プレイヤーにスキップメインコンテンツにスキップフッターにスキップ
  • 2025/5/13

カテゴリ

🗞
ニュース
トランスクリプション
00:002011年4月1日 上野動物園には長蛇の列ができていた
00:08みんなのお目当てはジャイアントパンダのシンセル
00:16そしてリーディ
00:23そもそもパンダが初めて日本にやってきたのは今から40年前
00:28愛らしいその姿を一目見ようと公開初日に詰めかけた人はなんと5万6千人
00:37実はこのパンダは中国から日中国交正常化の証として贈られたものだった
00:49日清戦争 満州事変 日中戦争を経て
00:58長い間国交断絶状態だった日本と中国
01:04この両国の国交を回復した立役者こそ
01:11中華人民共和国初代首相周恩来だった
01:17一定能が在本市地内保護・建設成為社会主義的現代チャンゴ
01:26近代中国の礎を築いた周恩来
01:32そこには彼と日本との深い絆があったことをご存知だろうか
01:38若き周恩来が大正時代の日本に留学していたことはあまり知られていない
01:47東京で学ぶ日々の中
01:53彼はある日本人の思想に触れ大きな影響を受けていた
01:58世界を驚かせたアメリカ・ニクソン大統領の電撃放置
02:04国交断絶状態だった中国とアメリカを結んだ
02:11世に言うピンポン外交
02:13その裏に周恩来の思いを受け
02:18中国とアメリカを繋いだ日本人がいた
02:24アメリカ帝国主義反対 日本軍国主義反対
02:27そういうスローガンが地面に書かれていまして
02:30それで中国へやりたい
02:32中国全土に吹き荒れた文化大革命の嵐
02:37混乱し世界から孤立する中国を救うため
02:44周恩来がその希望を託したのが
02:47日本との国交正常化だった
02:50周恩来 そして日本の総理大臣田中閣営と
02:58外務大臣大平正義
03:01彼らはいかにして歴史を大きく動かしたのか
03:06大平の秘書のメモが物語る
03:11日本と中国の壮絶な駆け引きの真実とは
03:15そして その舞台裏を写した一枚の秘蔵写真
03:27周恩来と日本との絆が焼き付けられていた
03:33晩年 命が燃え尽きるその瞬間まで
03:47辛い道のりを歩んだ周恩来
03:50周恩来が亡くなる2ヶ月前
04:09日本に植えられた桜がある
04:17周桜と名付けられたこの木に
04:19周恩来のどのような思いが込められているのだろうか
04:23周恩来と日本の秘められた物語が
04:43今幕を開ける
04:451898年3月5日
04:52中国 江蘇省に生まれた周恩来
04:55家は貧しく 生後間もなく養子に出されるなど
05:02幼い頃は決して恵まれてはいなかった
05:05この老いたちが彼の生涯を貫く性格を作り出したという
05:11時代は不運休を告げていた
05:28周恩来13歳の時 中華民国が建国
05:34その混乱に乗じ 別境は大陸で利権を奪い合っていた
05:40そんな歴史のうねりに 周恩来も嫌悪なく巻き込まれていく
05:46この時 祖国を憂う若き青年の目に映っていたのは
05:55急速な近代化を成し遂げた 他ならぬ日本だったのである
06:01周恩来の生き方を決めた 日本留学
06:10東京 神田
06:16古書店街の喧騒から少し離れた 静かな公園に立つ石碑
06:22そこにはこう刻まれている
06:25周恩来 ここに学ぶ
06:32当時 日本は大正時代
06:38西洋の文化が入り 自由な雰囲気に包まれていた
06:45日本にやってきた19歳の周恩来は 大学入試のために予備校が用意をしていた
06:57当時 周恩来がつけていた日記が残っている
07:04浅草に出かけて過激を見た
07:09三越デパートに出かけた
07:13日本が近代化した国家になって 社会になっていろんな側面がある
07:18それを彼は非常に好奇心いっぱいで いろいろ見ている
07:23これは友人の一人
07:27後の洋画界の大化 安田隆文が描いた周恩来のスケッチ
07:32日本人の友人もでき 日本の知識も深まっていった
07:38そんな中 周恩来は ある日本人に興味を持つ
07:46吉野作造
