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教育トランスクリプション
00:00日本の南およそ2500キロにあるテニアン島
00:23太平洋戦争の終盤
00:39この島には日本本土を爆撃する米軍機B-29の発進基地がありました
00:51広島に投下された原爆
00:53リトルボーイ
00:55長崎に投下された原爆
01:00ファットマン
01:02原爆投下部隊もここテニアン島から出撃しました
01:09アメリカ軍の基地となる前は
01:36日本人移民が暮らしていたテニアン島
01:39多くの民間人が戦争に巻き込まれ命を戻しました
01:50どうせ自分たちも死ぬんだから
01:57もうみんなでミラギっていうのを海に死にに行こうって言ったんですよね
02:04追い詰められ
02:08自ら死を選んだ人たち
02:11全部父が叩いて殺した
02:17愛があるから殺したりなかった
02:22我が子を手にかけるってことは普通できるもんでないからね
02:30今の時代にそういったら本当に笑われるかもしれないけど
02:35実際にそういう時代があったんだから
02:39そして今この島は再び軍事的な拠点になろうとしています
02:50どんどんどんどん何往復もトラックが行き返して工事が進んでいる様子です。
02:59戦後80年
03:02玉砕と原爆の島から
03:05繰り返してはいけない戦争の現実を伝えます
03:10北マリアナ諸島の一つテニアン島
03:22リゾート地として知られるサイパン島のすぐそばに浮かぶ
03:28周囲50キロほどの小さな島で
03:31現在はアメリカの自治領です
03:36マリアナブルーと呼ばれる美しい海
03:41主な産業は観光業で
03:46牧畜や農業も行われています
03:50人口はおよそ2000人
03:59レストランでは87歳になった女性のバースデーパーティーが開かれていました
04:06今は住民たちが支え合って暮らす平和な島です
04:30島の北部
04:40かつての飛行場の跡地に向かいました
04:44テニアン島北部にやってきました
04:48ここはノースフィールドという場所で
04:5180年前エノラゲイ号が原爆を搭載して
04:56広島に向かった滑走路が今でもこうして残っています
05:00当時のノースフィールドです
05:06日本に投下された原爆は
05:10このノースフィールドで最終的な組み立てが行われました
05:15島にはコンクリートで固められた
05:24原爆組み立て工場の跡地が今も残っています
05:29原爆は一旦原爆ピットと呼ばれる場所に収められ
05:39そこから引き上げてB29に積み込まれました
05:46その原爆ピットもガラスの屋根に覆われ残されています
05:52中には当時の写真が飾られていました
06:01原爆投下の任務に当たったのは
06:10第509混成軍団
06:14アメリカ陸軍航空軍の精鋭
06:17およそ1800人で編成された秘密部隊でした
06:21その指揮を取ったのがポール・ティベッツ大佐
06:31当時30歳
06:33原爆を搭載したB29エノラゲイ号を
06:41自ら操縦しました
06:431945年8月6日
06:51日本時間の午前1時45分
06:55テニアン島を発進
06:57午前8時15分
07:02広島に原爆を投下
07:04人類史上初めて核兵器を使用しました
07:133日後の8月9日
07:15別の機長が操縦するB29が
07:18長崎に原爆を投下
07:21原爆が勝利を導いたとして
07:32アメリカ中が湧き立ちました
07:35ティベッツは英雄になりました
07:40E으�eres эルファースメディフ ALEX
07:47既選擇監視機や
07:51アメリカの相撲を探訪した
07:52トレイバ tresコンストリア
07:53我々は
07:54今回の差は
07:56本能の出がして
07:58アメリカの23回ンセア
08:01変更かり
08:04濃 durした
08:05断層で甘く
08:06テーブな物を
08:07念なさ Aeronne
08:10原爆による犠牲者は広島と長崎を合わせておよそ21万人
08:22生き延びた被爆者たちは
08:27火傷によるケロイドや言われのない差別に苦しみ
08:32放射線による健康被害は今も続いています
