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  • 2025/6/16
トランスクリプション
00:00最近世界的に東洋文化とか東洋の思想というものが
00:09大きな関心を持たれております
00:12確かに従来西洋的なものの考え方とか
00:17西洋文明というものが言うなれば
00:20歴史の主流を占めていたということは言えようかと思うんですが
00:25それが現在様々な理由から見直しを迫られている
00:30そうしたことの関係から東洋的なものが見直されてきている
00:35そういう時代であろうかと思いますし
00:38この傾向は今後も続いていくだろうと思われます
00:42そこで東洋的なものとは一体何なのか
00:47特に東洋というものはよく西洋のものに対して
00:52心というものが主体であるというようなことも言われるわけなので
00:57東洋の心を語るということで
01:01今月から毎月1回いろいろと考えていってみたいと思います
01:07お話をいただきます方は
01:11東洋学院院長の中村はじめ先生でございます
01:14先生東洋の心を語るということで
01:19本日その第1回の開かれた心ということでございます
01:26なんかこう開かれたとか開くって言いますと
01:30なんか私とってもパッと明るい感じがするんですね
01:34塞がれていた道が開かれたとか
01:37胸筋を開いて語るとか
01:40なんかこうわだかまりが消えて心が開くとか
01:44こうしたことはその時その時の一つの心の一時の動きなんでしょうけども
01:51例えば真理に目が開くとかいったような使い方もございますし
01:55テーマが開くということでございますので
01:59一体開くとか開かれたというのは一体どんなものなのか
02:04その辺から少しお話を伺いたいのでございますが
02:07東洋の心ということを問題にしますときに
02:15開くとかあるいは開かれるということは
02:19非常な意味を持っていると思うのであります
02:23我々自分の生きている姿を反省しますと
02:32どうかすると心が閉ざされている
02:36あるいは偏見に閉ざされているというようなことが
02:42無意識のうちにございますね
02:44何かの時にそれは気がつくわけです
02:47そこでパッと目を覚まされる
02:51目を開く
02:53あるいは人によって目を開かさせられる
02:56本当にそうだったなと思うことがございます
03:01それによって人間のうちにある尊いものに
03:09気がつくようになる
03:12だから東洋の心といたしましては
03:15開くとか開かれるというのは
03:17非常に重要な意味を持っていることだと思うのでございます
03:22これも昔から東洋の文化で
03:26常に言われていたことだとは言えないのでありまして
03:36ある時代には
03:38知識が閉ざされていたということがございます
03:47それに対してはっと気がつく
03:55そこでマナコンが開かれるわけですが
04:00仏天によく出てくる言葉でありますが
04:03開発と世間で申しますね
04:09知能を開発するとか何とか
04:10開いて発するという
04:12よく開発という言葉を一般にも使いますですね
04:15あれは仏天によく出てくる言葉なんです
04:19もうすでにインドで使われて
04:22簡約の仏天に出てくるんですが
04:25つまり人間はうちにこの尊いものを持っている
04:30それを他の人が
04:35この自貧の心を持って伸ばしてくれると
04:41その場合にも開発
04:43仏天の読み方ですと開発と読みますが
04:47あるいは
04:49特に誰かの力を借りなくても
04:57うちにある可能性が
04:59何かの場合にパッと開かれて発展すると
05:03そういう場合もございますね
05:05それも開発と申しました
05:07仏天にも出てきますし
05:10それから工房大使もよく使われております
05:14あるいは
05:17練乳商人のお踏みなんかにも
05:22祝禅開発という言葉がございます
05:24祝禅と申しますと
05:26昔から
05:27宿という
05:28そうです
05:29宿という
05:30有事に禅という
05:31禅です
05:31昔からの
05:32昔からですね
05:33こう
05:34苦毒を積んでいいことをしていた
05:36それが可能性となってですね
05:40何かがふっと
05:41特別な機会に
05:44縁を借りて現れていると
05:46こういうことはありがたいことだと
05:49そう気づかれたわけでございますが
05:52あるいは
05:54見方を変えますと
05:55私どもは
05:57しょっちゅう
05:57この迷いの中で
06:01まどろんでいるようなものですが
06:02そこでパッと目を覚ましていただくと
06:06目を開くという言葉もございました
06:09日蓮聖人には
06:11開目書という
06:13書物を借りまして
06:15これは日蓮聖人の書物の中では
06:18特に重要なものの一つでございます
06:21仏教ではことに
06:27開く
06:31開かれるということを
06:33非常にたっとんでいたのでございます
06:35何かこう
06:37私どもの毎日の生活の中でも
06:40時々ございますですね
06:42今までこう
06:43今になればよく分かっているんだけれども
06:46その時までは全然気がつかされていなかった
06:49ある時
06:50はっと目が開けたというんです
06:52そうしますと
06:53今まで自分の考えていたことの幅が
06:56ぐっと広まってきて
06:57仕事から何からが
06:59しかるべくいい方向に展開していく
07:02おそらくこの宗教的なもの
07:04あるいは
07:05人生の真理とか
07:08あるいは人間の真理と
07:10いったようなものに関しても
07:12何かの時にふっと気がつかされる
07:15あるいは教えられて
07:17その目が開かされていく
07:19そうしたものが
07:21一つの東洋の
07:22おそらく東洋の宗教といいますか
07:24釈尊の教えの中にもあって
07:27それがずっと広大にまで伝わってきている
07:33やはり心を開いていく
07:36目が開かれる
07:38そうしたことが
07:39仏教というものの
07:41一つの大きな願目といっても
07:44いいんじゃないかと思いますけれども
07:45そうですね
07:48古典の教えというようなものは
07:52私どもしょっちゅう
07:55繰り返し読んでいるわけですし
07:58それからまた
07:59人様から教えられることでも
08:02同じようなことを
