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  • 2025/5/15

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ニュース
トランスクリプション
00:00:0010月10日
00:00:05台北では台湾で建国記念の日とされる
00:00:09操縦節の式典が行われました
00:00:12ちょうど100年前のこの日
00:00:16中国で侵害革命が勃発
00:00:19この革命でアジアで初めての共和国が誕生し
00:00:26中国は新しい歴史を歩み始めたのです
00:00:31革命の父孫文の歩みを変えりみる展示です
00:00:38孫文は長く続いた新朝を倒しますが
00:00:431925年革命の道半ばで亡くなります
00:00:48その孫文の意思を引き継いだ一人が
00:00:55紹介席でした
00:00:56紹介席は苦難の道を歩むことになります
00:01:01革命後も強大な軍事力で地方を支配していた
00:01:07軍閥との戦いが続きました
00:01:10加えて台頭してきた勢力共産党との内戦
00:01:19そして日本との8年に及ぶ戦争が待ち受けていたのです
00:01:29中国の統一を目指した紹介席は
00:01:40数々の試練にどう立ち向かったのでしょうか
00:01:442006年紹介席の日記が公開されました
00:01:51アメリカスタンフォード大学に遺族が帰宅したものです
00:01:56日記は1917年から55年間にわたって
00:02:05書き続けられていました
00:02:06現在その原本を撮影することは許されていません
00:02:18スタンフォード大学に通い
00:02:20日記のすべてを書き写した研究者がいます
00:02:23中国社会科学院近代史研究所の
00:02:31楊天関さんです
00:02:33日記には歴史の舞台裏が生々しく綴られ
00:02:43苦悩する自らの心の内も記されています
00:02:47今中国日本台湾の研究者が
00:03:09共同で紹介席日記の解読を進めています
00:03:13この国際的な共同研究から少しずつ
00:03:20新しい紹介席像が浮かび上がってきました
00:03:23紹介席が日本軍の大陸進出と向き合って以降
00:03:31日記にはたびたび
00:03:33設置という文字が現れます
00:03:35恥を進むという意味です
00:03:39日本に耐え忍び続けていく
00:03:44そうしないと国はいつか滅びてしまうに違いない
00:03:49いつかは恥を進む
00:03:53日記に書かれた設置
00:03:58これは国家の地獄であるばかりでなく
00:04:01個人の地獄でもあると深刻に考えたのです
00:04:06紹介席が設置と記した背景にあった
00:04:12日本との関係
00:04:13そこにはどのような心の葛藤があったのでしょうか
00:04:18新たに公開された紹介席日記をもとに
00:04:24侵害革命から日中戦争の時代をたどります
00:04:28紹介席が初めて革命の思いに目覚めた地
00:04:55それは日本でした
00:04:57紹介席は1906年19歳の時に来日
00:05:06東京の日本語学校で学んでいました
00:05:09池袋の歓声な住宅街
00:05:16ここで紹介席は
00:05:19その後の運命を変える人物
00:05:21革命の父孫文と出会ったと回想しています
00:05:25当時亡命中の孫文は
00:05:34革命の理解者
00:05:36宮崎東天の屋敷に身を寄せていました
00:05:39その昔の100年前と同じ場所なんですか
00:05:47同じ場所なんです
00:05:48宮崎東天の孫宮崎吹さんです
00:05:53やっぱり紹介席という方も
00:06:01日本に留学してやられましたので
00:06:05その当時も宮崎の家によく見えていて
00:06:08それで寄せ書にも名前が出ているようなことになっておりますよね
00:06:15日本に亡命した孫文の下に
00:06:19革命を志す多くの若者が集まりました
00:06:23彼らは宮崎東天の奔走によって
00:06:28革命を推し進める中国同盟会を東京で結成します
00:06:32紹介席も宮崎邸で孫文に出会い
00:06:36革命に心惹かれたといいます
00:06:38寄せ書きの中に見える小中世の文字
00:06:45中世は紹介席の名です
00:06:49孫文を中心とする中国同盟会に加盟した紹介席は
00:06:59軍人の道を目指します
00:07:01若き日の紹介席の目に映った
00:07:09祖国中国は滅亡の危機に瀕していました
00:07:13今年公開された映画1911
00:07:20身長が弱体化し
00:07:24侵害革命が起きていく過程が描かれています
00:07:27当時新庁は列強との間で不平等条約を交わしていました
00:07:51列強の進出は民衆の強い反発を招きました
00:07:56紹介席の目指す革命には
00:08:05一つの確固としたモデルがあったと指摘する研究者がいます
00:08:10台湾近代史研究所の研究員
00:08:14孔治新さんです
00:08:18自分の国に対する
00:08:20あの体制で一個まで改革しようも無理だと
00:08:23やっぱり全面的に革命しなきゃいけない
00:08:26それを彼たちはやっぱり日本に行って
00:08:28近代文明に初めて接触して
00:08:31世界はこういう風になってきたと
00:08:34じゃあ日本はそういう風に文明を進めていると
00:08:37どうしてそういう風に進めば
00:08:39やっぱり改革してからかるんですね
00:08:41そうしたら我々は同じ日本の
00:08:43明治維新、明治にある意味で革命なんですよ
00:08:46そうでしょ
00:08:46それを我々は明治維新を学んで
00:08:49中国は同じ道を走らなきゃいけない
00:08:51紹介席は日清日露戦争に勝利した
00:08:59日本の不国共兵の道を学ぼうとします
00:09:03陸上自衛隊高田中遁地
00:09:10戦前は陸軍第13師団の兵衛がありました
00:09:14紹介席はここで軍人の道を歩み始めます
00:09:21当時高田では
00:09:46新国からの軍人留学生を16人受け入れていました
00:09:50紹介席がそうした国費留学生の一人として
00:10:00高田に来たのは24歳の時です
00:10:03ここで1年間の軍務経験を積んだ後
00:10:10陸軍士官学校に入学することになっていました
00:10:13紹介席は一等兵として厳しい訓練の日々を過ごしました
00:10:20この細長い建物はありますよね
00:10:31これも先ほどの
00:10:33商工集会場と同じ年代
00:10:361908年ですね
00:10:38これも100年以上経っているものです
00:10:40これは旧軍時代の砲を締まってくる倉庫ですね
00:10:44紹介席は間違いなくここで大砲の整備を通していたと思います
00:10:49高田の冬はきつかったと思います
00:10:53強烈だったんじゃないでしょうか
00:10:56紹介席は砲兵を志願します
00:11:04当時大砲は最新の兵器として
00:11:08軍の近代化には欠かせないものでした
00:11:10紹介席は軍の近代化によって
00:11:16欧米列強に対抗できる国を作ろうと考えていたのです
00:11:201911年10月10日