08:40原爆は自分たちの住む島から日本に向かった
08:50その歴史を伝えてきた女性がいます
08:58日本人のケイコ・マングローニャさん
09:01テニアン島出身の男性と結婚し
09:0636年前に移り住みました
09:096年前までテニアン高校で日本語の教師をしていたケイコさん
09:182005年からの10年間
09:23テニアン高校の生徒たちを連れて広島を訪問し
09:28原爆被害の実態を学ばせてきました
09:33自分たちの島から出て行ったB-29が
09:39広島で原爆を落とした後どうなったか
09:42自分たちの目で見て初めて分かるんですよ
09:45広島に行った生徒たちだけが
09:48自分の目で見て体感して
09:50でも広島は今もう本当に近代的な街に
09:55みんなの努力でなったんだ
09:57みんな自分の目で見て
09:58交流を楽しんで帰ってきました
10:02ケイコさんには忘れられない出来事があります
10:08それは2004年にテニアン島で行われた
10:14アメリカ軍の記念式典で
10:17原爆投下部隊を指揮したポール・ティベッツを目にしたこと
10:23司会してた人はスーパースター扱いでしたね
10:28B-29で原爆を搭載して飛んでったパイロットが
10:57スペーチするというのを知らなくて
10:59しかも1時間もスペーチするとは思わなかったですね
11:04式典には長崎の被爆者も出席していました
11:23それでやっぱり長崎のおじいさんは前の方に座ってたんだけど
11:29本当にもう怒りでどうしようもないみたいな感じでした
11:34頭の中ではこの野郎この野郎この野郎この野郎
11:38って考えながら聞いてたみたい
11:41原爆が戦争を終わらせ犠牲者を減らすことができた
12:09ティベツのこの主張は長い間
12:13多くのアメリカ人によって支持されてきました
12:17そして今も
12:22アメリカ軍によるイランの核施設攻撃について
12:28トランプ大統領は
12:31しかし若い世代を中心に
12:49その考え方を否定する人たちも増えています
12:52けいこさんが教師を務めていたテニアン高校でも
12:59皆さんのフロアすぐさとテニアンから
13:03B-25が飛び立ったことについては
13:06どういうふうに思っていますか
13:07アメリカ人が立てる予定
13:16éxpertりする予定
13:18プロアスプロアスプロアスは
13:19I was really surprised
13:20I didn't expect this small island
13:22This peaceful small island
13:25was the cause of the
13:27destruction of Hiroshima and Nagasaki
13:32I was shocked
13:33テニアン高校にある原爆投下を描いた絵
14:03作者は分かりませんがキノコグモの下にはポール・ティベッツの直筆サインが記されていました
14:12原爆の投下を肯定し続けたポール・ティベッツ
14:19戦後広島の被爆者に語った言葉が残されています
14:27戦争が起こって同じ命令が下ったら私は同じことをやるでしょう
14:38それが軍人なんです
14:42それが戦争なんです
14:46しかし彼はコーンを語っていました
14:52だから戦争は絶対に起こしてはいけないんだ
15:07絶対に起こしてはいけない戦争
15:10それはこの南の島にも悲劇をもたらしていました
15:17島に残る廃屋には
15:24カタカナでテニアンの文字
15:29そして横たわる大きな鳥居
15:38かつてこの島には多くの日本人が暮らしていたのです
15:44テニアン島は1920年から日本の統治領となり
15:52およそ1万5千人の日本人が移住しました
15:56平坦な土地と肥沃な土壌に恵まれた島は
16:05サトウキビ栽培に適していました
16:08サトウを生産する製糖工場が作られ
16:14人口はさらに増加
16:17日本人が住む市街地には
16:22映画館やカフェなどが軒を連ねました
16:26日本人移民の多くは
16:32貧しい農村出身の人々
16:35およそ7割が沖縄県の出身だったといいます
16:41その沖縄に戦前のテニアン島で生まれた女性が暮らしています
16:52荒垣光子さん