07:50東京帝国大学で 教鞭をとっていた思想家である
07:55吉野が訴えていたのは 民本主義
08:02全ての国民の選挙参加など 国のもとは民衆にあるという思想だ
08:12吉野たちは何人かと 吉野の自宅に何回か訪ねていたんですね
08:21ただしアポイントを取ってという話じゃないから
08:24いつも留守で残念ながら 会えなくて帰ったということを
08:28日記の中に書き記していますけども
08:32求出路 专闇 要為国家社会發展
08:36貢献力量
08:39而不僅僅是個人的 利益的得失
08:42有这样的思想专闇
08:44この頃すでに日本は 中国大陸への展開を始めていた
08:53祖国の状況に心を痛める周恩来に 追い討ちをかける出来事が
09:00留学の最大の目的だった 大学受験に失敗したのだ
09:06失意の中 祖恩来は帰国を決意する
09:14京都 嵐山
09:20日本を離れる際立ち寄ったこの地で 彼は一遍の死を残した
09:26それが石碑に刻まれている
09:34雨の中を二度嵐山に遊ぶ
09:38両岸の青き松に幾株花の桜まじる
09:47日本の桜の美しさを目に焼き付け 周恩来は1919年4月に帰国した
09:58その後共産党に入党した彼は 公日運動に身を投じた
10:04その中で同志となったのが 他ならぬ毛沢東だった
10:13戦略家の毛沢東 実務家の周恩来が結びつき
10:18共産党は勢力を拡大する
10:22毛澤東庄園宣布 そして
10:25戦略 人民共和国
10:32戦略 戦略 戦略
10:38戦略 戦略
10:421949年 中華人民共和国建国
10:48周恩来は日本の首相にあたる 政務院総理として
10:53最高指導者毛沢東を 支えていくことになる
10:57信頼される安心を社会にお届けする セコム
11:03快適環境をクリエイトする 総合エンジニアリング 3期工業
11:09あなたの暮らしにちょうどいい
11:14for your just 山田電機の提供でお送りします
11:21北京にあった周恩来の住まい 聖火町
11:28この聖火町は周恩来にとって 家族と暮らす家であり
11:33首相として 質問を行う場でもあった
11:40周夫妻とここで一緒に 暮らしていた人がいる
11:47周恩来の名 周平義
11:50子供がいない周夫妻と 10年ほどともに暮らした
11:55国慶節や五一節の 晚上
11:57一般天安門 那個時候 城楼上
12:00還會上管理台 去看煙火
12:03天安門前面 有很多群人在那裡跳舞
12:07連環 也從來不讓我們去
12:11咱們在工作人員的後面
12:13他們都可以來 咱們也可以來
12:16根本就沒有 根本就沒有
12:18沒有任何 可能性到天安門上
12:24秘書として8年間使えた 紀藤もこう語る
12:28穿衣服 那個不用說
12:33縫縫補補 睡衣 襪子 車衣 都他補
12:37百姓一年
12:40就是費那麼大的力氣
12:42老百姓的生活水平提高一下的話
12:44說不定才就是二尺補 增加二尺補
12:48那麼 他省下了一件是一件
12:52他省下了一斤是一斤
12:55人民の総理
12:59常に民衆に心を砕く衆恩外のことを 国民はそう呼んだ
13:06ところが
13:091970年代初頭
13:11文化大革命の嵐が全てを巻き込んでいく
13:15赤い猛主席語録を振りかざしながら
13:19新しい社会主義の創生を叫ぶ学生たち
13:24資本主義を徹底的に否定し
13:27知識人や地主などを次々と粛清していった
13:30その数一千万人とも言われている
13:33文革の中で権力を握ったのは
13:40毛沢東の妻 後世など
13:434人組
13:47彼らは自らの権力を確実なものとするために
13:51毛沢東に代わって国家主席の座にいた
13:54流少期など政治の中枢にいた政治家たちを追い落とした
14:04しかしその中で習恩来だけは失脚することなく
14:09首相として一人身を小にして国の立て直しに奔走していた
14:14習恩来がいなければ中国は崩壊する
14:26そう考えた毛沢東は
14:304人組が習恩来を引きずり下ろすことを許さなかった
14:34だがまさにこの時
14:39彼が歩んでいたのは茨の道に他ならなかった