08:03言われたり教えられていますが
08:04けれど
08:06ある時には
08:10大してそれが自分に響かないことがある
08:12ところが
08:13何かの時に
08:15ことに経験を積んだ後ですと
08:17ああまさにこれだったなと思って
08:19気づくことがありますですね
08:20そうすると
08:22それは抽象的な知識によって
08:26開かれたのではなくて
08:28自分の体験に照らし合わせて
08:31何かの起源で
08:33はっと気づかさせる
08:34実践的な認識であると
08:38そういうことが言えるんじゃないでしょうか
08:41そうしたことと同時に
08:43もう少し一般的な面で考えましても
08:46例えばお互いに
08:48胸筋を開いて語り合うとか
08:50隠し事をしないで
08:52お付き合いが行われていくとか
08:56いわばコミュニケーションということが
08:59よく言われるんですけれども
09:00やはり心が開かれない限り
09:03コミュニケーションはやはりできないだろうと思いますしね
09:06そうです
09:07そしてその胸筋を開いて
09:09人に語るということがなければ
09:12人々の付き合いもうまくいきませんし
09:17さらに大きく言えば
09:19文明も発展しないと思うんです
09:21この文明の発展の後をたどってみますと
09:25仏教以前には必ずしも
09:28全ての人に知識を開いて
09:30伝えるということはいたしませんでした
09:32例えばインド哲学の起こったのは
09:36ウパンシャッドからだと言われておりますが
09:38そのウパンシャッドの
09:40哲学的知識というものは
09:43こう書いてあるんですね
09:44自分の長男
09:48または信頼し得る弟子にのみ
09:51伝えよというんですね
09:52そういう態度は
09:58まだ他の国もいろいろ見られますので
10:00我が国でもですね
10:03秘伝というものがございましょう
10:06このごく限られた人にだけ伝えると
10:10この秘伝というものが
10:12芸術なり学問の発展を阻害するということ
10:18日本の富永仲本なんかは盛んに
10:22沖縄の文という書物の中で
10:24批評しておりますですかね
10:25けど実際それが行われております
10:27私は自分で手がけた方のことを申し上げますと
10:32仏教の論理学を陰明と申しますね
10:36原因と明らかと書きますが
10:38あの陰明の書物
10:40鎌倉時代にいろいろ作られておりますが
10:43その写本には表に札が貼ってありましてね
10:47こう書いてあるんです
10:48この本はですね
10:53まして日本となすなかれと
10:56コピー作っちゃいかんって言うんですね
10:58ただその
10:59自分の信頼し得る弟子にのみ伝えようと
11:03言うわけですね
11:05だからその陰明の学問というのは
11:09十分発展しなかったと思うんです
11:11じゃあこれはその
11:12アジアの一部にだけ限られてたことかというと
11:16決してそうじゃない
11:17どこの国でも見られることじゃないですか
11:19知識を隠していたために
11:23やがて消えてしまう
11:24私ふっとこの機会に思い出すんですが
11:29アメリカのハーバード大学の博物館で
11:36特に宝物として持っているものがあるんです
11:41何かと言いますと
11:43ガラスで作った花なんですね
11:49一種の造花ですけどガラスで作られた
11:52古いものなの
11:53古いものです
11:53その見ますとね
11:55本当の花とちっとも違わないんですよ
11:58それはドイツ人親子がですね
12:01特別な技術を持っていた
12:03素晴らしいものだというので
12:06ハーバード大学はそれを買ったわけですね
12:09けれどもドイツ人親子が亡くなってしまったら
12:13もう技術を伝える人は
12:15それでいなくなりました
12:20だから後で伝わらない
12:23結局今日こんなに文明が発展していても
12:28機械文明が進んでいてもですね
12:29作ることができないんだそうですよ
12:32隠されてしまったから
12:33いわばコミュニケートもできなかったわけなんですが
12:36先生しかしいかがなものでございましょうね
12:39知識とか技術というものは
12:43人に隠して
12:44自分の特定のものだけに伝授するということはあるわけですけれども
12:50それがいいか悪いかということがあるわけですけれども
12:54真理とか真実というものが
12:58果たして秘密にしておくということができるものなのかどうなの
13:03知識技術じゃおそらく真理ということになりますと
13:07違うと思うんで
13:08例えばシャクソンの場合も
13:10真理を悟られたというのでございますけれども
13:14この真理というものを
13:19一体隠すということができるものなのかどうか
13:23その辺にいかがなものでございます
13:24この自然科学的な知識を
13:26隠すことができるかどうかということは
13:28これは今問題になっていますね
13:30けどシャクソンの場合は違うんですね
13:34もう人間の真理というものは
13:38積極的に人に伝えるべきものだと
13:43そう思われたんです
13:45シャクソンが説かれたその真理
13:47これを法と申しますか
13:51元の言葉でダルマとかダンマと言うんですが
13:53これは実月のように
13:56あまねく世の中を照らす
13:59隠すことがないわけですね
14:02ウパニシャッドの教えの場合には
14:07信頼する弟子にしか伝えなかった
14:09シャクソンはそうじゃなくてですね
14:11人間の真理というものを万人のものにしたわけですね
14:15だから相手を選ばないわけです
14:17シャクソンの教えを聞きに来た人の中には
14:20いろいろな階級の人がいました
14:23そしてまたその教えは
14:25民族の差を超えてあまねく広がりましたですね
14:30立場が全然違うわけです
14:33じゃあそうしますとやはり
14:35シャクソンのお悟りを目覚めという言葉で
14:39言うこともございますんですが
14:41その真理、だるま、だんまというものに目覚められて
14:47結局目覚められたら
14:49その真理というものは何ぞ計らん
14:52お日様、実月のごとくにも
14:54最初からさんさんと私どもを照らしている
14:58結局私どもの方が見えなかったということなんでしょうか
15:02自分の方に迷いがあって隠されている
15:07ところが教えを聞いてハッと目を覚まされる
15:11うちにある尊いものに気がつくようになった