16:5790歳です
16:591934年にテニアン島で生まれた光子さん
17:07沖縄から移住した両親と祖父母は
17:14大規模なサトウキビ農場を営み
17:17生活は豊かでした
17:19テニアン島で生まれて
17:23マルポ国民学校に入って
17:292、4、6、8と2、4、6、8、22、4、6、8
17:36だいたい50人ぐらいいるな
17:39太平洋戦争が始まって2年半
17:47アメリカ軍は日本軍の拠点となっていた
17:52サイパンやテニアンへの攻撃を開始します
17:56サイパン、テニアン
18:00これらの島は爆撃機B-29が燃料補給なしに
18:06日本本土の主要都市を攻撃できる距離にあったのです
18:101944年7月
18:17サイパン島を攻略したアメリカ軍は
18:20テニアン島の北西部から上陸
18:23日本軍との地上戦に
18:27住民が巻き込まれていきます
18:30島の中部に暮らしていたミツコさん一家は
18:37南部のカロリナスに避難しました
18:40照明団が夜照明が上がったら
18:45伏せたりいろいろやって
18:47そこにいっぱい人が死んでるんですよね
18:50テニアン島では
18:56日本軍と民間人を合わせて
18:591万5千人余りが亡くなったとされています
19:10そのままこの死体をまたいで
19:17うちのおばあさんが
19:20見たでしょ
19:21何して道に倒れて死んでるの
19:24人に踏まれて
19:25あれだけどうせ自分たちも死ぬんだから
19:29もうみんなで
19:31みなぎっていうのを海に
19:33死にに行こうって言ったんですよね
19:36サイパイアテニアンでは
19:40多くの人が断崖から身を投げ
19:43命を絶ちました
19:45もう子供だから
19:54やっぱり親のことついては言ったんだけど
19:58砲崖みたいな人がいっぱい浮いてるんですよ
20:01海に
20:03これ見ていいやん
20:04私死なないって
20:06山の奥に逃げたら
20:07やっぱりうちの家族も
20:09私の名前を呼んで
20:12私を継ぎてきて
20:156人家族もみんな元気でした
20:20これだけうちのおばあさんがいつも言うよって
20:23あんたのおかげで海に落ちないで助かったね
20:26みっちゃありがとうねって
20:30うちのおばあさんが言ってたけど
20:34おみにこうポンポン
20:38うち
20:39人が浮いてるの見たら怖くて
20:51悲惨な戦争を幼い目に焼き付けた子供は
20:56みつこさんだけではありませんでした
21:04福島県藍津番下町
21:07この地にもテニアン島での壮絶な記憶を背負って生きる男性がいます
21:16リンゴ園を営んでいる伊藤久夫さん
21:2190歳
21:231934年に福島県で生まれた久夫さん
21:31生後2ヶ月の時
21:33家族でテニアン島に移り住みます
21:36昭和9年の9年に私は生まれました
21:439年の12月に
21:46その年は東北では
21:49未曾有の大著作であったと
21:53お正月に家族で食べる米がなかったと
21:58そのくらいの大著作の年であって
22:01それでこんなではしょうがないということで
22:03実は昭和10年の2月にテニアン島に行くことになったんです
22:10貧しさから逃れるために向かったテニアン島
22:16伊藤家は両親と姉久夫さんに加え
22:22島で生まれた妹2人の6人に
22:26一家はサトウキビを栽培し
22:30貧しかった生活は一変します
22:33私の記憶では全然
22:36食料に困ったということは記憶にありません
22:40テニアン島というところは
22:42どこ行っても果物が豊富であって
22:46本当に子どもに
22:47我々にとっては
22:48ご娯楽のような
22:50本当に楽しい世界
22:55遊び方ばっかりしていました
22:56しかし1944年7月
23:01アメリカ軍がテニアン島に侵攻
23:05住民を巻き込んだ地上戦が始まります
23:10島の北西部に住んでいた一家は
23:17南部のカロリナスに広がるジャングル地帯の
23:21洞窟へ避難
23:22同じ洞窟には
23:296家族31人が
23:33息を潜めていました
23:34追い詰められたところに
23:44夜7月30日の
23:47一斉射撃の