00:11:34武将で革命派が放棄し
00:11:37侵害革命が始まりました
00:11:39放棄はたちまち中国各地に広がっていきます
00:11:56革命が始まったというニュースは
00:12:05紹介席がいた高田にも届いていました
00:12:08明治44年
00:12:161911年の高田日報です
00:12:1910月13日の紙面には
00:12:24新国の革命軍
00:12:26武将を占領とあります
00:12:32侵害革命のニュースは
00:12:34毎日のように紙面に乗りました
00:12:36次々と将が独立していきます
00:12:40ニュースに接した紹介席は
00:12:48決断を下します
00:12:50高田連隊を脱走
00:12:58革命に身を投じることにしたのです
00:13:05無難で脱走した紹介席は
00:13:14陸軍から除籍処分となり
00:13:16憲兵からもその身を追われる境遇となりました
00:13:24中国に帰国する直前
00:13:26東京で密かに撮られた写真です
00:13:29日本人に変装した紹介席は
00:13:32中国へ向かいました
00:13:34侵害革命の勃発から20日後の10月30日
00:13:42紹介席は祖国に舞い戻ります
00:13:45上海の下町
00:13:50鉱山路に紹介席は隠れ住んだと言われています
00:13:54紹介席は上海周辺での武装砲機に加わり
00:14:04決死隊の隊長として活躍します
00:14:07その後日本での経験を変われ
00:14:11革命軍兵士の訓練を任されました
00:14:14しかし革命派内部の権力闘争に巻き込まれ
00:14:21思い通りに力を発揮できない日々が
00:14:23続きます
00:14:24家近良子さんは
00:14:31紹介席日記の解読から
00:14:33その素顔に迫ろうとしています
00:14:35紹介席はですね
00:14:37実は軍事の勉強をして
00:14:42ドイツに留学したいということを
00:14:45何度か尊文に申し入れるんですが
00:14:47尊文は君は実践家であると
00:14:51要するに
00:14:52前線に立って指揮を取る軍人なんだということで
00:14:58軍事の勉強に活かせないわけですね
00:15:02それはもう紹介席としては非常に不満であって
00:15:05自分はもう少し上といいますか
00:15:08党の中で
00:15:11軍事の勉強をして
00:15:14もう少しこの理論的な側面で
00:15:18頑張りたいというところがあったんですが
00:15:21それを尊文に反対をされるという中で
00:15:26現場を非常に回っていくというような
00:15:30生活をしていた
00:15:32武将で始まった侵害革命は各地に広がり
00:15:36わずか1ヶ月の間に大半の将が独立
00:15:40そして1912年1月
00:15:44尊文は南京で中華民国の建国を宣言し
00:15:48臨時大総統に選ばれます
00:15:50新朝の皇帝政治は終わりを告げました
00:15:55しかし北京では北洋軍の実力者
00:15:59遠征外が権力を握っていました
00:16:02その後尊文と遠征外は激しく対立するようになり
00:16:10革命派には厳しい弾圧が加えられていきます
00:16:131913年
00:16:20遠征外の弾圧を逃れ
00:16:23尊文は再び日本に亡命します
00:16:26日本の警察は
00:16:34亡命中の尊文の行動を常に監視していました
00:16:38尊文にあった人物の名も国名に記録されています
00:16:49その中に
00:16:51紹介席の名がたびたび現れるようになります
00:16:54紹介席もまた遠征外の弾圧から逃れ
00:16:59日本に亡命していたのです
00:17:012人の会合は
00:17:04多い時には1ヶ月に20回を超えていました
00:17:07亡命中の日本で面会を重ねる中
00:17:14紹介席は尊文にその実力を次第に認められるようになります
00:17:201915年
00:17:23革命勢力が盛り返したことで
00:17:26紹介席は再び中国に帰ります
00:17:29その頃
00:17:32国際情勢は大きく変化していました
00:17:36ロシアでは革命が起こり
00:17:401918年
00:17:41ソビエト連邦が成立します
00:17:43中国国民党の下に勢力を結集させた尊文は
00:17:53ロシア革命に関心を寄せ
00:17:55ソビエトの援助に期待するようになります
00:17:581923年
00:18:05参謀総長に昇進した紹介席は
00:18:08尊文の代理としてソビエトを訪問します
00:18:12訪問の目的は
00:18:17ソビエト政府の要人と革命の支援について話し合うことでした
00:18:28また革命によって生まれたソビエト赤軍の視察も大きな目的でした
00:18:344ヶ月後に帰国した紹介席は
00:18:39尊文に報告書を提出します
00:18:42報告書はその後失われてしまいましたが
00:18:49内容の一部が紹介席の妻陳欠如の回想録に残されています
00:18:55私はソビエトが
00:19:00東北部、モンゴル、新疆、チベット
00:19:05それぞれをソビエトの一部分に従っていると思います
00:19:16中国本土に対しては
00:19:18彼らはソビエト化するつもりです
00:19:22ソビエトの領土的野心を批判した紹介席
00:19:30しかしその一方
00:19:32共産党や軍の組織運営には注目していました
00:19:36コミンテルンとかソ連のイデオロギーに対しては
00:19:41やはり批判的な態度を堅持していますけど
00:19:45ソ連のですね
00:19:48例えば共産党の組織だとか
00:19:52それから軍隊の在り方ですね
00:19:56例えば党員が軍隊を指導するというような
00:20:03そういうような軍隊の在り方だとか
00:20:06それから規律だとか
00:20:08そういう面でですね
00:20:10ソ連を非常に評価するんですね
00:20:14紹介席のソビエト視察の成果は
00:20:21翌年形となって現れました
00:20:29革命派の拠点だった甲州
00:20:31その南の候補は現在中国海軍の基地になっています
00:20:37ここに1924年
00:20:45軍の士官を育てるための軍艦学校が創設されました
00:20:50広報軍艦学校です
00:20:52学生は6ヶ月間の教育の後
00:21:01軍の士官となります
00:21:03孫文から初代校長に指名されたのが
00:21:10紹介席でした
00:21:11ここにはソビエトから50人の軍事顧問が送り込まれ
00:21:25武器供与も行われました
00:21:27革命を進めるためには
00:21:32強力な近代的陸軍が必要でした
00:21:35軍艦学校の設立によって
00:21:38国民党は自らの軍隊を持つことになったのです
00:21:42軍艦学校には
00:21:45共産党から衆恩来が送られてきました
00:21:481921年に決闘した共産党も
00:21:53孫文の三民主義に賛同し
00:21:55政府に加わっていたのです
00:21:57卒業生の多くは
00:22:01その後国民革命軍の養殖に就き
00:22:05紹介席は独自の人脈を築いていきます
00:22:08広報罰というのが
00:22:13広報系の人たちは
00:22:15無償介席に対する忠誠を誓っていきますし
