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教育
トランスクリプション
00:00写真一面に写る無数の黒い点
00:07これは終戦から4ヶ月後にアメリカ軍が撮影した岩国駅周辺の写真です
00:22黒い点の正体はアメリカ軍が投下した爆弾によってできた穴
00:28太平洋戦争末期
00:481945年の3月から終戦までの5ヶ月余り
00:53県内各地でアメリカ軍による空襲が行われました
00:58投下された爆弾はおよそ15万発
01:06死者は3200人を超えます
01:13戦場と化した山口
01:15その実態はどのようなものだったのか
01:19ものすごいサイレンになって
01:24B29がバンバンバンバンバンバン飛んでくるわけですから
01:28それはもう大変怖い景色でしたよね
01:33この川にはたくさんの死体が折り重なっておりました
01:50群れが詰まるようで言葉が出ませんけれども
01:55戦火を生き抜いた人々の貴重な証言から
02:021945年の山口に迫ります
02:06山陽小野田市 縄地ヶ花公園
02:31この公園の片隅に
02:3680年前の戦争の痕跡が残されています
02:40直径8メートル
02:47深さ2メートルほどの窪地
02:501945年3月3日
02:56アメリカ軍の爆撃機B29が
03:00この周辺に8発の爆弾を投下しました
03:04死者2人
03:09空襲による県内で初めての犠牲者でした
03:14その4週間後
03:18アメリカ軍の偵察機が撮影した写真の中に
03:23爆撃の痕跡が映っていました
03:28今も残る窪地のある場所が
03:31周囲と比べ白く映っているのが分かります
03:37この時期
03:39アメリカ軍の偵察機は
03:41上空およそ1万メートルの高さから
03:44県内各地を詳細に撮影していました
03:50こちらは県庁所在地の山口市
03:53撮影されたのは5月16日です
03:58画面の下には伏野川
04:02中央には亀山公園が見えます
04:06こちらは日本海側の萩市
04:13市街地の中心には
04:16名林学者も確認できます
04:18そして大陸への海の玄関口の一つ
04:27長戸市千崎
04:28行き交う複数の船も移されています
04:331945年の3月から5月を中心に
04:42アメリカ軍は県内ほぼ全ての町の上空で
04:47写真を撮影
04:48山口は丸裸にされていたのです
04:54アメリカ軍は撮影した写真から
05:02何を読み取ろうとしていたのか
05:06周南市に住む戦死研究家の工藤洋蔵さんです
05:1230年以上にわたって毎年渡米し
05:16アメリカ軍の残した写真や資料を集め
05:19分析してきました
05:21石油基地というのがたくさんあったと
05:26具体的には宇部 徳山 九田松
05:30それから岩国という
05:324カ所に大きな石油基地があったんですね
05:37それがやっぱり目標になるということ
05:40それから光には大きな兵器工場がありますから
05:45優先度の高い目標が
05:50山口県にはたくさんあったということは言えると思いますね
05:53アメリカ軍が県内の軍事施設についてまとめた
06:02報告書が残っています
06:04その中の一つ
06:08周南市で海軍の燃料基地として使用されていた
06:12大島輸送所についてのレポート
06:16偵察写真で判明した施設の面積や
06:23爆弾の命中率などを計算すると
06:26480トン余りの爆弾が必要だと結論付けています
06:33アメリカ軍は
06:40偵察の結果をもとに
06:42緻密な攻撃計画を練っていたのです
06:45ビジネクはもうよく飛んできていました
07:00かなり遠く上の方を通っているから
07:04その飛行機も追ってくると
07:06前に光っている飛行機が見える
07:09だからものすごく小さく