23:48漢方射撃が
23:49あったんです
23:49雷の
23:52接近に落ちた
23:53連続のバレバレという
23:56一晩中の漢方射撃だったんです
23:58朝になってみたらば
24:01今まで空も見えなかった
24:03海も見えなかったのは
24:05全部見えるんです
24:061944年8月1日
24:13日本の兵隊さんが2人来たわけです
24:18やはり水をもらいながらもらえた
24:21今テニャン島のカロリナスのジャングルは
24:26民間人の死体でいっぱいですよと
24:30そうやってこれを伝えてくれる人が
24:32誰もいないと
24:33本当にそれが残念でならないと
24:36今夜は最後の突然駅ですよと
24:39明日から日本の兵隊さんは
24:411人もいないですよと
24:43洞窟に潜んでいた
24:47伊藤家を含む6家族31人は
24:50日本兵からもらった
24:525つの手榴弾を使っての
24:55集団自決を覚悟します
24:57伊藤さん
25:27捕虜になさせないと
25:29そう言っていたんだから
25:30捕虜になれば
25:33女はアメリカ兵から
25:36恥ずかしみを受けて殺され
25:39男や子供も殺される
25:41と言われていたといいます
25:44翌8月2日
25:51洞窟の入り口まで
25:53アメリカ兵が迫ってきました
25:55家族ごとに分かれて
26:13手榴弾を囲むように
26:155つの輪ができました
26:17そして
26:205つの手榴弾のうち
26:433つが爆発
26:452つは爆発しませんでした
26:49伊藤さん一家の手榴弾は
26:55不発
26:56青白い煙はさーっと出たけど
27:01私の手榴弾は不発であった
27:05同じく不発だった
27:10別の家族6人と
27:11久尾さんの姉は
27:13恐怖のあまり洞窟から逃げ出しました
27:16残ったのは
27:20両親と久尾さんに
27:222人の妹
27:23そして
27:25死にきれずに苦しんでいた
27:28他の家族
27:29今度大袋は
27:33みんな苦しんでいるのに
27:36死んでいるのに
27:37俺のばかり生きていると言って
27:39今度
27:40父は
27:42衣装便で
27:44大袋の頭を
27:46はたいたそうです
27:47はたいたら
27:49衣装便は
27:50この辺に
27:50これこの辺
27:51ダメだ
27:51って言って
27:52大袋は
27:53その洞窟内を探してみたら
27:56まさかりのようなことを
27:58探してきたんです
27:59それを父に渡して
28:02そのまさかりのようなもので
28:04苦しんでいる人を
28:06全部叩いて殺してしまったんです
28:08久尾さんの父親は
28:11うめき苦しむ他の家族に
28:14次々と
28:16まさかりのようなものを
28:18振り下ろしました
28:19そして
28:21自らの家族にも
28:24私の妹2人は
28:29母と
28:30私の膝の下にいるんですね
28:33父が
28:34叩いて殺した
28:36私もね
28:41父に戦いました
28:44それでここに
28:45ここに
28:46引っ込んでいるんです
28:482つね
28:49これも親に
28:51働いていた
28:52それから
28:56戦いから
28:58記憶はなくしました
28:59目を覚ますと
29:04そこは
29:05アメリカ軍の
29:06捕虜収容所でした
29:08久尾さんと
29:11母親は
29:12治療を受け
29:13一命を取り留めます
29:15アメリカの人が
29:19兵隊が
29:20アメリカが
29:21連れていたんだよ
29:22怪我にも
29:22みんな
29:23お母さんと
29:24俺2人で
29:26一つの単価に
29:28寝せられていたら
29:29でも結果的に
29:30捕虜になっていたら
29:31みんな助かったんですよね
29:32そうだ
29:33捕虜になったら
29:35誰も逃げ回っていることないんだよ
29:40助けてくれるって
29:44分かっていればね
29:45何のための
29:49集団自決だったのか
29:52父親も
29:56アメリカ軍に
29:58保護されていました
29:59いや俺は
30:04みんなを
30:05たたいて