15:14そうするとそれは万人のものになるわけですね
15:18そうした形でシャクソンのお悟りが
15:21目覚めと言いますか
15:23気づかされたと申しますか
15:25そうしたことなんでしょうが
15:27しかしそのシャクソンほどの方が
15:30あれだけ修行されて気づかれたものだけに
15:34私どもにそれを簡単に気づけと言っても
15:37なかなか難しいだろうと思いますし
15:39シャクソンは自分の目が開かれた
15:44それに対して目が開かれた真実法というものを
15:49解かれるときにいろいろと悩まれるようなことも
15:53あったんじゃございませんでしょうか
15:55なかなかしゃべれないものだろうと思うんですね
15:57シャクソンの道を求める最初の出発点というのは
16:05自分も苦しんでいる人々も苦しんでいる
16:08これをどう解決したらいいかということで
16:12方々の鉄人を訪ねたり
16:16自分でも修行するということをされたわけですね
16:21ついにブッダガヤというところの
16:27菩提寺の下で悟りを開かれたと
16:30そこまではどの仏典にも出ていることでありますが
16:36その後しばらくシャクソンは
16:39自分が真理を体得された
16:43その境地を楽しんでおられたと
16:46じっと座ってですね
16:48禅城の境地に入って
16:54自ら味わっておられたと
16:57仏典によりますと
16:59シャクソンが菩提寺から悟りを開かれて
17:02その後数週間1週間ごとに
17:05その気は変えているようですけれども
17:08禅城に入って
17:10禅城の楽しみを
17:13禅城のお悟りを楽しんでおられるというか
17:16反数されておられたというか
17:19先生大変難しい問題なんですが
17:22そのお悟りの後の数週間の
17:26シャクソンの心の中に
17:27どんな思いがあったんでございましょうね
17:29そうですねこれは私のような
17:33凡人がなかなか忖度できませんけれどもね
17:36インドの聖者はじーっと座ってですね
17:40しばらくの間何も言葉を発しないと
17:44その境地を楽しんでいるという人は
17:46非常にございます
17:47信者が会いに来るわけです
17:52これを向こうの言葉で
17:54ダルシャンと申しますかね
17:56見ることで
17:58見ることなんですね
17:59まあ越見ですか
18:01そうするとそのお目にかかるということ自体を楽しんでいる
18:04必ずしも教えを聞かなくてもいいし
18:07また教えを解かない
18:09シャクソンの場合も最初はそうだったんじゃないかと思う
18:142人の商人がですね
18:16そこを通りすがって
18:17置くようしたということが出ておりますね
18:22けどまだ静かな境地を楽しんでおられて
18:26それを2人の商人もありがたかったというわけです
18:32けれどもシャクソンの心の中に
18:38何か新しい気持ちが起こったろうと思うんです
18:41この自分自身が味わわせていただいている
18:46このありがたい境地
18:48これこのまま自分一人で
18:52保っていていいのかどうか
18:56あるいは他の人も同じように苦しんだり悩んだりしているんだから
19:01共にすべきではないかと
19:04そういう反省もまた心の内に起こったんじゃないでしょうか
19:12確かに自分がいろいろ悩まれて
19:14そして悟りを開かれて
19:16いわばその人生の不安苦悩というものを
19:20克服されたわけですし
19:21世間を見ると悩んでいる方がたくさんいらっしゃるわけですから
19:26なんとかときっと思いになったでございましょうね
19:29と同時になかなか気づかされないものを
19:34人に気づかすということの難しさも
19:37おそらく身に染みて
19:40シャクソンをお考えになったんじゃないかという
19:43私は実はするんだよ
19:44そうだろうと思いますね
19:46本当の自分の体得した境地というものを
19:53人に伝えることができるかどうかという
19:57そういう難しい問題になるわけです
19:59おそらくシャクソンの心の中にも
20:02一種の心理的な反省といいますか
20:06葛藤といいますかあったろうと思うんです
20:08それがその経典の中ではですね
20:11梵天感情の伝説になっているんじゃないかと思うんですがね
20:16梵天という神様が出てきて
20:18どうぞお説法をしてくださいと進めたという
20:22そういうわけなんです
20:23梵天と申しますのは
20:26ウパンシャッドで最高のものを
20:30ブラグマンと申します
20:31それが人格されてブラグマンといい
20:33梵天と訳されています
20:35宇宙を支配する最高の神様ですね
20:38その神様が出てきて
20:41お釈迦様に向かって
20:42世の人々のために
20:46この
20:46説いてくださいと
20:48
20:49甘露の門を開けと
20:53そういう詩の文句になっておりますね
20:56甘露
20:58これは元の言葉で
21:00アムリタとか
21:01アマタと言うんですが
21:03これはまた不死とも訳されるんです
21:05つまり不死というのが
21:07おそらく元の含まれた意味だと思うんですが
21:11それをまた
21:12インド一般に
21:17甘露という意味にも使っております
21:19お釈迦様の
21:21お花祭りの時にですね
21:23甘露のお茶をいただきますですね
21:26それはそこから出ているわけですが
21:29いただいてありがたいもの
21:32心よいものという意味です
21:35
21:35味で
21:39まあ
21:40称する時には
21:41甘露と申しますが
21:43そこへ含まれている
21:44言葉の意味は
21:46不死と
21:47つまり人間は死ぬものであり
21:49老いるものであり
21:51やがて消えてなくなるものである
21:53けれども
21:54不死の境地というものが
21:57その中にあるんじゃないかと
21:59まあ
22:01人々も考えたし
22:03またお釈迦さん自身も
22:04そう考えられたんでしょうね
22:06それでその梵天が出てきて
22:08不死の門
22:09甘露の門を開いてくださいと
22:11お願いしたと
22:12そこで釈迦は
22:15教えを説く法に
22:18一歩を踏み出されることになったと
22:20そういう伝えになっております
22:22そうしますと釈迦としては
22:25真実法というものに心が開かれ
22:29お悟りを開かれて
22:30あれから今度はそれを
22:32何らかの形で
22:34いわば教えの形で