14:42当時
14:48東西冷戦の中
14:50日本やアメリカなど西側諸国と関係を深めていたのは
14:54共産党との戦いに敗れ
14:56台湾に逃れた
14:58紹介石
15:06中国はこれに猛反発し
15:08一つの中国を主張
15:09台湾を国家として認めないよう強く求めた
15:14そのためアメリカ中心の世界の中で孤立を深めていった
15:18さらに同じ共産主義国家として手を携えてきた
15:28ソビエトとの間でも国境紛争が勃発する
15:30このままでは国際的孤立が深まり
15:38中国の近代化がさらに遅れる
15:41状況を最も憂慮していたのは
15:45やはり習恩来だった
15:46唯一の突破口は
15:53国交を断絶している西側諸国との関係正常化だったが
15:58政治レベルでの交渉には
16:00あまりに多くの壁が立ちはだかっていた
16:03ピンポンで未来を開いた日本人
16:13この時習恩来は一人の日本人に目をつける
16:22日本卓球協会会長後藤浩二
16:27東京生まれの教育者であり卓球の指導者だ
16:32習恩来の日本語通訳を長年勤め
16:37共産党の養殖を歴任した林玲雲は
16:41この時の彼の思いをこう語る
16:44ピンポンの行き来を続いて
16:48運動選手たちの交流を続いて友好を深め
16:52それが国交の正常化とか
16:55国の環境を改善する一つの橋渡しになる
17:00非常に大事なルートだということを感じておられたんでしょうね
17:05他應該說他對於文化大革命
17:09是不是能夠完全的理解和認同的
17:13打開世界和世界走向世界
17:17与世界的發達國家也好
17:20發展動國家也好和平的相處
17:22不僅有助於中国的經濟建設
17:24其實也有助於中國這種文革的
17:281971年1月24日
17:32後藤は中国へ向かった
17:373月に日本で開催される世界卓球大会に
17:42最強の中国チームを招聘したいと考えたのだ
17:45しかし
17:48それは容易なことではなかった
17:51後藤と共に中国に渡った秘書の小田雄介は
17:56当時の状況をこう語る
17:59後藤先生もハンチングに
18:01メガネにマスクという変装で
18:05それだけ難所で行くということは
18:07危ない目というのが想像できたということ
18:10想像じゃなくて実態としてありましたね
18:13トラックで右翼が突っ込んできたり
18:15それから後藤孝先生の家の近くで
18:19右翼がいろいろな演説をして
18:22それは大変でした
18:27日本を飛び立った後藤らは
18:29香港経由で中国深圳に入った
18:33小田は最初に目にした中国の印象をメモに残していた
18:42赤の多い国だ
18:48当時は香港はイギリス軍が統治していましたので
18:53ラコ側にはイギリス軍、深圳側には中国軍が
18:56それぞれ機関銃を構えて
19:00臨戦態勢を取っていると
19:02その中をバックを持って歩いていく
19:06中へ入ると
19:08もうスローガン、中国はですね
19:10赤い壁に白の字で
19:12くっきりと自立構成とかね
19:15アメリカ帝国主義反対
19:17日本軍国主義反対
19:19そういうスローガンが地面に書かれていまして
19:22それで中国へ入った
19:23後藤は早速中国の担当者と交渉に入った
19:29だがそこに台湾問題が大きく立ちはだかる
19:33中国は台湾チームを大会から排除するよう求め
19:41それを文書に明記することを強く要望してきたのだ
19:44あなたたちが言う台湾
19:50傀儡政権、紹介席一派とか
19:52そういう激雑な部分は
19:54私としてはまとめるわけにはいかないと
19:57後藤先生は最終的には
19:59よしこれで終わりと
20:01もう帰ると
20:03交渉は決裂した
20:06失意の中、後藤は荷物をまとめて帰ろうとした
20:11その時、事態は急展開する
20:15中国側がすごく情報してくれた
20:19中国の態度が難化した裏にはやはり周恩来の存在があった
20:31後藤先生は政治家、政治家じゃないから、中日陽光を望んでおられる方だから、後藤先生の今回の中国訪問を実りあるものにするようにということを気を配られたということですね。