07:10周南市に住む橋本本秀さん
07:1688歳です
07:18この頃
07:20学校で遥か上空を飛ぶ
07:23アメリカ軍の飛行機を見ても
07:25危機感を抱くことはなかったといいます
07:28運動場に見えますよ
07:33空に
07:35晴天だったら
07:36飛行機雲までずっと行っているから
07:39見えます
07:40学校からどんな感じで見てたんですか
07:43ビジネクは
07:45どんな感じでまたあそこに飛行機が飛んぞ
07:47という
07:47特別怖いも何もないです
07:50何もしないから
07:51一方
07:57同じ頃
07:58県内の軍事施設の関係者は
08:01空襲への危機感を強めていました
08:04光市で兵器の製造を行っていた光海軍工廠
08:12空襲に備え製造に使う機械を工場からおよそ1キロ離れた水道
08:19トンネルに移動させていました
08:24この道をまっすぐ機械を囲み出していたんですよ
08:31当時
08:35矢内高等女学校の2年生だった
08:38森重恵美子さん
08:4093歳です
08:42光海軍工廠に動員されており
08:45この場所にあった門を通って工場に出勤していました
08:50毎日工場から大きな機械をこの一本道を通って
09:02あちらの水道へ運び出すのが私たちの仕事でした
09:06午前中に1台
09:08午後に1台
09:10それも全く原始的な運び出し方でね
09:16下にコロを置きまして
09:18せーのよいしょっと行っていっぱいんですよ
09:232030人が
09:24ここに大きな水道の入り口がございましたけど
09:31そのトンネルが今も残っています
09:39全長およそ100メートル
09:50高さ幅2.4メートル
09:54この空間にぎっしりと兵器の製造機械を運んだといいます
10:00こちらでは
10:05敵の爆撃を受けるという危険性がございますよ
10:10だからトンネルの中でね
10:13いわゆる作業をね
10:16する予定だったんでしょう
10:20そのための私たちの運び屋だったわけです
10:241945年5月10日
10:33偵察を重ね
10:38周到に準備を進めていたアメリカに
10:41ついに県内の軍事施設を狙った
10:45本格的な空襲を始めます
10:48現在の周南市東山町にある
11:10自宅付近にいた橋本本秀さん
11:13海軍の燃料床から500メートルの距離でした
11:18午前9時過ぎ
11:23いつものように空を見上げた橋本さん
11:27すぐにこれまでの偵察とは違う様子に気づきます
11:321,2,3それから数えたんですよ
11:37だいぶ数え飛びに行って
11:39で一番最後の飛行機の
11:43何か白いものが落ちたいものが
11:48記憶があるんですよね
11:50そしたら空襲警報になったんですよ
11:53それで空襲警報になったら
11:55こっちを見ると
11:56ビールのキラキラ光が高い記憶になるが
11:59空襲が始まった直後に撮影された写真
12:14爆撃により橋本さんの自宅の南の
12:19燃料床のタンクが炎上
12:21巨大な煙が上がっています
12:24橋本さんはすぐに自宅近くの防空壕に
12:32逃げ込みます
12:33上で光射機関銃を撃ったり
12:38爆弾が撃ったりすると
12:39防空の空がパラパラパラパラ
12:41落ちるような記憶がありますよね
12:43実際に分かったのは
12:47この時の爆撃で分かったんです
12:51怖いというのが
12:5130分続いた空襲
12:58橋本さんの自宅があった場所も
13:02黒い煙で覆われます
13:04もう夜はドカンドカン
13:13燃料床のドラン管が弾ける音で
13:18音がするし燃えるのずっと燃えてるから
13:21全然電気がいらなかったです
13:25夜はずっと燃える明かりで
13:29自宅の近くでは燃料床から近所の寺へと
13:36死体を運ぶ人々が列をなしていたといいます