22:36一般の信者さんに
22:38その教えを今度は開いていったわけでございます
22:41そういうわけだと思います
22:43その教えというものが
22:45先ほどのウパニシャッドの達人のように
22:49特定の人にしか教えないよというんじゃなくて
22:52全ての人に開いていったと
22:54釈迦の晩年の頃のエピソードに
22:59俗な言葉を使えば
23:03私は教えに関して
23:05ケチであったつもりはないなと
23:07いったようなことがあるというふうに
23:09ちょっと伺ったことがございます
23:11そうです
23:12つまり
23:13経典の言葉ですと
23:15教師の握り拳という
23:17ケチなんて言葉を使っちゃいけないんでしょうけど
23:19教えはケチなんですよね
23:21ケチなことはないんだと
23:22その教えを隠しておいて
23:25教師が握り拳の中に秘めておいて
23:30人に伝えない
23:30これ実際当時あったんだろうと思うんです
23:33そういう態度が
23:34そういうことはしないというんですね
23:36自分は真理だと思うことをはっきりと
23:43全て人々に伝えたというんですね
23:46だからもう隠すことはないと
23:51もしも自分が世の人々を導くものであると
23:57そう思い込んでいる教師がいたならば
24:01それは自分に頼るがよいと
24:05また世間の人が自分を頼っている
24:10弟子が自分を頼っていると思うな
24:12それは教師自身というものが中心になるので
24:18皆が頼るということになるだろうけれども
24:22自分はですね
24:23世の人々教師たちを教え導いたと
24:30そう思うことはないと言われます
24:33それから自分が人々に頼られていると
24:40そう思うこともないと
24:42何に頼るか
24:44それは自分が説いた法である
24:48人として生きる道ですね
24:50ノリと言いますか
24:52人としての道筋
24:54いかに生きるべきかということを
24:57人々に説いてやった
24:58だからそれに頼れた
24:59それに自分の立場は尽きているんだ
25:03だから俺について来いとかですね
25:08俺のところへ来てお辞儀をするんでなきゃ
25:12救われないぞとか
25:13そういうことは全然
25:16シャクソンの場合にはなかったわけです
25:18教典に出てます
25:19とても大切なことだと思いますですね
25:23つまり人間に頼るということになりますと
25:27もちろん宗教でありますから
25:29宗教を教える方の人格とか
25:32宗教体験とかということが
25:35大きな意味持つのは
25:37もちろんそれは分かるんですけれども
25:38もっと基本的な問題としましてですね
25:41私を拝まないと信仰が成り立たないよ
25:45というようなことじゃなくて
25:47真実 法という普遍的な
25:52本当に先ほど先生
25:54実月のごとく世界を照らしている
25:57そういう真理がまずあるんだと
25:59そしてそういう真実を
26:02私は惜しむところなく
26:04すでに説いてきている
26:05だからお弟子さん方も
26:07頼るのは私ではなくて
26:09この法の方に頼れということでございます
26:12そういうことなんですね
26:13その法というものは普遍的なもので
26:16誰でも頼らなくならないものですが
26:19と同時に人において生きるものなんですね
26:22人を離れてあるものじゃない
26:24だからそれを具体的に
26:26どう生活に生かすかということは
26:28それぞれの立場で人が
26:31自分で考えて工夫しなきゃいけないし
26:35またその場合に教えてくださる
26:37死というものもあると思う
26:39つまり死というものの
26:41個々の人格を通じて
26:43普遍的な理法というものが
26:45生きてくるわけなんですね
26:47だから仏教はその
26:48教義で縛るということもしなかったわけです
26:51後代になりますと仏教に発展がありますがね
26:54発展があってちょっとも構わないんですよ
26:56後の社会情勢に応じ
26:59民族の生き方に応じてですね
27:01それぞれ生かそうとされた方が
27:04独自の解き方をされた
27:05教えというものは目的地に達するための弁法で
27:09イカダみたいなもんだっていうのが確かございましたから
27:12それがイカダであってもいいし
27:15ボートであってもいいし
27:17起戦であってもいいわけなんですね
27:19そうなんですよね
27:19イカダの教えっていうのはね
27:21あれはもう本当に貴重な教えだと思いますね
27:23その教義にとらわれるなって言うんですよ
27:27相手に応じてですね
27:29あるいはもうその場合に応じて
27:32最も適切だと思う解き方をされたわけです
27:37その根本には普遍的な理法があるわけです
27:40それを生かすということになると
27:42個別的な場合に即するわけです
27:44その教えというものは
27:47詳しいこともあれば簡単なこともある
27:49ぶっきらぼうのこともあれば
27:51根節丁寧なこともある
27:52どれでもいいんですね
27:53だからちょうど流れを渡るのにですね
27:56小さなイカダで渡ってもいい
27:59ボートで渡ってもいい
28:00大きな船で渡ってもいいと
28:02そのイカダの大きさにこだわるなって言うんです
28:05世の宗教っていうのはどうかすると
28:09教義にとらわれるんです
28:10教条主義になってしまう
28:12そうなんです
28:13教条主義っていうのは宗教ばかりじゃなくてですね
28:16現代の世界においても生きてるんじゃないですか
28:19いろんな方面で
28:20なんか教条っても先立てましてね
28:23それに従わない奴はパッサリ首にしちゃうっていうのは
28:26非常にその点では開かれていない
28:28束縛の多いやり方になってしまうんですよ
28:33そう思いますね
28:34この明るい世界を作るためには
28:35どうしても開かれた心というものが大事だと思いますね
28:39そうした普遍的な法というものが
28:43今先生おっしゃられたわけですが
28:45決して抽象的な観念とか知識にとどまるものではなくて
28:50人間の生活を通じて初めて具現され
28:54生きてくる
28:54いわば働いてくるもの
28:56今先生おっしゃったわけで
28:58大切なことかと思うんですが
29:00先生しかしそれを働かせるということがなかなか難しいわけです
29:06これは難しいですね