00:22:18彼の権力基盤の大きなものになっていきますので
00:22:21そういう意味では
00:22:23下の学生が育っていて
00:22:27自分の審判に領収として
00:22:30彼の審判になっていくというのは
00:22:34彼の権力基盤に主体になっていく
00:22:371925年3月12日
00:22:43孫文は革命の成就を見ることなく亡くなります
00:22:52孫文の死を戦場で知った
00:22:54紹介席の日記です
00:22:56総理が亡くなったことを聞き
00:23:02呆然とした
00:23:03軍の指揮官になった以上
00:23:07私は死を覚悟しなければならない
00:23:11敵の襲撃を防ぐために
00:23:15常に銃を持ち歩いている
00:23:20捕まるよりは自殺した方がいい
00:23:23私は革命を続ける重荷を託されるのだろうか
00:23:29恐ろしくて自分では決められない
00:23:34孫文の死後
00:23:39後継者として国民政府主席に選ばれたのは
00:23:44王朝明でした
00:23:45日本に留学したこともある
00:23:48左派の理論的指導者です
00:23:50紹介席は国民革命軍総司令に任命されます
00:23:59軍の実権を握った紹介席は
00:24:10翌1926年に北伐の開始を宣言します
00:24:14その当時
00:24:25国民党は
00:24:27関東省とその周辺を
00:24:29勢力下に置いていたにすぎませんでした
00:24:31まだ各地に
00:24:35国民政府に従わない
00:24:37軍罰が拡挙しており
00:24:39紹介席は統一のために
00:24:41北伐を宣言したのです
00:24:43草を刈るにはまず根を覗こう
00:24:49賊を捕らえるには
00:24:51まずその頭目を捕らえる
00:24:54とよく言われる
00:24:56真の男ならば
00:25:00三民主義を貫き
00:25:01総理の志を継承し
00:25:04革命を全うする責任を果たすべきだ
00:25:07紹介席が向き合わなければならないのは
00:25:15軍罰だけではありませんでした
00:25:17都市部では
00:25:20労働者の大衆運動が激化
00:25:23反帝国主義を唱え
00:25:24資本家との衝突を繰り返していました
00:25:27国民政府の中では
00:25:32共産党が力を増し
00:25:34その指導の下
00:25:36上海では武装放棄が
00:25:38たびたび起こっていたのです
00:25:39暴動はいつ抑えられるのだろうか
00:25:53人民が苦しんでいる
00:25:58これはすべて私の罪だ
00:26:02このまま行くと
00:26:07国家合作を言いながら
00:26:09共産党がどんどんはびこって
00:26:11増殖して
00:26:12国民党が乗っ取られていくと
00:26:15それは尊文が望んだことではない
00:26:18という思いが実はあった
00:26:20共産党のターゲットは
00:26:23紹介席個人なわけですね
00:26:25個人攻撃を
00:26:26ビラーであるとか
00:26:28宣伝でやっていくわけですね
00:26:31そういうことに
00:26:32彼は非常に追い詰められていくわけですよね
00:26:35これ何とかしないと
00:26:36自分の政治生命も
00:26:37絶たれると
00:26:39紹介席は動きます
00:26:431927年4月12日
00:26:47上海に駐屯していた
00:26:50国民革命軍を動かし
00:26:52共産党員を逮捕・粛清します
00:26:55いわゆる上海空出たです
00:26:59上海空出たの後
00:27:09国民党内部では
00:27:11左右の対立が決定的となりました
00:27:13左派の王朝名と田本を分かった
00:27:21紹介席は
00:27:22南京に新たな国民政府を受立
00:27:25その後
00:27:26首席に就任します
00:27:28紹介席はこの頃から
00:27:40経済界との結びつきを強めていきます
00:27:43財務部長に総資分を迎え入れたのです
00:27:51これにより紹介席は
00:27:54石膏財閥と呼ばれた
00:27:56上海周辺の資本家から
00:27:58指示を受けるようになります
00:28:00総家には3人の姉妹がいました
00:28:05次女の総経齢は
00:28:08孫文の妻です
00:28:09三女の総備齢は
00:28:12アメリカに留学経験もある
00:28:14妻女でした
00:28:15紹介席は
00:28:17妻の陳欠女と離別し
00:28:19総備齢との結婚に動きます
00:28:211927年12月1日
00:28:29紹介席と総備齢の結婚式が
00:28:31上海で行われました
00:28:33披露宴に招かれたのは
00:28:36在会を中心におよそ1000人
00:28:39この結婚で
00:28:44紹介席は軍事力に加え
00:28:47経済力も手に入れたのです
00:28:49石膏省
00:28:57宝火市慶光
00:28:58紹介席のふるさとです
00:29:02紹介席は
00:29:09この町の裕福な商人の家に育ちました
00:29:12結婚後
00:29:17紹介席は
00:29:18妻の総備齢とともに
00:29:20たびたびふるさとに帰っています
00:29:22二人が過ごした文章閣です
00:29:26妻 総備齢を伴って現れた
00:29:37紹介席
00:29:38その姿は
00:29:40経済力を手にし
00:29:43革命の父
00:29:44孫文の遠跡でもあることを
00:29:47見る者に強く印象付けたのです
00:29:49ふるさと
00:29:57傾向の風景を
00:29:59総備齢が描き
00:30:00大事を紹介席が記した絵も
00:30:03残っています
00:30:04オーゲンさんは
00:30:1333年にわたって
00:30:15紹介席の新編敬語をしていました
00:30:17素顔の紹介席夫婦を知る
00:30:23数少ない人物です
00:30:25私は二人に接触することが
00:30:36多かったので
00:30:37外部には見えなかったことも
00:30:40知っています
00:30:40二人は食事をするとき以外は
00:30:44ほとんど一緒に過ごすことは
00:30:47ありませんでした
00:30:48夫婦は別の部屋で寝ていました
00:30:54年の差がありますからね
00:30:56正総統は早寝早起きで
00:31:00夫人は遅く寝て遅く起きました
00:31:04二人の結婚は
00:31:10軍と財閥が結びついた
00:31:12政治的なものでした
00:31:13南京国民政府の
00:31:20実質的な権力者となった
00:31:22紹介席は
00:31:22外交にも乗り出します
00:31:25特に重要視したのが
00:31:27日本との関係でした
00:31:29紹介席が当時の日本の
00:31:36有力な政治家に宛てた
00:31:38手紙が残されています
00:31:40宮崎東天の息子
00:31:43龍介に託したものです
00:31:45その中に
00:31:48田中義一首相宛てのものがあります
00:31:51中国に強硬姿勢を示していた
00:31:56田中内閣
00:31:57しかし
00:31:59同じ反響の旗を掲げる
00:32:01紹介席には
00:32:02当初
00:32:03一定の理解を示していました