13:40夕方
13:44あの人に肉がよく運ばれると言うので
13:47それを見に行ったのは覚えてます
13:49肉が運ばれてた
13:52それが死体だったんです
13:54あとは聞いたら
13:55死体を板に積んでから
13:58無料で運べると
13:59それは山に積まれた肉と思ったんです
14:04担いだ人がずっと鳴るのですから
14:07犠牲者は500人以上に上りました
14:15同じ日
14:22アメリカ軍は岩国の燃料床を攻撃
14:26その後も6月30日には九田松
14:347月1日には宇部と
14:39立て続けに軍事関連施設を攻撃しました
14:43アメリカ軍が攻撃対象としたのは
14:54陸地だけではありません
14:56現在1日におよそ1000隻の船が行き来する
15:03関門海峡
15:04私の後方500メートルのところで
15:09間もなく機雷が爆破処理されます
15:122013年6月
15:20太平洋戦争中に投下された機雷が発見されました
15:24水中に投下され
15:31近づいてきた船に反応して爆発する機雷
15:35海上の交通を妨げる目的で使われていました
15:45戦後、アメリカ軍が撮影した関門海峡の映像
15:56機雷によって沈んだ船がそのまま放置されています
16:021945年、関門海峡に投下された機雷の数は
16:10およそ4500発
16:13160を超える船が沈没しました
16:17九州と本州をつないでいるわけですよね
16:27南方から来るいろんな資源はですね
16:31関門海峡を通るということでしたので
16:33特別にですね
16:35日本の目標の中でも
16:37関門海峡というものがですね
16:39大事な位置を占めてたっていうことですね
16:42起来10日後に
16:46関門海峡上空で撮影された写真です
16:50海峡を通過する船の姿は見当たりません
16:55一方近くの港には多くの船が足止めされている様子が映されています
17:05さらにアメリカ軍は
17:15関門海峡の海底にある
17:18関門トンネルの存在にも気が付いていました
17:21戦争の最中
17:261942年に開通した関門鉄道トンネル
17:31石炭や物資
17:34兵器の輸送になる交通の要でした
17:38アメリカ軍は
17:42偵察の中で
17:43下関側のトンネル入り口を発見
17:46撮影した写真をもとに
17:52精密な地形模型を作成しました
17:55そこには
18:01下関駅と彦島を結ぶ橋や
18:05トンネルの入り口も
18:07忠実に再現されています
18:08米軍の計画では
18:14関門トンネルの下関側の入り口と
18:19これは彦島になるんですけれども
18:22そこを破壊することが目的だったんですけれども
18:26攻撃も計画されたんだけど
18:28天候の関係で中止になって
18:31そういう計画があったんですね
18:336月に入ると
18:39アメリカ軍は
18:40日本海側への
18:42嫌いの投下も進めていきます
18:44大陸への玄関口を
18:47塞ぐためです
18:48当時
18:55アメリカ軍の
18:56嫌いの投下を防ぐため
18:58任務に当たっていた人が
19:00高知県にいます
19:01松坂亀一さん
19:1299歳
19:14陸軍で
19:20高射砲の部隊に
19:21所属していました
19:22松坂さんが
19:28任務に当たっていたのは
19:29長戸市の湯谷湾に面した場所です
19:32長戸市の湯谷湾に面した場所です
19:33水戸市を
19:38このうちの人におったわけです。
19:43高度、高速、高度角をここに出るけれど、
19:47合わさないといけない。
19:4913人が本当にピッタリ合わせる。
19:52これは玉米もおる。
19:59こうやっていった、いっちゃうった、うった。
20:02B-29を。
20:05B-29が嫌いを落としているのが見えるんですか?