29:06なかなか私どもの真実に対して法に対して目が開かないし心も開かない
29:13やはりそこに訓練と申しますか
29:17心を開発していく
29:19開いていくやはり修行というものが必要になってきますですね
29:24だからその開く
29:27推しを述べるという立場に立つ教師とか指導者という人は
29:34非常に反省がいるだろうと思いますね
29:37いつも同じドグマだけで通すわけにはいきませんから
29:41相手の一人一人によってその心を開いてあげるといいますか
29:46心を耕すと思う
29:49心を耕すそういうことになりますね
29:51よく私ども学生時代にカルチャーという言葉を習いまして
29:59これは耕すという言葉のカルティベイトという
30:03畑を耕すというのと語源が同じだというふうに
30:08教えられてきたわけなんですが
30:12仏典の中にまさに心を耕すということの経典が一つございますので
30:20それをご紹介しながら読んでみたいと
30:23こういうふうに思いますんですけれども
30:26これはスッタニパータという
30:29これ先生が翻訳お出しになったものから取っていただいたわけなんですが
30:34おそらく
30:34スッタニパータといいますのは
30:38原始仏典の中での一番古い層
30:42最古層に属するものということですね
30:45ですからおそらくシャクソンの言葉に
30:49そのまま入っているものがたくさん入っている経典だと思います
30:53おそらくそうだろうと思いますね
30:54一つご紹介をいたしたいと思います
30:57私にとっては信仰が種である
31:03修行が雨である
31:05知恵が我が首輝とスキとである
31:08恥じらいがスキ棒である
31:11努力が我が首輝をかけた牛であり
31:15安穏の境地に運んでくれる
31:18この工作はこのようになされ
31:21甘露の実りをもたらす
31:23この工作を行ったならば
31:26あらゆる苦悩から解き放たれる
31:29スッタニパータと
31:30先ほど先生のおっしゃられました
31:34甘露の実りという言葉も今出てきたわけですが
31:37先生今の言葉の中でですね
31:40いろいろ重要なことで
31:45いろいろ少し教えをいただきたいんですが
31:47まず最初に信仰が種であると
31:51その辺のことから
31:55こういう心を耕すという
31:58この物語が解かれた状況あたりを含めて
32:03一つご説明を教えをいただきたいんですが
32:06今お読みいただいた歌詞は
32:11スッタニパータと申します
32:14パーリ語の聖典の初めの方に出てくる
32:19対話の一部なのであります
32:22スッタニパータという聖典は
32:28シャクソンの古い教えを伝えていると思われまして
32:34非常に重んぜられているんですが
32:36ことにこの頃
32:37諸外国でも熱心に読まれている
32:43書物でございます
32:44その一つの箇所に対話があるんですが
32:49それはバーラドバージャという
32:51バランモンの農夫ですね
32:54それがお釈迦様に意見を述べたんです
32:58お釈迦様は何もしてないじゃないかと
33:02自分は朝から晩まで
33:03その他を耕して苦労していると
33:07あなたは何をしているんですかと
33:09そう問い詰めたわけです
33:10それに対する答えですね
33:12シャクソンが
33:13いや自分はですね
33:15その手で
33:17スキコアを持って耕すということはしないけれども
33:20自分の心を耕しているんだと
33:23これは真剣な努力だと
33:27それによって世の人々に感化を及ぼすことになると
33:32そういう趣旨のことを言われた
33:34その文句なんです
33:36最初に信仰は種であると
33:39そういうことがございましたね
33:41信仰というのはですね
33:43この場合その
33:44元の言葉でサッダーって言うんですが
33:51人間の真理
33:53また大きく言えば宇宙の真理ですが
33:56それを信ずることです
33:59道理、断りを信ずることです
34:03信仰というとですね
34:05どうかすると世間の人は狭い意味にとりまして
34:09特別な偉い教師がいる
34:12俺のところへ来なきゃもう救われないぞと
34:15そう言って人を威嚇するという
34:17そういう教師が世間には実際おりますですね
34:20そうじゃないんです
34:22どこまでもその人間の道理というものを身に体現すると
34:27その道理を信ずるというのが信仰なのであります
34:33信仰を意味する言葉はインドに他にもございまして
34:39浄土経などで尊びます信というのは
34:44あれは元の言葉でプラサーだって言うんですが
34:47心を清らかにすることですね
34:52つまり仏様に頼って心が清らかになる
34:55澄んでくると
34:56そういう意味です
34:58あの正常の正に信を書いて
35:00上信と訳すこともある言葉でございます
35:02そうです
35:03清らかな正常の正と信仰の信とか
35:06上信と仏典ではよく訳しております
35:09それから熱狂的な信仰というのはこれは別なんですね
35:13これにヒンドゥ教の一部で強調するんです
35:15これはバークティと申します
35:17これはその日常生活でも使う言葉ですが
35:22例えば別れている妻が夫を声こがれるという時も
35:27バークティと言うんです
35:29それを宗教の声を移し入れまして
35:32熱狂的な信仰を言うのですが
35:36しかし釈尊が説かれた信というのは
35:39その強烈的な信仰じゃないんですね
35:43あるいは不合理なるが故に信ずというのは
35:46そういう信仰でもない
35:48非常に静かな落ち着いた信であると
35:51清らかな
35:54特定の人間とか特定の教理とかいうことではなくて
36:02人間の道理を信ずること
36:04そうです
36:05先ほどダルマ、真実という言葉がございましたけど
36:09それに即していることです
36:10そうです
36:11最初から普遍的なものとしてある教えの存在を信じ
36:16それに身を任せていくことを自分で受けがっていく
36:19そうです
36:20そういうシーンで
36:22自分の本当の生き方をありがたく受けいただくという
36:26そういう気持ちですね
36:27ということは当然そこには
36:29私どもややもすると
36:32私はこう思うという自我を張りまして
36:36教えられた真理法というものをなかなか認めたがらない面があるんですが
36:44そうですね、気づかぬうちにやっぱり自分が変身を持っていることがありますですね
36:48ですからそうしたことを抑制しながら心を真理に開いていく