00:32:05紹介席はこの手紙で
00:32:12欧米列強に侵略されている
00:32:15中国への理解を求め
00:32:16日本に対して
00:32:18次のように求めていました
00:32:19中国人と日本人は
00:32:26同じ東洋人であり
00:32:28共存共栄という立場にあります
00:32:31日本はまず
00:32:33中国に対する不平等条約を
00:32:36撤廃するように
00:32:38切に期待します
00:32:40この手紙を書いた半年後の
00:32:471927年11月5日
00:32:50紹介席は訪日し
00:32:53田中義一の指定を訪れます
00:32:56当時の外務省の記録によれば
00:33:03田中首相が
00:33:05今回の来日の目的は何かと問うと
00:33:08紹介席は次のように答えています
00:33:12駐日両国は
00:33:17平等を出発点として
00:33:20誠意をもって協力すべきです
00:33:22中国国民革命軍は
00:33:26これからも北伐を続け
00:33:29国の統一を目指します
00:33:31日本政府は干渉せず
00:33:34協力してほしい
00:33:35日本の対中政策は
00:33:40武力を放棄し
00:33:41経済協力を基本とすべきです
00:33:44しかし田中首相は
00:33:53日本の権益を守るという姿勢を
00:33:56崩しませんでした
00:33:57日本政界は常にも
00:34:03日中戦争が始まるまでもですね
00:34:08それは後もですけれども
00:34:10大勢なのか
00:34:11小海石なのか
00:34:13どっちが中国の国民党の代表なんだ
00:34:17ということを迷い続けるわけですね
00:34:19どちらに堅いでするかということで
00:34:22最後は日本は大勢がありますよね
00:34:25そういう中でやはり
00:34:2727年当時もやっぱり小海石じゃなくて
00:34:32大勢なんだろうという思いは
00:34:35結構あるわけですよね
00:34:36小海石が軍人だからという
00:34:39そこでも出てくるわけですけれども
00:34:42軍人に対する評価というのは
00:34:45結構日本でも低かったというのがありますね
00:34:47田中首相との会談を行った
00:34:52訪日の折
00:34:53小海石は兵庫県の有馬温泉にも足を伸ばしました
00:34:58当時温泉に滞在していた
00:35:03総美霊の母を訪ねたのです
00:35:05温泉街の一角にある極楽寺
00:35:17その書院に
00:35:25小海石の書が残されています
00:35:28平等の二文字には
00:35:35小海石が革命を目指した時から
00:35:38持ち続けてきた願いが込められています
00:35:41小先生は
00:35:49強い意志を持った民族主義者でした
00:35:53中国の領土と主権を守り
00:35:57不平等条約を撤廃して
00:36:00国際的に平等な地位を得る
00:36:03それは小先生の生涯をかけた
00:36:08努力目標でした
00:36:10日本との平等な関係を模索していた
00:36:19小海石
00:36:19しかしその期待を裏切る決定的な事件が
00:36:25三島省の災難で起こります
00:36:27災難事件です
00:36:33三島省は19世紀末
00:36:40新朝の時代から
00:36:42ドイツが権益を持っていました
00:36:44第一次世界大戦で敗れたドイツに変わり
00:36:51その権益を引き継いだのが日本でした
00:36:551928年5月
00:37:04小海石の国民革命軍は
00:37:07北伐のため三島省の災難に迫ります
00:37:11この時災難には
00:37:14居留民保護のために
00:37:16すでに日本軍が進駐していました
00:37:19日本軍は
00:37:23あちこちに砂袋や鉄条網を築いて
00:37:27警戒を厳重にし
00:37:29我が軍と人民の通過を認めなかった
00:37:32日本軍は
00:37:35横暴な振る舞いをしている
00:37:37このままでは
00:37:40国は必ず滅びる
00:37:42今は
00:37:44恥を耐えしのぶしかない
00:37:46日中両軍は
00:37:52災難の街で退治
00:37:54やがて衝突が起こり
00:37:57双方に死者が出る事態となりました
00:37:59衝突は一旦収まったものの
00:38:05交渉は決裂
00:38:065月8日
00:38:10日本軍は
00:38:11国民革命軍に
00:38:13総攻撃を開始したのです
00:38:15最前線の指揮官が
00:38:21紹介席に当てた電報です
00:38:24日本帝国主義者は
00:38:30そやで御子がたく
00:38:32凶暴な行為が目立っています
00:38:34理由もなく
00:38:36武力で我が災難を侵略し
00:38:39その行為は
00:38:41周到で
00:38:42ますます
00:38:42威圧的となって
00:38:44我々に侮辱を与えています
00:38:46もし
00:38:47こうした行為を認めるならば
00:38:51我が国は
00:38:51これからどのようになってしまうでしょうか
00:38:54全ての同士は武装し
00:38:58歩行枕に命令を待っています
00:39:02しかし
00:39:08紹介席は
00:39:10兵士たちに出動命令は出しませんでした
00:39:13日本の圧倒的な軍事力の前に
00:39:18総司令の紹介席は
00:39:20衝突を避けたのです
00:39:22私は
00:39:26災難を諦めるように命じた
00:39:29日本軍の
00:39:34大砲による攻撃の音を聞くたびに
00:39:36国が滅びたと
00:39:39とても悲しい
00:39:42災難事件は
00:39:48翔先生の一生の中で
00:39:50最大の地獄でした
00:39:52これは
00:39:54国家の地獄であるばかりでなく
00:39:56個人の地獄でもあると考え
00:39:59深刻に捉えていました
00:40:02日記には
00:40:04セッチの文字が現れます
00:40:07日本との決定的な衝突を避けた
00:40:14紹介席
00:40:15しかし
00:40:17日本軍に抵抗できなかったという
00:40:20屈辱感は
00:40:21紹介席の胸に
00:40:23深く刻み込まれていきます
00:40:25この時に初めて日記に登場した
00:40:30セッチの二文字
00:40:32恥をすすぐという意味です
00:40:35国民革命軍は
00:40:46三島省を迂回し
00:40:47災難事件の1ヶ月後の
00:40:506月15日
00:40:51北京に入城します
00:41:00この動きを見た
00:41:01東北三省の支配者
00:41:03張学良は
00:41:04国民政府に参加することを決断します
00:41:07張学良は
00:41:10父張作林を
00:41:12日本軍に殺されていました
00:41:14その年の12月
00:41:20東北全土で
00:41:22それまでの旗に変わって
00:41:24中華民国国旗
00:41:26青天白日記が
00:41:27ひるがえります
00:41:28駅使です
00:41:29駅使です
00:41:30侵害革命以来
00:41:37初めて
00:41:38中国は統一されました
00:41:43孫文の遺志は