20:12見えない。見えないけど、音がするけど、チョボン、チョボン、チョボン、チョボンって。
20:17大きな音がする。
20:19何方向へ嫌いが落ちた、何方向へ嫌いが落ちた、報告しよった。
20:27しかし、松坂さんたちが撃った弾がB-29に当たることは、一度もなかったといいます。
20:39見えない。
20:41このところがコラウトを取っていると。
20:43B-29は一気に行きじゃないで。
20:47ダウンハン、ダウンハン、ドゥンハンと抜けてくる。
20:49本来はどこに合うんだよ。
20:542、3千メートルじゃったら、私はあたらすけど、
20:596千、7千。
21:028千ってらったら、なかなかあたらない。
21:06放射砲を撃つ中でアメリカ軍の攻撃に遭い
21:13仲間が犠牲になることもあったといいます
21:361945年7月2日
22:00空襲は新たな局面を迎えます
22:06狙われたのが県内最大の都市下関市
22:15その市街地です
22:17空襲後に撮影された写真です
22:25使われたのは焼夷弾
22:27石やレンガ作りの建物を除く多くの民家が焼き払われました
22:36失った建物の数は1万個以上と記録されています
22:47同じ日
22:53アメリカ軍は当時県内第二の都市だった
22:58宇部市の市街地を攻撃
22:592つの都市の犠牲者は500人に上りました
23:04なぜアメリカ軍は市街地に攻撃を広げたのか
23:157月にアメリカ軍が発行したレポートです
23:20そこには日本の国民全員が軍隊の一員であり
23:29標的であると書かれています
23:31さらにアメリカ軍は攻撃目標とする180の都市のリストを作成
23:43県内では下関や上に加え
23:49山口や萩など9つの都市が標的とされました
23:537月27日未明
24:07アメリカ軍が向かったのは徳山
24:115月の燃料省に続き
24:14今度は市街地を攻撃します
24:17ものすごいサイレンになって
24:23そして空を見ると真っ赤になって
24:26これは本当に空襲だって言うんで
24:32もう空一面ですよ
24:34一面空が真っ赤になって
24:36真っ赤になって
24:38そして飛行機のB29がバンバンバンバンバン
24:43飛んでくるわけですから
24:45それはもう大変怖い景色でしたよね
24:49琴山本幸さん85歳
24:54当時この道を家族とともに逃げたといいます
25:00琴山さんが住んでいたのは
25:06周南市の児玉町
25:08現在の市役所前の通りを
25:11徳山動物園がある方角へと向かいました
25:15親父が僕の手を引っ張って
25:23おふくろが僕の姉の手を引っ張って
25:26こうやってここを
25:28逃げたわけです
25:30そして
25:32この道にも
25:35もう死体がゴロゴロゴロがってたんですよ
25:40この道ぐらいから大きな屋敷があったんですよ
25:47そこにね
25:49お母さんが撃たれて
25:52機銃操作もありましたから
25:55で撃たれて死んでて
25:59そこに子供が覆いかぶさって泣いてる
26:02景色もこの辺だったと思いますね
26:05転がる死体をまたぎながら山に向かって逃げた琴山さん
26:13川の土手の草むらに身を隠します
26:18草がぶわっと生い茂ってたから
26:22その中こう草を分けて
26:25そこにもうすでに何人もの人がそこへ逃げて座ってましたよ
26:32しばらくして土手に爆弾が落ちたんですね
26:39多分ね
26:40ドスーンとこうなったんだ
26:43空襲も収まったので
26:55その溝から出て行ったわけですよ
26:59そしたら僕の隣に座ってた
27:02おばちゃんが出てこないので
27:04見たらここから破片が貫いて即死をしてたと
27:13あまりにも喧騒がすごかったんで
27:17そういう気がつかなかった
27:18わずか5歳で目撃した
27:24凄惨な光景
27:26琴山さんの頭から離れることはありませんでした
27:32怖い場面をたくさん
27:37一夜にして見たわけですよ
27:40だからね恥ずかしながらね
27:44僕は高校卒業するまで
27:55あるいは大学は僕は大学で寮に入ったんだけど
27:58寮のトイレに行くんでもね
28:03夜怖かった
28:04本当に
28:06なんか昔の後ろからついてくるみたいな
28:14市街地の9割が焦土となった