36:53それが信仰である
36:54そうです
36:55だから結局開くというのと同じことになるわけですね
36:57なるほど
36:58そうすると修行が雨であるというのが次に出てますが
37:01はいはい
37:03この場合の修行はですね
37:06元の言葉でタパスといいますが
37:08修行を修養のことを言うんです
37:11それで学者によってはこのタパスを苦行と訳す方もございますし
37:17また実際苦行を意味することもあるのですが
37:20仏教の場合にはですね
37:23世間の苦行者が苦行を行っているから
37:27その彼らの立場を一応思いやりを持って見て
37:33なるほどタパスというのはいいことだと
37:36けれども本当のタパスはですね
37:38身体を苦しめるようなことじゃないんだと
37:40自分を収容することだと
37:43いうのでその中身を改めているわけです
37:47そうしますと先ほどの人間の道理
37:50ないしその法真実というものを信じていくときには
37:54どうしてもそのあんまり私が私がという自我を張っていたら
37:59受け入れませんから
38:01結局そうしたことを自我を抑制するということは
38:05心を心理に開くそうしたことの修行
38:08そうです
38:09それがまた心の開発なんだと釈述に言われるわけですね
38:13つまり心を開発すること
38:15それがこの場合の修行になるわけでございますね
38:19そうしますとその次に出てまいりましたのが
38:22知恵が我が首輝と好きであるという
38:25ここに知恵というのが先生出てまいりましたんですが
38:30どうもこの知恵というのもあんまり1たす1は2ですよということを
38:35そういう簡単な知識じゃなさそうでございます
38:38そういう知識じゃないですね
38:40人間が人間として生きていくための真実の実践的認識と申しますか
38:48本当の生き方を知るそれが知恵です
38:52現実に生きていくためにはこういうことはしてよい
38:57こうすべきである
38:58あるいはこういうことはしてはいけないという
39:00そういう区別が必ず出てくるわけですね
39:04それをはっきりさせるのがこの場合いう知恵です
39:08だから首輝きのようなものだっていうんですね
39:11その首輝きをこうつけますとですね
39:13勝手な方がいけない
39:15身を整えるわけですね
39:17そういう身を整えさせる知恵と
39:21知恵と
39:23ということは頭で理解する知恵では
39:26知識ではなくて
39:27毎日毎日の生活の中で
39:30自分の考え方とか行動を行いというものを整えていく
39:35ちょうど首輝きと好きという言葉がございますわけです
39:40首輝きですからどうしても
39:41別にこれを束縛するって取るときっと本来の意味じゃないと思うんで
39:45それを然るべき方向に導いてくれる知恵
39:51そういうふうに見てよろしいんでしょうか
39:53そういうことになると思います
39:54この事実としての知識ですね
39:57あるいは自然科学的な知識っていうのは
39:59これはもう万人に共通で
40:01誰でも認めなきゃならない
40:02けどそれはどこまでも道具としてですね
40:05生活の中に生かされるものですね
40:07それを生かす知恵というもの
40:09これはまた次元をことにしたものですね
40:12先生少しこの今のスタニパータとちょっと離れるかもしれないんですが
40:18仏教の方で無明という言葉がございまして
40:22明というのは明るいという字
40:25つまり明がないということは知恵がないことであると
40:29普通に教えられます
40:31そうです明るい知恵がないという意味ですね
40:33そうするとここで知恵が我がくびきと好きであると
40:37知恵を持たなきゃいけないよということは
40:39逆に言えばその無知を破っていくことだと
40:42そういうことになりますね
40:44よろしいでしょうね
40:45同じ指針ですね
40:47そうしますとその無知というのも
40:50今のお話によりますと
40:53頭で理解する知識ではなくて
40:56生活の中に一生懸命努力しながら
40:59正しい方向で自分の行いを抑制するものは抑制していく
41:07それがかえって心が開かれる自由につながっていく
41:11そういうことになろうかと思うんです
41:14そうですね
41:15生活の中に生きている知恵です
41:17なるほど
41:18そうしますとなるほど
41:20その次に恥じらいとか努力という言葉が出てくるんで
41:23なるほどくっつくのかなという気もするんですけれども
41:27恥じらいという言葉は難しい漢字が実は使っているんですけれども
41:31はいはいはい
41:32どういう意味でございましょう
41:33これはねその
41:35後に仏教の教義学ではいろいろ論議されるんですよ
41:39あの
41:41残と気と二つ申します
41:43いうか残機に耐えぬなんてことを申しましたでしょう
41:47残と気とどう違うかっていうようなことも
41:50教義学者は論議するんですがね
41:52定説があるわけじゃありませんが
41:54自分に対して恥じるとか
41:56あるいは他人に対して恥じると
41:58そういうところで区別をつけることもございますが
42:03しかし
42:04いずれにしても
42:06自らかえりみて
42:08ああこういうことは
42:10よくないんじゃないかな
42:11恥ずかしいことじゃないかなと
42:13思う反省が
42:15反省する人の中には起きますですね
42:18それを言う
42:20そしてその恥というものは
42:23この東洋の心では非常に重要なんです
42:27よく日本の文化は恥の文化だっていうことを
42:30西洋人が申しますね
42:32あれは日本人だけじゃないんでして
42:34仏教の教義学
42:37アビダルマの教義学と申しますが
42:39あれによりますとですね
42:41残儀の恥じらいっていうものは
42:43良い心の働きには必ず付随しているものだと言うんですね
42:49だから
42:53もう
42:55良きことをしようと思う人は
42:59反面必ず
43:01この恥を知るという
43:04反省の気持ちがあると
43:05そういうことが言えると思います
43:07ということは
43:08反省を伴わない
43:10善良いことというのはないということですね
43:13そういうことになりましょうね
43:15よく分かるような気もいたしますですね
43:18いろんな脈絡でそれが
43:21考えられるかと思うんですけれども
43:25自分でこれこそ人のためである
43:28良いことであるって
