
19:59ことあげしちゃいかんっていうのにね
20:00ああいう文章を書いてきたっていうことは
20:03よっぽどのことがあったんだと思ってね
20:06うんやっぱり
20:08変な話だけど
20:10父がかわいそうだなと思いました
20:12言いたくないことを言ったんだと思って
20:14沖縄県民の実情に関しては
20:25県知事より報告せらるべきも
20:27県にはすでに通信力なく
20:30本職
20:31県知事の依頼を受けたるにあらざれども
20:34現状を看過するに忍びず
20:36これに代わって緊急ご通知申し上げ
20:40県民は青少年の全部を防衛招集に捧げ
20:45残る牢用扶助士のみが
20:48相次ぐ砲爆撃に
20:50家屋と火災の全部を焼却せられ
20:52わずかに身をもって
20:55軍の作戦に差し支えなき場所の
20:58消防空壕に避難
20:59若き夫人は率先軍に身を捧げ
21:04看護婦放水婦はもとより
21:07砲弾運び
21:08挺身切り込み隊すら申し出るものあり
21:11さらに軍において作戦の大転換あるや
21:16輸送力皆無のもの
21:19黙々として宇宙を移動するあり
21:22陸海軍沖縄に進駐以来
21:26終始一貫勤労奉仕
21:28ひたすら日本人としての
21:30ご奉公の守りを胸に抱きつつ
21:33一目一掃
21:34消土と河川
21:35両職6月いっぱいを刺さうるのみなりという
21:40沖縄県民各戦いり
21:44県民に対し
21:46後世
21:47特別のご後輩を賜らんことを
21:51司令官の身を僕は当時
21:55当時ね
21:56いろいろ考えたけど
21:58非常につらかったと思いますよ
22:00どんなことがあっても
22:08戦争だけはすべきじゃないです
22:10太田の遺骨が収集されたのは
22:20自決から7年後のことだった
22:22太田の部下だった3人によって確認された
22:26沖縄の土になると言っていたという太田は
22:47今最後の場所に眠っている
22:50平和って何だろう
23:02平和ってみんなが笑顔になれるっていうこと
23:05平和ってみんなが笑顔になれるっていうこと
23:106月23日待たず
23:17系統の花散りました
23:23長い長い煙たなびく
23:29子どもたちを見てくださいね
23:38あれ今言ったの一番ですよ
23:39あれが一番じゃないそれぞれが
23:40平和って何だろう
23:42平和って何だろう
23:43全部言ってましたよ
23:43笑って暮らすことです
23:44それが続けばいいですね
23:47と思います
23:47異色の司令官が
23:51後世へ伝言を託してから69年
23:54その目に
23:55今のこの国に広がる風景は
23:58どう映るのだろうか

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