00:41:45紹介席によって
00:41:47成し遂げられたのです
00:41:48ところが
00:41:54ところが3年後
00:41:56この東北三省で事件が起こります
00:41:591931年9月18日
00:42:04日本の関東軍が
00:42:07南満州鉄道を爆破
00:42:09それを
00:42:10中国軍の仕業として
00:42:12軍事行動を起こします
00:42:13満州事変です
00:42:16昨夜
00:42:20日本軍は理由もなく
00:42:23我が新洋の兵器工場を攻撃し
00:42:26さらに建物も占領した
00:42:29知らせが入ってきた時は
00:42:33新洋も長春も
00:42:35既に占領されていた
00:42:37日本軍は
00:42:40東北三省を侵略しようとしている
00:42:44このままでは
00:42:46生き残ることはできない
00:42:49満州事変の時
00:42:57東北軍の司令官だった
00:42:59張学良は
00:43:00関東軍への抵抗を
00:43:02命じませんでした
00:43:03なぜ張学良は
00:43:12抵抗しなかったのでしょうか
00:43:14本人が
00:43:19晩年初めて真相を語った時の
00:43:22記録が残されています
00:43:23私はあの時日本が
00:43:30あそこまでやるとは
00:43:31予想していませんでした
00:43:32ありえないことでした
00:43:34私の判断では
00:43:36あのような行動は
00:43:37中国にとって不幸なだけではなく
00:43:40日本にとっても
00:43:41国際的な非難を浴びるなど
00:43:43不利な結果をもたらすものと
00:43:46考えていたのです
00:43:47私は日本がそのようなことを
00:43:49するはずがないと思っていました
00:43:50日本はこの軍事行動によって
00:43:53我々を挑発しようとしているのだ
00:43:56私はそう判断しました
00:43:58ですから部下に
00:44:00抵抗しないように
00:44:01命令したのです
00:44:02この時
00:44:08紹介席もまた
00:44:10関東軍への抵抗を
00:44:12命じませんでした
00:44:12陳財春さんは
00:44:22かつて国民政府で
00:44:24軍事委員会の情報部に
00:44:26勤めていました
00:44:27あの
00:44:31あの
00:44:31あの時ね
00:44:35あの
00:44:35満州の問題
00:44:37あんまり
00:44:38あの
00:44:38私見てね
00:44:41紹介席はその時
00:44:43頭いっぱい
00:44:45あの
00:44:45なんか
00:44:47あんまり
00:44:48他のこと
00:44:49えい
00:44:50えい
00:44:50巨戦闘を
00:44:51消滅するためなんですね
00:44:54ああ
00:44:55だから
00:44:55あの
00:44:56ある程度の
00:44:58あの
00:44:59ゴダゴダすることね
00:45:01避けたほうがいいじゃないか
00:45:03えい
00:45:04我々ね
00:45:05あの
00:45:06日本
00:45:06日本の
00:45:07あの
00:45:08あの
00:45:09軍隊圧迫する
00:45:12時ね
00:45:13あの
00:45:14できるだけ
00:45:15あの
00:45:16避けて
00:45:17あの
00:45:18抵抗しない
00:45:22ほうが
00:45:23あの
00:45:24問題がないんじゃないかと
00:45:29統一したとはいえ
00:45:31中国国内は
00:45:32まだ不安定でした
00:45:34毛沢東を率いる
00:45:37共産党との内戦が
00:45:39激しさを増していたのです
00:45:48事件から3日後
00:45:50国民政府の会議で
00:45:52紹介席は次のような方針を打ち出します
00:46:00日本軍が東北三省を占領したことを
00:46:03まず
00:46:05国際連盟に訴え
00:46:06抗理を求める
00:46:08他方では
00:46:10内部を結束させ
00:46:11共に国難を乗り越えていく
00:46:14我慢が限度に達したら
00:46:17最後に
00:46:18自衛としての行動をとる
00:46:25紹介席は
00:46:26外交で
00:46:27満州問題の解決を図ろうと考えたのです
00:46:30ジュネーブにある国際連盟に
00:46:34日本の不当な侵略であると訴えました
00:46:39日本と戦っても勝ち目はないと
00:46:42要するに軍事的
00:46:43圧倒的に日本の方がやはり軍事力が強いと
00:46:46それだったらやはり
00:46:48少し国際世論を起こしてですね
00:46:51国際世論というものを非常に重視する
00:46:53これ外交によって起こしていくということですが
00:46:56国際世論を起こすことによって
00:46:59中国に対する支援
00:47:01そして日本に対する
00:47:03日本との敵対ですね
00:47:05そういうものを
00:47:07国際社会の中で
00:47:09作っていく
00:47:11だんだんだんだんその国連の中で
00:47:13地位を高めていくというのを
00:47:15彼は外交を
00:47:17国連外交を非常に重要視して
00:47:19国際的地位を高めるということに
00:47:22専念していくわけですね
00:47:23しかし国際連盟は
00:47:29日中二国間の交渉による解決を求めます
00:47:33その間に関東軍は
00:47:38満州全土を軍事的に制圧していきました
00:47:40戦わずしていきました
00:47:50戦わずして東北三省を失った
00:47:53蒋介石
00:47:55中国国内では
00:47:57蒋介石への批判が強まっていきます
00:47:59国民政府の中でも
00:48:05蒋介石を批判する声が高まります
00:48:0912月15日
00:48:14蒋介石はついに
00:48:18すべての職を辞することになります
00:48:24今日、故郷に帰ることを決心した
00:48:29ただ、党と国家に対する前後策がないため
00:48:34天天反則して眠ることもできず
00:48:39ずっと考え続けた
00:48:41ふるさとの石膏所を稽古に帰った蒋介石
00:49:00下やしたものの、再び帰り作品に備えて戦略を練っていました
00:49:11国民党というのは、もともと軍事的には弱い組織なんですね
00:49:17軍事ということになると、蒋介石しかいないわけですよね
00:49:21自分が下やしても、必ず軍事的には
00:49:25自分を必要とするということを知っていますので
00:49:28下やをしても、必ず迎え入れられるだろうということはありますから
00:49:32下やをするたびに、ステップアップをしていくという戦略も実はあった
00:49:373ヶ月後、蒋介石は軍事委員長に復帰します
00:49:45しかし、日本との新たな問題が待ち構えていました
00:49:501932年3月、満州国が建国されます
00:50:00新外革命で、新朝皇帝の座を追われた不義が、失勢の座につきました
00:50:12国際連盟は、満州事変の調査に乗り出し
00:50:16リットンを団長にした調査団を現地に派遣します