43:29一生懸命やっていながら
43:31ふと気が付くと
43:32他人に迷惑をかけていることが
43:34全く気が付かない
43:35自分でもよく気が付きますが
43:37言うことも
43:39よく私など
43:41生活体験の中からもございますし
43:44確かに宗教的な修行におきましても
43:47単に言われた通り
43:50これがいいんだってやっていく
43:52そのことの裏には
43:54必ず反省というものがなければならない
43:58と同時に
43:59先生反省というぐらいでありますから
44:01この恥じらいですね
44:02反省ということでありますから
44:04これ人に言われて反省するんじゃ
44:06意味がないんで
44:08本当はそうですね
44:09ですからやはりここで
44:12シャクソンがバーラルバジャという
44:15バラモンの農夫に説いた教えというのは
44:20やはり宗教的に自分で
44:23こういう生き方をしたいという意欲を燃やし
44:27努力を続けていく
44:29そして
44:30人に言われたからじゃない
44:33自分で自分を反省しながらやっていく
44:36そうした意味がここに当然あるように思います
44:40そう思いますね
44:41われひにみたびかえりみるという
44:44あれはこうしたもの言葉ですけどね
44:47やっぱりそういう心がけは必要なんじゃないですか
44:51そして仏典でそれだけ強調されているというのに
44:55私は非常に深い意味を読み取ったんであります
45:00それが最後に
45:03努力という言葉が
45:05努力が我が牛である
45:07努力という言葉はもちろん努力性ということで分かるんですが
45:14努力が我が牛であり
45:17安穏の境地に運んでくれるとございましてね
45:20私実はこれを読みまして
45:24そうすると努力というものは
45:27要するに首輝きをかけた牛のように
45:30ずっとこれを歩き続けていくもの
45:33だからここまで行ったらもう
45:36到着したから
45:38ここでおしまいで
45:39もう努力はしなくてもいいんだよ
45:41ということじゃないんだと
45:43なんかこうもっと端的には
45:45一生これを続けていくという教えなのかなと
45:48そんな気もちょっとしてるんですけれども
45:50もうそれは
45:52勤め励むということは
45:54年齢によってもやり方も違いましょうけど
45:57一生続けなきゃいけないことじゃないでしょうか
46:00ダンマパダー
46:02北京という経典がございます
46:04その中でこう言ってるんですね
46:06道に勤め励む人はですね
46:13これは不死の境地にあるんです
46:15この勤め励んでいるということ自体が不死の境地なの
46:21怒たりなおざりにしている人は
46:24すでに死んでいるんだって言うんですね
46:27なるほどこれはいい
46:30あてて妙なりと思いましたですね
46:33不死といいましても
46:35物理的な意味で永遠に生きる死ぬことがないなんてことはもうないな
46:39当たり前でございますか
46:40そうじゃないんですね
46:41宗教的な意味で
46:44毎日毎日を本当に充実して生きていく
46:47宗教的な革新の中に生きていくことを
46:51永遠の命を得た不死と
46:54きっとそう見てよろしいんじゃないかと思うんですけど
46:57この自分で勤めてある境地に到達しますね
47:03そうするとそれが絶対の意味を持っている
47:08小さな個人のやっていることじゃないかと言われるから
47:11その人にとっては絶対の意味を持っているわけですね
47:15その人なりに他の人との連関において
47:20本当の心が生かされてくることになる
47:23だから不死だと
47:25そういう表現になるんだと思います
47:28ずっと伺ってまいりまして
47:32心を開くという
47:34この場合では心を耕すというんですが
47:37そういたしますと
47:39心を耕すというのは
47:41確かに私たち毎日の人生の中でですね
47:46一時一時に
47:48いやこの人とお付き合いをしているときに
47:51隠し事をしちゃいかんとか
47:53いやそのいろんなこだわりがあるんだけども
47:56そのこだわりを捨てて心を開かなければいけないとか
48:00いわばそうした一瞬一瞬の心の動きの中に
48:06心を開いていくことの大切さということは
48:09もちろんあると思うんですね
48:11ですけれども今伺ってまいりますと
48:13それよりももっと大切なのは
48:17何度も先生の言葉を引用するわけですが
48:20お日様お月様のように実月のごとく
48:24普遍的な真理というものがあるじゃないか
48:27お釈迦様のおっしゃったこと
48:29私どもがそれをもう自ずと受けているではないか
48:35ところがそうしたものに
48:37私どもは心を開いていないから
48:40いろいろ悩みその他があって
48:43それに振り回されてしまう
48:45やはりその真実というものに心を開いていくということが
48:50悩みとか不安を克服していく道だと
48:54およそこういうことを教えていただいたかと思うんですが
48:58そういたしますと心を開くというのは
49:01単なるテクニックでこういうふうにしたから
49:04はいもうこれはできましたというものじゃなくて
49:07むしろ毎日毎日を生きていくということの中に
49:12死ぬまで続けていくことなんでございましょうか
49:14おそらくそういうことが言えるんじゃないですかね
49:19悟りを開くということを申しますけどね
49:23いっぺん悟りを開いたらもうその境地から知ることはない
49:28何してもいいんだと
49:29そういうことにならない
49:31むしろその一日一日
49:35この本当の道を実践するということ
49:39あるいはもっと
49:42てっかくに申しますと
49:44瞬間瞬間にですね
49:46これでいいのかしらと思って反省しながら
49:50その道を求めていくという
49:53そこに本当の宗教の生命があるんじゃないでしょうか
49:59これも私先生のお書きになったものの中で
50:04読ませていただいた記憶があるんですが
50:06シャクソンの最初期の教えの中に
50:09まさに今のことですね
50:11瞬間瞬間に心を開き努力していく
50:14もう少し具体的にこういうことは
50:19こういうふうにすると心は塞いでしまう道ですよ
50:22こういうふうにすると心が開く道ですよ
50:24という一つ一つの修行の特目といいますか項目
50:28それを一つずつ下脱といいますか
50:32修行していくことの積み重ねが