20:46担当者から交渉の報告を受けた周恩来が、情報するように厳しく言ったのだ。
20:55そしてその日の夜、後藤と周恩来の会談が実現した。
21:01後藤先生には7億の人民がついています。後藤先生を支持しますという、本当に熱い支持方面がなされました。
21:11後藤の報酬から2ヶ月後、台湾チームに代わり、中国チームが参加した世界大会が名古屋で開かれた。
21:20どこの国にも劣らない気持ちを心の奥深く秘めて、歓迎を申し上げております。
21:316年ぶりに大会に復帰した中国チームが下馬評通り、快進撃を続けて女子ダブルスなどで優勝。
21:42後藤も自ら中国チームの世話を焼くなど、大会成功のため会場を走り回っていた。
21:49後藤の娘向こう、後藤篤氏は、世界大会での父の様子をこう語る。
21:58その大会の最中、一つのニュースが世界を驚かせることになる。
22:17中国が国交断絶中のアメリカ卓球チームを招待する。
22:27このニュースをスクープしたのが、共同通信社の記者だった中島博史。
22:34後藤に別の話を聞こうと近づいたとき、思わぬ会話を耳にしたのだ。
22:40通訳の方がですね、先ほど宗中さんが私のところに来て、アメリカチームを中国に招待しましたと、こういう話がそこで出てきたわけです。
22:53非常に驚きましてね。
22:56それをね、聞いて後藤先生はびっくりされて、そこへ進むなんていうことは、おそらく卓球中国代表団も後藤孝先生も、そこまでは考えてなかったと思います。
23:08その年の4月、アメリカ卓球チームが報酬。
23:14これが世に言うピンポン外交。
23:19政治レベルでは不可能だった米中関係の雪解けを、周恩来と民間人後藤が成し遂げた。
23:27しかし後藤は、そんな歴史のうねりを見ることなく、名古屋大会の翌年、休止する。
23:38周恩来は後藤との絆を忘れることはなかった。
23:46死から4ヶ月後、遺族を北京に招待し、こう語りかけた。
23:52水を飲むときには、井戸を掘った人を忘れない。
23:59これはみんな感激して嬉しく思って聞いておりましたよ。
24:04中国人民はいつまでも後藤先生のことを忘れない。
24:10そう遺族を励ましたのだ。
24:16そして、名古屋を舞台にしたピンポン外交の翌年、アメリカニクソン大統領の報酬が実現することになる。
24:28一枚の写真が物語る日中国交正常化秘話。
24:351955年4月、インドネシアのバンドンで行われた第一回アジア・アフリカ会議。
24:44その会場に習恩来の姿があった。
24:481949年建国の中華人民共和国にとって、初めての国際会議への参加だった。
24:59日本の代表は、当時の経済審議長長官、高崎達之介。
25:05事業家として長く旧満州に滞在していた中国通だった。
25:11バンドンでの会議期間中に、国交のない中国と日本の代表、習と高崎は極秘に退団。
25:22民間レベルの貿易交流を軌道に乗せることで合意した。
25:281962年に日本と中国の間で調印された日中貿易は、中国代表の梁翔氏、日本代表の高崎の頭文字を取って、LT貿易と呼ばれることになる。
25:47高崎と同じ時期に、政治面で日中関係の打開を模索したのが松村健三だ。
25:55松村は、幾度も中国を訪問。
25:58周恩来と信仰を深めていく。
26:02当時、台湾との関係を重んじていた日本政府の中で、周恩来が最も腹を割って話ができる政治家だった。
26:14日中国交正常化の架け橋として奮闘した、松村のような貴重な人物もいた。
26:21しかし、1970年代初頭、日中関係は最悪の状況だった。
26:33時の佐藤英作政権が外交関係を結んでいたのは台湾。
26:40あの温厚な周恩来が佐藤のことを名指しで批判するほど、両国の関係は悪化していたのである。
26:511972年7月、田中閣営政権が誕生。
26:56戦後最年少となる54歳で総理の座を射止めた田中。
27:03今大公と呼ばれ、庶民の人気も絶大だった。
27:09この田中政権の発足を日中関係修復のきっかけにしたいと大きな期待を抱いていたのが、ほかならぬ周恩来だった。