30:05殺してしまったけども
30:07俺が
30:08たたかなければ
30:09まだ何人かの方が
30:11生きてきただろうと
30:13その時
30:16父を話したのは
30:17それだけです
30:18戦争のことは
30:20あとほとんど
30:21話しはしてなかった
30:23洞窟にいた31人のうち
30:29久男さんの妹2人を含む
30:3220人が亡くなりました
30:34終戦の翌年
30:42伊藤家は
30:44テニアン島から福島に戻りました
30:47近所の寺の境内に並ぶ
30:546つの地蔵
30:57今30年ばかり前に
31:04六地蔵さんを
31:072人の子供を
31:10手にかけて殺したでしょ
31:12その思いがあって
31:14六地蔵さんを建てました
31:17憎しみを持って
31:21手にかけたわけじゃない
31:22ということだけは
31:23分かってもらっていると思います
31:26愛があるから
31:29やっぱり
31:30子供に手をかけたんじゃないかと
31:34私は思っております
31:35つらかったじゃないかと思うのね
31:38親たちは
31:38子供を見守ってくださいよ
31:44皆さん
31:44久男さんの父親は95歳で母親は90歳でこの世を去りましたテニアン島で戦死した軍人の息子がいます
32:12こんにちは
32:14すいません
32:16はい
32:17山崎さんよろしくお願いします
32:20島根県出雲市に住む山崎勲さんです
32:26父の金三郎さんは海軍の兵士でした
32:34うちの親父は56警備隊だったもんで北の方から上陸して
32:45で56系もそっちずっと行ったらしいです
32:51こちらは何ですか
32:54これは戦死後方
32:55死んだよってやつ
32:57届いたのが22年の4月だから
33:01だから2年余り
33:041年と8ヶ月かなんかそのぐらいは帰ってくるかなと思っちゃったんでしょう
33:11あのテニアンで戦死したのは全部同じ日です8月2日
33:17テニアンに追った兵隊は8月2日が戦没日です
33:23いつかというのは分からない19年
33:35今年2月山崎さんはテニアン島での遺骨調査に参加しました
33:417年前から調査に参加している山崎さん
33:48今回で12回目となります
33:52向かったのは多くの日本人が亡くなったカロリナス
34:03道なき道を進みます
34:08ジャングルを歩くこと20分
34:19戦火を逃れるために日本人が潜んでいた崖の下に到着しました
34:25テニアン島では1952年から日本人の遺骨調査が行われています
34:38島で亡くなった日本人は1万5000人余り
34:46今もおよそ5000人の遺骨が置き去りにされたままと言われています
34:54遺骨調査には現地の人たちや日本の大学生ボランティアも参加
35:06厚生労働省からも法医学や私学の専門家が派遣されます
35:1682歳の山崎さん
35:24調査員の中では最高齢です
35:27調査開始から1時間
35:35多くの遺品が見つかりました
35:38中には人形のようなものも
35:44住民だったら子供が持っちゃったのか
36:04兵士がお守りの代わりに持っちゃったのか
36:06なんか想像すればいろんなことを想像できるけど
36:13遺骨も次々と見つかりました
36:27歯や手足の指の骨
36:34亡くなったままの状態で
36:42言ってみたら何のリレー
36:45お葬式とかも行われずに
36:47野晒しにされているという状態なのが
36:50ちょっと自分だったら悲しいなと
36:54自分のお父さんとかお母さんとかが
36:57そうだったら悲しいなという風に思って始めた感じです
37:02発見された遺骨は
37:07DNA鑑定で身元が特定されれば
37:11遺族のもとに返されます
37:13親父の骨を縫うより
37:25今110万ぐらいの骨が
37:30海外に日本の家の帰りを待っちゃうんですよ
37:35それらをなるべく早く連れて帰るというのは
37:40当たり前のことだと思うし
37:42ここで亡くなれた戦没者に対し
37:48拝礼を行います
37:49拝礼
37:50戦後80年たっても
37:58終わらない戦争
38:00この日テニアン島を訪れたのは
38:12東京都遺族連合会の理事
38:15岡野俊幸さん