28:19徳山
28:20482人の市民が
28:25犠牲となりました
28:44広島への原子爆弾投下の瞬間は
28:50県内でも目撃されていました
28:53当時国鉄の岩国駅で勤務していた
29:00竹中平一さん
29:0194歳です
29:03朝岩国駅へ出勤する途中のことでした
29:09私がおったところは鉄道領というのは
29:15この八国駅のかなり向こうのですね
29:19歩いてくるときに向こうは広島の方で
29:26パーッと上がるのが見えていたんですね
29:28音も聞こえたんですか
29:31音は聞こえんだ
29:32光って雲、煙が上がるっていう
29:40ポーンと煙が上がりましたね
29:43新型爆弾が投下されたという噂を耳にした竹中さん
29:52その翌日
29:55何か手伝えることはないかと
29:57貨物列車に乗り込み
30:00広島へと向かいます
30:01広島市内から見えるところに行ったときに
30:07びっくりしましたよね
30:08何にもない
30:11本当、言葉なかったですね
30:14そのとき一番
30:15街が死体であふれる中
30:22竹中さんは生き残った人の助けになりたいと
30:26救護所に向かいました
30:28原木に会われた方です
30:34何人か寝ておられました
30:36そして
30:38その人が喉が渇いたから水をくださいと言われてね
30:47それで、そこに覆われる
30:51観光しておられる方が
30:53綿みたいなのに水を含まれてね、溝を飲まれてね
30:59水を飲まれてね
31:01気軽くしたら、命がなくなれるというような状態が何人もおられました
31:11とてもではないが、日本は勝手と思いました
31:19午前11時前から始まった午前会議で
31:41ポツダム宣言を受け入れ、降伏することが決まろうとしていました
31:47しかし、終戦前日のこの日が、山口で最も多くの命が奪われた日となりました
31:59この日、仕事を終え、実家に帰ろうとしていた竹中さん
32:11西岩国駅の待合所でバスを待っている時、空襲警報を聞きました
32:18狙われたのは、隣の岩国駅でした
32:25アメリカ軍の記録によれば、空襲が始まったのは午前11時55分
32:32空襲は、およそ30分続きました
32:36私はすぐ、岩国駅に走ったのにね
32:45やっぱり、友達もおるしね
32:48岩国駅、神村の職場だから
32:51どこだったんじゃないかと思って行ったんですよ
32:55同僚を助けようと、岩国駅に駆けつけた竹中さんが目にしたのは
33:05変わり果てた岩国の街
33:08投下された爆弾、2839発
33:15一面に無数の穴が開いていたのです
33:20もう何十ってほど爆弾がない
33:2715メートルから20メートルくらいの穴がね
33:30こう、歩けばもう、足がはまるぐらいのね
33:35かなり向こうからね、今、建物がありますが
33:42あの辺から、こっちはもう、あれです
33:45爆弾穴がいっぱいあったです
33:47それから、この駅を通して
33:50向こうの線路、向こうの前まで爆弾穴がいっぱいあった
33:56線路も何もないですよ、もう
33:59客車なんかが斜めにこう、こう、込んでね
34:02状態でね
34:04元には戻らんの?と思ったんですね
34:07この日、竹中さんは
34:13同僚の姿を見つけることはできませんでした
34:23岩国への攻撃を受け
34:25海軍の兵器工場のあった光氏でも
34:28空襲警報が発令されていました
34:31中で、今、岩国がやられているっていうような噂が流れてきました
34:43岩国がやられているなら
34:46もうすぐ、こちらへ来るかもしれないねと言って
34:49またまた、怖くなって
34:52みんなで、あの…
34:55肩を寄せ合ってね、中で退避しておりました
34:59光の海軍交渉に動員されていた
35:04森重恵美子さん
35:11空襲警報が鳴る中
35:13兵器の製造に使う機械を隠していたトンネルに避難していました
35:18その後、空襲警報が解除され
35:24森重さんはトンネルのすぐそばの広場で昼食を取り始めます
35:30ここの広場に腰を下ろして
35:37そこで、二、三十人ももっといたかも分かりませんが
35:43お弁当を頂きました
35:45で、まあ、話に花を咲かせて
35:501日のうちで一番楽しい時間でございますよね