27:25中国側はですね、もうはっきりと3月頃からですね、田中内閣を設置したりですね、自民党の親中派の大議士への伝言としてね、次の内閣では田中さんを支持してほしいということをですね、中国のある指導がですね、伝言してるんですね。
27:51政権を握った田中は早速、日中国交正常化に動き出す。
27:58共に交渉に当たったのが、外務大臣の大平正義。
28:07東京商科大学を卒業後、当時の大倉賞に入賞。
28:12性格は緻密で真面目。国際派として活躍し、後に総理に上り詰める人物だ。
28:19大平の娘、吉子は当時のことをこう語る。
28:28父はやっぱり外交が政治っていうことをなんか常に思ってた人だから、日本のために働けるなと思ってました。
28:411972年9月25日、早朝の羽田空港。
28:54北京に旅立つ田中や大平らを見送ろうと、多くの人々が集まっていた。
29:04田中と大平の顔にも緊張の色が濃い。
29:11午前8時10分、離陸。
29:14中国と国交を回復すると、日本国内の台湾派や右翼が騒ぐ。
29:21失敗すると政治生命をたたる。
29:24それは難しい旅の始まりだった。
29:29大平に同行した秘書、森田はじめ。
29:36大切に保管していたノートを今回見せてくれた。
29:44そこには、報酬した際の大平たちの様子が国名に書き記されていた。
29:5310時40分、中国大陸が見える。
30:00あれが大陸か。
30:03という大平外務大臣の言葉には、昔中国にいたことのある人のみが持つ親愛の念がこもっている。
30:14大平にとっては戦前、大蔵官僚時代以来の報酬だった。
30:24田中大平を乗せた機体は帝国通り、現地時間の11時半に北京空港に到着した。
30:37官邸カメラマンとして歴代総理の写真を撮り続けてきた久保田富弘。
30:47タラップから降りてきた田中さんの足音が聞こえるくらい静かな空港でした。
30:58それは戦後初めて、日本の総理大臣が中国の地を踏んだ歴史的瞬間だった。
31:08その夜、600人が出席した周恩来主催の晩餐会が開かれる。
31:19田中はおしぼりで顔を拭くなど慌ただしい。緊張感の中にも和やかな雰囲気。
31:28しかし、このムードは田中のある一言で一変する。
31:38過去数十年にわたって、日中関係はいかんながら不幸な経過をたどってまいりました。
31:48この間、我が国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて。
31:59ご迷惑の中国語訳は、ティエン・ラ・マーファン。
32:05うっかり迷惑をかけるというほどの軽い謝罪の言葉。
32:10その時の周恩来の映像が残っている。
32:14じっと田中のスピーチの翻訳に目を落とす周恩来。
32:21もうね、会場が中国の人多いでしょ。
32:24聞いた時、ザガザガザガと。
32:26そういうざがめきが起こったんです。
32:28いや、まずいなあ、悔や訳し方をしてって思ったんですよ。
32:34初日から起きたその後の嵐を予感させる出来事。
32:38実は、日中の間には容易には乗り越えられない問題が横たわっていた。
32:49日中国交正常化の本格的な交渉が始まった。
32:55中国が強く主張したのが、戦争状態の終結を日中共同生命に盛り込むこと。
33:03しかし、日本は紹介席率いる台湾との間で、すでに戦争終結の条約を結んでいて、
33:12今更戦争が終わっていないとは言えない状況だった。
33:16森田の日記にもこうある戦争状態の終結が一番厄介な問題。
33:25一度結んだ外交条約を無効だったとするのは不可能に近い。
33:34解決の糸口が見えず身動きが取れなくなっていた大平に田中はこう声をかけた。
33:42大学ではダメだな、ちょっとしたらすぐ仕上げちゃってとか言って、そんなこと言ったって、これどうするんですかって、それは大学では考えなきゃと言って、そのひと言で大平総理が、これはどうしよう意味で、日本側には日本側、日本の国民には日本に都合のいい表現、中国には中国の都合のいい表現という、そういうのを考えるんだなと、その瞬間に思いついたんだと思います。
34:08田中の言葉に気が楽になった大平は一つの妙案をひねり出す。