00:50:20その報告をもとに、国際連盟は
00:50:28満州国は日本の傀儡国家であると認定します
00:50:321933年3月、日本は国際連盟を脱退
00:50:53世界から孤立化する道を歩み始めます
00:51:02日本軍は、満州国を建国した後も、下北への進出を強めていきます
00:51:10しかし、蒋介石は、これと戦うことをせず
00:51:14共産党との内戦に力を注いでいきます
00:51:17蒋介石は、まず国内問題を片付けて、その後、外国との問題を解決するという考えでした
00:51:34案内・場外と言われる政策です
00:51:38共産党との内戦を優先したのです
00:51:401935年12月9日、北京では案内・場外政策に対する大規模な抗議行動が起こります
00:51:58学生たちは、共産党との内戦を停止し、日本と戦うべきだと訴えたのです
00:52:05蒋介石への抗議行動は、中国全土に広まっていきます
00:52:17専政省・西安でも、大規模な学生デモが起こります
00:52:23北京のデモから、ちょうど1年後の1936年12月9日のことです
00:52:34D・ケンブンさんの父は、当時デモを指揮した学生リーダーの一人です
00:52:43我々西安の民衆と学生は、国の重大事に敏感に反応しました
00:52:55これは、私たちの伝統です
00:52:59国が滅び、亡国の民となる危機が目前に迫っていました
00:53:05その時、西安の知識人や民衆には、強烈な危機意識があったのです
00:53:16当時、西安には、満州事変によって東北部を追われた長学寮の軍隊が駐屯していました
00:53:25長学寮は、学生たちの主張に理解を示しました
00:53:29そんな中、紹介席が西安を訪れます
00:53:37目的は、共産党との戦いの指揮を高めるためでした
00:53:49紹介席の宿舎となった、西安郊外の加西市温泉を長学寮が訪ねます
00:53:59長学寮は、紹介席に対し、共産党との内戦を停止し、協力して日本と戦うよう求めたのです
00:54:16当時、私と紹介席は、政治的に意見が対立していました
00:54:22紹介席の主張は、まず国内を治め、その後に外の敵に当たるというものでした
00:54:28しかし、私の主張は、まず外の敵と戦ってからこそ、国内を安らかにすることができるというものでした
00:54:37私は以前から、障害席との意見が異なっていましたが
00:54:41こんなに激しく衝突したのは、この時が初めてでした
00:54:45小学寮とともに、内戦に疑問を抱いていたのが、専政省出身の陽子城でした
00:54:57陽子城を率いる西北軍は、共産党との戦いの最前線に立たされていました
00:55:07陽子城の孫、陽寛さんです
00:55:16祖父、陽子城の革命にかける思いを、父から聞いています
00:55:21国民党に加わったのは、尊文の三民主義に共感したからだといいます
00:55:26満州事変が起きると、祖父は、泣いて全国人民に次ぐと題した一文を発表しました
00:55:38中国は、国が滅び、民が耐える危機に直面している
00:55:43公日に立ち上がらなければならない、と全人民に告げたのです
00:55:48祖父は、ずっと尊文の三民主義を完成させたいと思っていました
00:55:53中国を統一し、強い国にしたいと
00:55:5912月12日未明、陽子城と張学良が実力行使に踏み切ります
00:56:07西安事件の勃発です
00:56:10朝5時半、私がベッドから起きようとした時、銃声が聞こえてきた
00:56:16その銃声を聞きながら、張学良の東北軍が反乱を起こしたと分かった
00:56:24すぐ、裏の山に向かって逃げた
00:56:29しかし、山がとても険しい、状況は緊迫していた
00:56:34裏山のディサンに逃げた紹介石
00:56:42途中、岩の裂け目に落ちていたところを捜索隊に発見され拘束されました
00:56:48障害石は、西安の町に移され、軟禁されます
00:57:05長学良と陽子城は、紹介石に8項目の要求を突きつけました
00:57:18共産党との内戦の停止、旧国会議の開催、政治犯の釈放などです
00:57:26しかし、紹介石は受け入れません
00:57:30内戦に疑問を抱いていた張学良は、すでに共産党の周恩来と密かに交渉していました
00:57:42張学良の要請により、延安からは周恩来が派遣されました
00:57:52南京からは、紹介石の妻、宗美玲が飛んできます
00:58:00事件をどう解決するのか
00:58:1712月23日から24日にかけて、周恩来、宗美礼、張学良、陽子城らが集まりました
00:58:26何回も協議を重ねましたが、解決策は見いだせませんでした
00:58:32そして最後に、紹介石と周恩来の会談がもたれます
00:58:41その時に、先生は立ち会われたわけでしょうか
00:58:48うーん、それは大変重要ですが、もうこれ以上質問しないでください
00:58:56私はその階段の場にいたんです
00:58:58周恩来を紹介石のところへ連れて行ったのは、この私なんですから
00:59:03もうこれ以上、話はできません
00:59:05結局、張学良は、最後の会談については、何も語りませんでした
00:59:1612月26日、紹介石は、宗美礼とともに南京に帰ります
00:59:23紹介石は、共産党との内戦停止を受け入れました
00:59:31ここに、国民党と共産党の国境合作が成立
00:59:37共に、日本に立ち向かうことになります
00:59:43紹介石と周恩来が、何を話し合ったのか
00:59:47その真相は、今も明らかにされていません
00:59:51私自身の知識と、それから学会の研究者の知識を動員してもですね
01:00:00本当のことを言うとわからない
01:00:03何か密約があったんじゃないかという説もありますけど
01:00:07これはどうも、今日の状況ではわからない
01:00:12まだ日記が公開されたばかりですから
01:00:15そういう事実の解明はですね
01:00:19私はまだたくさん残っている
01:00:22それをやらなくちゃいけない
01:00:23西安事件の翌年、1937年7月7日
01:00:32北京郊外の六甲橋の近くで
01:00:36演習中の日本軍に銃弾が打ち込まれ
01:00:39それをきっかけに、日中両軍の衝突が起こりました
01:00:43六甲橋事件です
01:00:44事件の翌日の紹介席日記です
01:00:5310年前の災難事件以来書き続けている
01:00:58設置の二文字から始まっています
01:01:03設置
01:01:04日本の侵略者は、六甲橋で挑発行為に出た
01:01:17我が軍の準備ができていないとみて
01:01:21屈服させるつもりか
01:01:26今こそ、応戦の決心をすべき時だ
01:01:34六甲橋事件から10日後の7月17日
01:01:39紹介席はロザンに主だった指導者を集めます
01:01:44左派の王朝名、そして共産党も参加します
01:01:53紹介席はこの席で、自らの決意を明らかにしました
01:01:58最後の関東に立ち至った
01:02:07我々は、徹底的に犠牲を払わねばならず
01:02:12徹底的に抗戦しなければならない
01:02:15実は紹介席は、日本との戦いに備え
01:02:252年前から周到な準備を進めていました
01:02:30その中心が、ドイツ式の最新鋭の軍隊を要請することでした
01:02:35ドイツから、およそ30人の軍事顧問を招兵し
01:02:44精鋭部隊を育てていたのです