35:55するとしばらくしますとね
35:59何か聞き慣れた枠音が聞こえてきました
36:04あれB29じゃない?って言ったかと思ったら
36:11どーかーんとそれはそれは
36:15午後1時17分すぎ
36:21光で空襲が始まった直後に撮影された写真です
36:28工場の東側から煙が上がっています
36:33爆弾が落ちた場所は森重さんのいた場所からは2キロほど離れていましたが
36:39その衝撃が伝わってきたといいます
36:45もう大地が破裂するような大きな揺れと音を聞きました
36:53私たちはもうここでお弁当箱を放りなれましてね
36:57もうそれこそ誰の命令もなしに
37:01みんなでこの水道へ走り込みました
37:04どーんどーんと爆弾を落とすたびに
37:08あの水道の中の壁に亀裂ができるんですよ
37:13私たちはその亀裂を見ましてね
37:17わあこの上で爆弾落とされたら
37:21私たちは生き込めだがねと言って
37:24もうみんな怖さに
37:27一塊になって
37:30怖さをしのいでおりました
37:34空襲が始まっておよそ40分後に撮られた写真
37:42攻撃は森重さんの避難していたトンネル付近にまで広がりました
37:48私たちの工場がすぐ目の前に見えるのですが
37:58私たちの工場がすぐ目の前に見えるのですが
38:08大きな火の塊になってどーっと落ちていきます
38:14まあうちらの工場が燃えよるとみんなもう拳を握って泣きながら立っておりました
38:22終戦前日
38:33岩国と光を合わせた犠牲者は1200人以上
38:39この年に空襲で亡くなった人々の実に3分の1を超えます
38:548月15日
39:00竹中さんは壊滅的な被害を受けた岩国駅で対応に追われていました
39:09今屋根がこっちに渡っているじゃないですか
39:17屋根の屋根がね
39:19あの辺りだと思います
39:21そこへほいだけ
39:23木を敷いて台の上に死体を
39:29死体をね
39:31家族の自体を焼いては
39:36木を燃える木を死体を敷いて
39:39それから死体を敷いてそれから焼く
39:42これが毎日1週間くらい続きました
39:45はい
39:49私らの友達も亡くなられたからね
39:53私らのあれも役のようにね
39:55男でもあるから泣きましたからね
39:58やっぱりあのー
40:08これがまあ戦争かなと
40:11戦争と辛いもんじゃなと思いましたね
40:15ってことは
40:16もうやばい
40:27正務
40:28森重さんはラジオで終戦を知ります
40:30日本の国は神風が吹くから絶対戦争は負けないんだということでしたから
40:43どうして負けたんだろう悔しいなあ
40:47あれだけ一生懸命お国のためにと頑張ったのに悔しいっていう気持ちと
40:53反面はホッとしましたね
40:56ああこれで戦争は終わったんだっていうその両方でした
41:061945年の3月から終戦までの5ヶ月余り
41:1630回以上の空襲により分かっているだけで3200人以上の命が奪われました
41:26今年94歳になった竹中平一さん
41:47原爆症による通院をしながらも犠牲者の慰霊を続けています
41:54私もこうやって改めてこうやってちょっと心が晴れたような気がします
42:06同僚とか駅のね方のあれから一緒に仕事をやりよったらね
42:13俺亡くなったんで彼らのことを思っております
42:17お前も生きちゃったらこれほど立派になるとは思わなかったぞ
42:21終戦から80年
42:36犠牲となった人々の存在を忘れることはありません
42:42やはり8月の14日が近づきますとね
42:57まず亡くなられた友達のことを思いますね
43:01だから私たちの人生っていうのは
43:05それからは新婚の一与だったような気がいたします
43:12今の平和っていうのは僕はね
43:17もう絶対に言いたいんだけど
43:21一人で転がり込んだんじゃないよってこと
43:24この平和は
43:26一人で転がり込んだんじゃない絶対ない
43:30それまでに大きな犠牲があったりして
43:33そしてやっと平和っていうものを学んだんだよね
43:371945年の山口
43:45私たちが語り継ぐべき戦争がそこにはありました

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