34:18日中共同生命を見てみると、
34:24戦争状態とは言わずに、不正常な状態という言葉を使い、両国がそれぞれの都合の良い意味に取れるようにしたのである。
34:35そして、日本の法中団は突然呼び出される。
34:42待っていたのは、中国の最高権力者、毛沢東。
34:48毛沢東が田中に会う。
34:52それはまさしく、交渉がまとまったことを示していた。
34:57田中師匠は中南海の毛石のお部屋に伺ったとき、私そばにいて、やっぱりすごく固くなっておられるという感じでしたよ。
35:09本当に顔が赤くなってね、汗もかいておられて、そしたら、毛石は非常にゆうまらしいね、その気持ちを保つためにね、最初に言ったことは何かと言いますと、けんか終わりましたかって。
35:25で、もう田中師匠さん、いや、もうけんか終わりました、そして周曹で、いや、もう済みましたということで、それでみんな笑顔になって。
35:35そして、9月29日、日中共同声明調印式が行われた。
35:45ここに、歴史の新しい扉が開かれた。
35:51調印式後の乾杯。
35:55そう言って、酒の勧めを断っていた田中。
36:05そこに周恩来がやってきた。
36:07そして、目の前で、ぐいっと酒を飲み干した。
36:13田中も答えないわけにはいかない。
36:19結局、2人は杯を開けた。
36:25ここに1枚の写真がある。
36:31田中の背中を支える周恩来の厚い手。
36:35その手には、どんな思いが込められていたのだろうか。
36:39退場するときにですね、田中さん立てなくなっちゃった。
36:46それで、立ち上がってもフラフラしてね、本当に危なかったんですけども。
36:51それで隣にいた周首相がですね、そっと手を差し伸べてですね、田中さんを力強く、柔らかく差し伸べながら、会場を後にしたっていう。
37:0974歳の周恩来が身を削り、成し遂げた日中国交正常化。
37:17しかしこの年、その体ががんに蝕まれていることが判明する。
37:23中国のため、身を削って働いてきた周恩来。
37:32だが、1974年6月、ついに倒れ、入院を余儀なくされた。
37:40膀胱がん、すでに末期だった。
37:44末期だった。
37:54入院から半年後の1974年12月、
37:59闘病中にも関わらず、周恩来が病をしてまであった日本人がいる。
38:05当時、創価学会の会長だった、池田大桜。
38:09話は6年前、1968年に遡る。
38:18池田はある集会で、2万人を前にこうスピーチした。
38:23まず、両国の首相が、最高責任者が話し合って、
38:29基本的な平和への共通の意思を確認し、
38:35対局間、基本線から固めていく。
38:39そして、それから細かい問題に及んでいく。
38:42この、いわば演劇的な方法でいくことが、
38:47問題解決の軸道であると主張しておきたいなります。
38:52池田による日中国交正常化の提唱は、
39:00外国のニュースなどを報じる中国の新聞、
39:03参考消息で中国国内に報じられた。
39:06池田大作氏、日本の反中国政策の停止と国交自立を主張。
39:14そして、1968年と記憶しているんですが、池田提言。
39:20あれを、この首相で知った後、
39:24池田先生は非常に、
39:26中日環境を大事にしておられる。
39:28こんな素晴らしい提言をしている方だなという。
39:31だから、そういうことで、
39:34その人たちも、中日友好の流れの中に、
39:38中国側も組み入れて、お付き合いしなくちゃいけないというふうに
39:42感じておられたんですね。
39:45それで、1974年に、
39:47正式に、中日友好協会のご招待で、
39:51この池田先生の第一回報酬が実現できました。
39:561968年9月8日、
39:59池田先生、
40:01発表日中邦交正常化暢言。
40:03この消息は、
40:06劉斗友先生、
40:08通過劉斗友先生、
40:09传達到、
40:10周董理の中で、
40:12中国に、
40:13参考消息、
40:14これらの事件を報道しています。
40:16この研究的角度は、
40:20周董理は、
40:21非常に重視、池田先生の暢言。
40:24中国に、