01:02:47軍事顧問団のリーダー、ドイツ国防軍の将軍
01:02:53アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは
01:02:57歩兵部隊育成の第一人者として知られていました
01:03:06ファルケンハウゼンは、日本軍との戦いを前に
01:03:10次のように語っています
01:03:12中国兵の指揮は高い
01:03:18これは極限までの戦いとなるだろう
01:03:22徹底抗戦の構えは整っている
01:03:30ファルケンハウゼンが、六王橋事件の半年前に作成した地図が残されています
01:03:37この下の地域、南京、上海、これらの場所では
01:03:50すでに防御陣地が築かれていたことが、この地図から読み取れます
01:03:56ファルケンハウゼンは、日本軍が上陸するのを予想し
01:04:02待ち構えていたのです
01:04:04地図に青く記されているのは、すでに完成している防御陣地です
01:04:14決戦場として想定した、上海の西に防御船を設け
01:04:23首都南京を守る体制を築こうとしていました
01:04:26中国北部でいくら戦争しても、世界は誰も注目しません
01:04:37国際都市の上海で戦争をすれば、世界中の関心を集め、国際世論を喚起できます
01:04:45ファルケンハウゼンの作戦指導のもとに戦い、国際社会の支持を引き出そうと図る小海石
01:04:56戦いが始まる1年前の日記に、すでにこう記しています
01:05:05アジアの問題は、ヨーロッパ、世界各国と共同して解決する
01:05:16そして、侵略者日本を処置する
01:05:21六王京で起きた日中の衝突は、8月には上海に飛び火します
01:05:37当初、不拡大方針をとっていた日本政府は、その方針を変え、上海に造園部隊を派遣します
01:05:44戦火は、一気に拡大します
01:05:53戦火は、一気に拡大します
01:06:00上海では、激しい戦闘が続きました
01:06:02小海石の精鋭部隊を前に、日本軍にも、甚大な被害が生まれます
01:06:17このころ、小海石は、アメリカやヨーロッパの国々への働きかけを強めていきます
01:06:23外交による、局面の打開を図ろうとしたのです
01:06:37目的は、多くの国々に、日本への経済制裁を取らせることにある
01:06:45この時期、戦争の拡大を懸念する欧米諸国が、ベルギーのブルッセルで、国際会議を開こうとしていました
01:07:01小海石は、その会議の場で、日本の不当性を訴え、制裁措置を発動させようと考えていました
01:07:09そのためには、上海での戦いに、欧米諸国の関心を集める必要がありました
01:07:21小海石は、ドイツ式訓練で鍛えた精鋭部隊に、徹底抗戦を命じます
01:07:28川沿いに立つこの建物、四高倉庫が、その最大の激戦地となりました
01:07:35四高倉庫の対岸には、欧米諸国の疎開がありました
01:07:47欧米メディアは、四高倉庫の攻防戦を撮影し、世界中に伝えました
01:07:54これこそが、小海石の狙いでした
01:07:58秘書の日記に、小海石の言葉が残されています
01:08:09この場所を、死守させる
01:08:15そうすれば、世界の人々を感動させることができる
01:08:21四高倉庫の攻防戦で、左目を失った、陽陽精さん
01:08:34四甲倉庫の攻防戦で左目を失ったヨーヨーセイさん
01:08:47ドイツ式訓練を受けた小海石直属部隊の将尉でした
01:09:04しかし小海石の期待は裏切られます
01:09:2211月にブルッセルで開かれた国際会議では
01:09:26アメリカイギリスなどの国々は
01:09:30日本との関係悪化を決定的なものにする
01:09:33経済制裁の発動に踏み切ろうとはしなかったのです
01:09:38四甲倉庫の激戦は4日間で終わりました
01:09:53小海石はこの時最強と言われた
01:09:58ドイツ式の精鋭部隊を失いました
01:10:0011月上旬
01:10:10上海が陥落します
01:10:12そして日本軍は首都南京を目指します
01:10:17日本軍が迫る中
01:10:23小海石は南京防衛戦を決断
01:10:27国際社会からの新たな支援に期待をつなぎます
01:10:3111月30日
01:10:37南京を固守しながら
01:10:42万回の方策を講じたい
01:10:45小海石の新たな万回の方策
01:10:52それはソビエトに参戦を促すことでした
01:10:56この頃
01:11:01ソビエト軍の高官が語った言葉が
01:11:04小海石宛の伝聞
01:11:06日本軍の中に残されています
01:11:11中国の存亡に関わる時
01:11:13我がソビエトは出兵し
01:11:15エルシー
01:11:17決して座視しないでしょう
01:11:19ソビエトは当時
01:11:26日本軍が駐留する満州国と国境を接していました
01:11:31小海石と同様
01:11:33日本に脅威を抱いていたスターリンは
01:11:36小海石の要請に応え
01:11:39中国へ武器の供与を行っていました
01:11:41スターリンは
01:11:46中国に宛てた伝聞の中で
01:11:48こう約束しています
01:11:50兵器の供与は
01:11:571億中国ドルまで増やすことができる
01:12:01戦闘機200機
01:12:04戦車200両も供給することができる
01:12:11小海石は南京郊外の農村に
01:12:16400を超える陣地を築き
01:12:19防衛ラインを引きました
01:12:20コンクリート性能統治下の残骸が残されています
01:12:25この場合は
01:12:55難勤郊外で攻防戦が続いていた12月5日
01:13:05紹介席はソビエトから出兵についての回答を受け取りました
01:13:16ソビエトは出兵するが最高会議の承認が必要である
01:13:22会議は遅くとも2ヶ月後には開催する
01:13:27すぐには出兵できないというソビエトの回答
01:13:35この時期スターリンはヨーロッパで勢力を拡大しつつあった
01:13:41ドイツ軍の動向に神経を尖らせていたのです
01:13:44こうして国際社会による経済制裁と
01:13:50ソビエトの参戦に期待をかけた
01:13:52紹介席の戦略は費えました
01:13:5512月7日
01:14:01紹介席は戦線の立て直しを図るため
01:14:05南京を離れます
01:14:0712月10日
01:14:12日本軍は総攻撃を開始
01:14:15攻撃開始から3日後
01:14:22南京は陥落
01:14:24そこで南京事件が起こりました
01:14:28人民が戦火を受けていることに苦痛を感じている
01:14:36彼らは居場所を失い
01:14:39生死を占うこともできない
01:14:42日本軍が疲弊し
01:14:45国際干渉が行われるまでに
01:14:483年はかかるだろう
01:14:50それまでは苦闘をしなければならない
01:14:54南京陥落後の1938年1月
01:15:03河野恵文丸相は
01:15:05中国の国民政府を相手とせずとの声明を発表
01:15:10紹介席との交渉を立ちました
01:15:13そして密かに国民政府の要人
01:15:20王朝鳴を脱出させ
01:15:22南京に傀儡政権を受立します
01:15:25紹介席は南京から首都を奥地の重慶に移し
01:15:36持久戦を続けていきます
01:15:38当時国民政府の国防部は