50:36戒律に連なることだといったようなことを
50:39確か先生どっかにお書きになっていたと思うんですが
50:42戒律がたくさんございますね
50:43ただあれみんな別々下脱と訳しておきましょう
50:47一つ一つの
50:49別々のという別の意味を書いて下脱と書きます
50:53一つ一つのことについて下脱するというんですね
50:58それは人間が誘惑されて間違うかもしれない
51:03危険性と申しますか可能性は無数にあるわけですが
51:08その一つ一つについて謝らないように
51:12心を開くと
51:16とらわれのないようにすると
51:18それが下脱なんです
51:20だから下脱は無数にあるわけです
51:22毎日毎日の中にいろいろな意味での下脱が実現されるべきであると
51:30そういうことになるかと思うんですが
51:32そうしますと先生下脱というのは目的
51:36もうこれで到着したという目的地ではなくなってしまいます
51:40そうです
51:42道を求めて進んでいく
51:46その間にその度ごとに実現されるもの
51:50だから下脱ってことは複数で出てるんですよ
51:54原点にはね
51:56これ面白いと思うんです
51:58それを世間の人は動画すると間違いまして
52:00悟りに到達するんだ
52:02俺はもう悟ったからもう何してもいいんだと
52:06そういうような解釈が行われています
52:08これはね非常に誤解だと思うんです
52:12そうしますとそうですね
52:18もうこれが下脱だ私は悟ったんだって言いますと
52:23やることなくなってしまう
52:25そういうことになりますね
52:27実は私読んだ
52:31これは道元禅の著作の中でちょっと
52:36勉強させていただいたときにですね
52:39こういう文章があったのを私は覚えておりますんです
52:43ハラミツという言葉がございますですね
52:47それを昔からよく悲願に至る
52:51そうですね
52:52よくお悟りのことも悲願に至ると
52:54そのように訳しますが
52:56言われております
52:58少し言葉の問題を言うならば
53:01向こう岸に至るというよりは
53:04むしろ感性という方が正しいんだといったこと
53:08先生もお書きになったと思いますが
53:11実は道元禅師がその向こう岸に至るということを
53:16実にはっきり書かれているんですね
53:19向こう岸に着いたら
53:22修行をしたら向こう岸に着くのだと思ってはいかんという
53:27向こう岸に着いても修行があるのだからと
53:34修行すれば当彼岸なりという言葉だったと
53:38私記憶していますんですが
53:41当というのは至るという字でございます
53:44ですから彼岸に修行をすることが
53:47すなわち彼岸に至ったことなんだという
53:50そうしますとさあもう着きましたよということは
53:53ないんじゃないのかなと
53:55そんな気が私いたしましてね
53:58そうですね
53:59私も思い出すんですが
54:01ある高層の方が言われます
54:04一理行けば一理の悟り
54:06二理行けば二理の悟りと
54:09悟りはその普段に求められるものなんですね
54:14そうすると心を開くということも同じことでして
54:20一理行けばそれに応じて心が開かれる
54:23また二理行けば同じように心が開かれる
54:27普段の愚道といいますか
54:29道を求めるということに尽きるんじゃないでしょうか
54:34そうしますとそういうことは
54:36例えばもう釈尊の時代から
54:38仏教の基本的な考え方ということですね
54:41そうだと思いますね
54:43これもふっと思いついたようなものなんでありますけれども
54:52正念という言葉がございます
54:56正しいという字にお念仏の念
55:00これ訳すのが難しい言葉なんですが
55:04難しいですねあの言葉
55:06何かこう常に気を使ってぼやっとしない状態を持続していくこと
55:13よく仏典にも説かれるんですけれども
55:16そうしましてやはりこの正念という
55:19そういうこれもそういうぼやっとしないでいわば心を開く努力をずっと続けていく
55:28そういうことと関連してみてよろしいでしょうか
55:32そういうことになると思いますね
55:34私なんかもぼやっとしていることが多いもんですからね
55:37今のその念の教え
55:41非常にその胸に響くんですが
55:44これは元の言葉でパーリ語ではサティって言うんですよね
55:48具体的な例として私はシリランカは正論の構想から伺ったんですが
55:54具体的な教えをいただいたことがあるんです
55:57自分が小僧の頃にですねついそのお茶碗なんか落っことすことがあるって言うんですね
56:05慌てたりなんかして
56:06そうするとお師匠さんがサティサティっておっしゃった
56:10気をつけろ気をつけろって言うんですね
56:14つまり慌てたりするとお茶碗落っことすから
56:17慌てないでよく気をつけておれという意味ですが
56:20これはそのことだけに限らないと思うんです
56:23人生の万般のことについてですね
56:26やっぱり絶えず気をつけるという心がけ
56:31それはまた同時に謙虚な心構えということになりましょうが
56:35それが必要なんじゃないでしょうか
56:37結局今日いろいろ伺ってまいりまして
56:39心を開くというのは
56:41真理というものに対して心を開いていく
56:44そのためにはいろいろこう
56:47真理とかあるいはお師匠さん指導者の言う言葉に耳を傾け
56:52それこそ心を開いていくことも無論あるでありましょうし
56:55基本的には生きていくということが
57:00実は心を開き開き開き開きしながら
57:04生きていく毎日を続けていくことだと
57:07どうもそういうようなことになろうかと
57:10普段の修行だということになりましょうね
57:13言葉はちょっと硬いですけれども
57:15自ら反省して気をつけて進むと
57:19そういうことになるんじゃないでしょうか
57:22心を開くというよりも
57:25むしろ心を開き続けるということの方が正しいかと思うんですが
57:29本日はありがとうございました
57:32次回以降はこうした心を開いていくということを
57:38本日は第一回ということでございますが
57:41これを中心にしながら
57:43今度は具体的にもっと様々な面に即しながら
57:48心が開いていくことの教えを
57:52いろいろいただけるものかと思いますが
57:55東洋の心を語るということの第一回ということで
58:00本日は先生どうも大変ありがとうございました
58:02ありがとうございました