38:17私親はフィリピンで戦死して
38:23身内が4人亡くなってますから
38:26ですから慰霊の旅はある限りはね
38:31警察官だった岡野さんの父親正友さんは
38:40出生後フィリピンのミンダナオ島で戦死
38:4336歳でした
38:46海外の戦没者を慰霊する旅の途中で
38:55岡野さんはこのテニアン島に立ち寄ったといいます
38:59向かったのは日本人の慰霊碑が並ぶカロリナス
39:10アメリカ軍に追い詰められ
39:14多くの人が命を絶った場所です
39:17安らかにお休みください
39:36時間とともに
39:45遺族というのは忘れるんじゃなくて
39:48時間とともに
39:51そのことの深さが
39:53身に感じる日が多いですよね
39:56だから私の場合は
39:59毎日思わない日がないですね
40:0480年ということではなくて
40:08100年200年って日本が平和であり続けることが
40:13一番大事でしょうね
40:14それが亡くなった人たちに対する
40:19生きた人間の霊の尽くし方でしょう
40:2280年前
40:29B-29が原爆を搭載して飛び立った
40:33ノースフィールドでは今
40:36どうもこちらの右側を
40:42木を伐採して拡張工事を進めているようです
40:46先ほどからですね
40:51ブルドーザーとかトラックが
40:53木を乗せて
40:54滑走路跡をですね
40:56どんどん走っているんですが
40:58アメリカ側によってですね
41:00そこは撮影してくれるなということで
41:02全く撮影していません
41:04現場での撮影は許されませんでしたが
41:10アメリカ軍は
41:12広報用の動画を配信していました
41:14行われていたのは
41:20かつての飛行場の再整備
41:23アメリカ軍は
41:25テニアン島を重要な戦略拠点として
41:29再び蘇らせようとしているのです
41:32具体的な運用開始時期は
41:36明らかになっていませんが
41:38日本の自衛隊も
41:40共同利用する可能性があります
41:43再び基地ができることについて
41:50島民は
41:51若者たちは
42:11島の平和を願っていました
42:15原爆とテニアン島の関わりを伝え続けてきた
42:32元教師のケイコ・マングローニャさん
42:36この島で戦争の犠牲となった日本人のために
42:42慰霊碑も建てました
42:45魂の祠って私たち呼んでるんですけど
42:53私たちが作りました
42:55普通の慰霊碑じゃなくて
42:58中を空洞にして
42:59ジャングルで見つかった遺骨とか
43:02それからシャレ神戸もありました
43:05骨とか全部ここで
43:07厚生省の方が土地に来られるまで
43:10ここに保存しています
43:11息子が何て言って
43:14お参りすればいいの?って
43:15キッコから
43:16安らかに眠ってください
43:18っていうのももちろんなんですけど
43:21今の平和をありがとうって
43:23お参りしなさいって
43:24子供たちには教えてきました
43:27テニアン島で生まれ沖縄で暮らす
43:35新垣光子さん
43:37カロリナスの断崖から身を投げて亡くなった人たちの無念を
43:45今も背負いながら暮らしています
43:52戦争のこと考えて亡くなった人たちにかわいそうだな
43:58生きていれば私のように元気だったかなと思ったりをするんですけど
44:03やっぱりね自分が恵まれてこの年まで11歳まで生きてます
44:13父親がテニアン島で家族を手にかけるという悲惨な体験をした伊藤久雄さん
44:27我が子を手にかけるってことは
44:35普通できるもんでないからね
44:38今の時代にそう言ったら本当は笑われるかもしれないけど
44:43実際にそういう時代があったんだから
44:47今の人たちにね若い人たちにとって
44:51信じることはできないよね話したって
44:55それだけで本当であるってことだけは分かってもらいたいの
45:00戦後80年がたっても
45:12戦争による苦しみや悲しみを抱えて生きている人たちがいます
45:19そして今もなくならない戦争
45:27目をそらしてはいけない現実です
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