40:26日本国を打破に、
40:28外交の困境に、
40:29今回は、
40:31負けた大きな作用。
40:35そんな経緯を経て実現した会談は、
40:38当初、5分程度と見られていたが、
40:4130分にも及んだ。
40:43話し合いのさなかにお医者さんがメモを私の手に渡して
40:50総理会見の時間長すぎますということでお休みくださって
40:54それをこうお読みになって
40:56そこのサイドテーブルに残してまたずっと話し続けている
41:02周恩来が伝えたかったこととは
41:06日に両国人民の世世代代の友好
41:11すげえ長い友好
41:12これを続けなくちゃいけない
41:15これを本当にこの池田先生にも頑張っていただきたいという
41:21そういう期待気持ちが周総理に終わりになったと私は思うんです
41:27巡っていたのは懐かしき思い
41:32もう一度日本の桜が見たい
41:37翌年の11月日本で行われた植樹
41:44植えられたのは周恩来が愛していた桜の木
41:52シュウザクラと名付けられた
41:57中国の国秘留学生として
42:04創価大学に留学し食事に参加したリハイ
42:08今はまだ細い木ではありますけれども
42:14それを常に長い時間をかけて水をかけて太陽を渡して
42:20それから大木になっていくような
42:24心が非常に深く込められていたとも感じていました
42:301975年1月
42:33日本の国会にあたる全国人民代表大会が開催された
42:38そこで周恩来は最後のスピーチを行う
42:44日本政府が高級人として
43:14その年の暮れ
43:21秀恩来の秘書
43:23貴藤は病室に呼ばれた
43:44ちまさ我道宗里真正說出這個類
43:48這是第一次 也是最後一次
43:51朝早く集まるようにと言われてね
43:55集まったらもうこう
43:58公表部長が涙を流して
44:02習総理がお亡くなりになりましたって
44:07悲しかったです
44:11私に言わせると親を亡くしたよりももっと悲しかった
44:211976年1月
44:25秀恩来 死去
44:30秘書の祈祷は
44:32秀恩来の亡骸を乗せた車と共に
44:35仮想場へ向かった
44:41八宝三の庭裏の群衆
44:45全ての棺材を囲ってしまった
44:47無法動く
44:49哭声
44:49哀求大家
44:51同志們
44:53支持我的工作
44:55你們讓開一條道
44:56讓我来指向この人
44:59最後に一目会いたい
45:04そう思って集まった
45:06100万もの人々に見送られ
45:09秀恩来は静かに旅立った
45:13中国上海
45:18秀恩来がこの世を去って37年
45:22中国は急速な発展を果たし
45:26世界第2位の経済大国にもなった
45:29日本とは隣国同士
45:32様々な問題を抱えながらも
45:35互いに密接な関係であることは間違いない
45:40幸運に関係であることは
45:42安全な関係であることは
45:42耳さんを流向い
45:47再一次和總理会を
45:49你想最想和他说什么話
45:50最想和他说的
45:57最想說的
45:57真は
45:59私たちこの日現在は
46:01私たちや
46:01私たちのために
46:05私たちを
46:06私たちを
46:07私たちのために
46:08私たちに
46:09誰も誰も 想った
46:28中国の一重 面貌 她が高興
46:39シュウオンライがもう一度見たいと願った日本の桜は
46:55毎年満開の花を美しく咲かせている
47:01土地は南北を問わず人は肌の色で分けず世界の人々はみな兄弟
47:17その時になれば世界は大きく変わる
47:21ただ21世紀にならないと目にすることはできない
47:27私は見られない
47:30しかし若い人たちは目にする希望がある
47:36信頼される安心を社会にお届けするセコム
47:46快適環境をクリエイトする総合エンジニアリング3機工業
47:51あなたの暮らしにちょうどいい
47:55For your just 山田電機の提供でお送りしました
47:58ご視聴ありがとうございました
48:05ご視聴ありがとうございました

お勧め