01:15:51公日戦争を映像で記録していました
01:15:54台湾田園資料館には
01:15:58そのフィルムが数多く保管されています
01:16:01持久戦を戦い抜くためには
01:16:17国民の支持が欠かせません
01:16:25記録映画は各地の映画館で上映され
01:16:28繊維紅葉に使われました
01:16:30臨時首都重慶の様子を伝える映画です
01:16:37日本軍の空襲に備え
01:16:43重慶の人々は防空壕の建設を進めていました
01:16:46空襲を避けて工場などの重要施設は
01:17:04地下工場に移されています
01:17:06農村を訪れ
01:17:12共に農作業をする兵士たち
01:17:15地球戦への参加を国民に呼びかけていきます
01:17:25地球戦への参加を国民に呼びかけていきます
01:17:25一方海外では
01:17:38中国の戦争被害を
01:17:40世論に訴える活動を展開します
01:17:43特に注目したのはアメリカです
01:17:47南京陥落の半年後に発行された写真誌
01:17:53ライフです
01:17:53日本軍から被害を受けた
01:17:59中国の人々の姿が伝えられています
01:18:01紹介席の妻装備霊も積極的に
01:18:12メディアに登場
01:18:13流暢な英語で
01:18:15中国の状況を世界に訴えます
01:18:17日本軍からの人々が発行されています
01:18:21日本軍からの人々が発行されています
01:18:29日本軍からの人々が発行されています
01:18:31日本軍を超えています
01:18:35日本軍だけではとても
01:18:59アメリカでは大都市を中心に日本製品の不売運動が広がり
01:19:111939年政府も日本との貿易を制限する政策を取り始めます
01:19:17紹介席はこうしたアメリカの世論の変化に注目
01:19:31メディアをはじめアメリカ社会への働きかけを強めていきます
01:19:35紹介席が部下に送った伝聞です
01:19:47アメリカだけは民主制度の国で比較的活動しやすい
01:19:54さらにルーズベルト大統領も極東問題の解決を決意している
01:20:09アメリカへの毎月10万ドルの宣伝費用は押しまずに使うべきだ
01:20:15紹介席は中国が置かれた状況を世界に訴える一方
01:20:24国内では国境合作を通じて結束を強化していきます
01:20:30毛沢東を率いる八郎軍も日本軍に対するゲリラ戦を展開します
01:20:38設置
01:20:59敵とあれ
01:21:03どちらに強い持久力と団結力があるか
01:21:09日本との戦いの最後の勝利はそこにかかっている
01:21:17南京陥落から4年後
01:21:281941年12月8日
01:21:33日本が真珠湾を攻撃
01:21:36アメリカは日本に戦線布告し
01:21:42全面戦争に突入します
01:21:44秘書からの電話を受け
01:21:55日本軍が今朝1時ごろ
01:21:58真珠湾を攻撃したことを知った
01:22:01イギリス
01:22:05アメリカ
01:22:07ソビエトの各大使を招いた
01:22:11そこで
01:22:15中国が数十国に対して
01:22:19戦線をするという決意を伝える
01:22:22日記に設置と書き始めた
01:22:33災難事件から13年
01:22:35小海石が描いた外交戦略が
01:22:40幾度もの挫折を乗り越えて
01:22:43ようやく身を結んだ形となりました
01:22:46装備令はアメリカを訪問
01:22:52議会で演説し
01:22:53中国への支援を呼びかけます
01:22:56クラメリカの関係は
01:22:57日本国に関係者の活動
01:23:11やりどを担うこの国とは
01:23:14自分間сте Expertenに
01:23:16平安位です
01:23:171943年
01:23:29カイロで行われた連合国の会議に
01:23:33紹介席は中国国民政府の主席として出席します
01:23:38それに先立って紹介席は
01:23:43イギリス・アメリカと新条約を結び
01:23:46革命以来の悲願だった不平等条約を撤廃しました
01:23:511945年8月15日
01:24:02日本の幸福を伝える昭和天皇の玉音放送が流れました
01:24:11黙祷をしながら
01:24:12日本幸福のラジオ放送を静かに聞いた
01:24:17普段のように静かに座り
01:24:22心はとても穏やかだった
01:24:26紹介席はこの日ラジオ放送で
01:24:418年に及んだ日本との戦争が終わったことを
01:24:45世界に告げました
01:24:47これらがすごく今までとても
01:24:50こういう振って上から
01:24:52更不可对帝国无辜人民加以侮辱
01:24:56我们只有对他们为他的那日忠不所拒絡
01:25:02所驱迫而标日怜悯
01:25:05使他们自博于错误的与罪恶
01:25:09要知道数个以保隐得付他们
01:25:14重建错误的有意感
01:25:16这远远相保永无重置
01:25:20可不得和面偏一枝不得
01:25:23徳を持って恨みに報いる
01:25:31異毒法恩と後に呼ばれる
01:25:35昭海石の声明です
01:25:44しかし昭海石の身辺が落ち着くことはありませんでした
01:25:49翌年国民党と共産党の内戦が勃発
01:25:55国民党は苦戦を強いられていきます
01:25:581949年
01:26:04共産党が勝利を収め
01:26:07中華人民共和国が建国されました
01:26:09侵害革命に身を投じた昭海石
01:26:16日本に学び
01:26:18日本との平等な関係を願っていました
01:26:21しかし歴史は
01:26:24その日本との泥沼の戦いを
01:26:28強いていったのです
01:26:29公日戦勝利から4年
01:26:36昭海石は台湾に逃れます
01:26:39再び大陸の地を踏むことはありませんでした
01:26:44我々ある種の
01:26:49昭海石に親しみを感じているし
01:26:52それからまたそこには
01:26:54日本人が昭海石に
01:26:56冗長的にですね
01:26:57昭海石を見ていくことがあると思うんですね
01:27:03だけどこれはね
01:27:04私は少し慎重になった方がよろしいと
01:27:07やはり昭海石が
01:27:10いかにして強い中国を作るかというですね
01:27:15彼の中国の最高指導者としての
01:27:19その民族主義的な常念といいますか
01:27:22あるいは希望がですね
01:27:24その根底にはあるわけで
01:27:26それは単に紹介石の問題だけではなくて
01:27:31やはりその中国の指導者としての
01:27:36自立性というか独立性という
01:27:38これはもっと広く言えば
01:27:41共産党にも共通するような
01:27:44中国革命の主体性という問題に
01:27:48関わってくるような大きな問題であってね
01:27:51昭海石については
01:27:53我々はそういうような近代中国の
01:27:56大きな発展の中で
01:27:59やはり見ていかなければならないと
01:28:01私はねそういうふうに考えてますけどね
01:28:04ご視聴ありがとうございました
01:28:34ご視聴ありがとうございました

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