- 2025/6/16
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ライフスタイルトランスクリプション
00:00東洋の心を語るということで放送してまいりましたけれども
00:06早いもので第12回目最終回になります
00:11昨年の4月にスタートいたしまして
00:15何かあっという間に1年が過ぎたような気がするんですけれども
00:20本日のテーマは人間の願いということでございます
00:25私どもいろいろな願い事をするわけなんですが
00:29仏教の方で一番基本的に最終のものとして願うことは何であろうか
00:36その辺のことを少しお話を伺ってみたいと思います
00:40お話を伺います方はいつものように
00:43東宝学院院長の中村はじめ先生でございます
00:47よろしくお願いいたします
00:48先生東洋の心を語るということで
00:5312回目もう1年が早くも過ぎようとしているわけなんですけれども
00:59本日はこの東洋の心を語るというシリーズの最終回でございますので
01:06そこでそのまとめとしてですね
01:09この人が生きようと願う
01:13どういうことに中心を置いて生きていくかということにつきまして
01:22シャクソンの最後の教えがあるんです
01:25それをその入り口といたしましてですね
01:28一つお互いに考えていきたいと思います
01:33お選びいただいておりますので
01:35早速にまずご紹介をいたしたいと思います
01:38スバッダよ
01:41私は29歳で
01:44善を求めて出家した
01:47スバッダよ
01:48私は出家してから50年よとなった
01:52勝利と法の領域のみを歩んできた
01:57これ以外には道の人なるものは存在しない
02:01大パリニッバーナ教からの一節でありますけれども
02:06先生この大パリニッバーナ教
02:08今シャクソンの最後の頃の
02:12ちょっとおっしゃいましたけれども
02:14どういうお教でございます
02:15その辺から少しお話を伺いたいと思います
02:17これはですね
02:17シャクソンの最後の旅路を述べている
02:20お教でございまして
02:22シャクソンが弱い80にして
02:27この世の命が終わりに近づいたと
02:32悟られたんでしょうね
02:34それで今まで住んでおられた
02:38当時一番の峡谷でありました
02:41マガダの国の
02:42その東北の方にあります
02:45鷲の峰と
02:47仏典では領事選と言われておりますが
02:50そこを出てですね
02:52そして生まれ後京の
02:54カビラバスの方へ向かって
02:58旅を続けていかがる
03:01その間にどういう人々に会い
03:04どういう教えを説かれたかと
03:07いうことが
03:07逐次記されている
03:09その経であります
03:11パリニバーナというのは
03:14完全に下脱したことを言うわけです
03:17シャクソンはこの世の生を
03:20完成されて
03:22最後に亡くなられたわけですが
03:25それを大パリニバーナと呼んでいるんですね
03:30その中に出てくる
03:34終わりのところの教えでありますが
03:37それはこうなんですね
03:39シャクソンは
03:40弱い
03:45八重にして
03:46なお歩いて
03:47生まれ後京の方へ向かわれたわけです
03:50今日のように
03:52便利な車があるわけでもございませんし
03:56そして
03:59口いながらというところへ
04:03近づかれたわけですが
04:05やっぱりもう
04:07元気もなくなってですね
04:10身の衰えを感じられた
04:13そして
04:14小さないおりの中で
04:18休んでおられた
04:20そこへですね
04:22当時のスバッダという
04:23修行者がやってきましてですね
04:25シャクソンに合わせてください
04:28どうしてかと言いますとですね
04:33彼はこう言うんですね
04:37当時6人の
04:39偉い思想家がいると
04:42例えばアジタという人は
04:44唯物論者です
04:45パークダという人は
04:46宇宙にはいろいろな要素がある
04:48というようなことを言う
04:49ゴーサーラという人は
04:51宿命論者で
04:52全て宿命で決まっているという
04:54それから
04:56サンジェという人はですね
04:59もう何もかも
05:02運命で決まっている
05:05宿命で決まっている
05:06ごめんなさい
05:07考えたってしょうがないから
05:11もう考えるのをやめてしまおうと
05:13ガプーラの人は
05:14ガプーラの人は
05:15真面目に考えるのをやめて
05:18道徳を否定するという
05:19それから
05:21マハービーラという人は
05:23とにかく
05:27釘を行えばいいということ
05:28いうことがみんな違っているでしょう
05:30それぞれ
05:31世間の人々から
05:33信奉されていたわけなんです
05:35スバッタが言うには
05:36自分はどういう具合に
05:38生きたらいいんでしょうか
05:39その欠を下していただきたい
05:43やってきたんですね
05:45お弟子のアーナンダは
05:48いやもう
05:49先生は
05:50疲れておられて
05:54休んでおられますから
05:56あまり
05:57お邪魔しないようにしてください
06:00けれど
06:01彼がもう
06:02聞かないんですね
06:04その様子を
06:06釘孫が聞かれて
06:07ああよろしい
06:08会ってやろう
06:09と
06:09ともせと言われた
06:10そして
06:11会われたところが
06:14今のような質問を向けたわけです
06:16それに対して
06:18釘孫はですね
06:18何も誰の説がいいとか
06:20そういうようなことは
06:21言わないで
06:22自分の生きてきた道というものを
06:25反省して
06:25それで今の言葉を
06:27述べられたわけなんです
06:28詩の文句になっておりますが
06:31そうしますと
06:326人の
06:35仏典では
06:36下道の先生方
06:38そうなんです
06:39出ておりますけれども
06:40言うなれば
06:41ある意味では
06:42先生は現代と似ていて
06:44いろいろな
06:44様々な思想が解かれ
06:47混乱した思想状況があったといいますか
06:50いろんな教えが解かれている
06:52したがって
06:53どれを選んだら
06:54一番正しい生き方になるのか
06:57ということが
06:58社会一般に
06:59見失われがちであった
07:01そんな一つの
07:03当時の状況だったんですか
07:04そうですね
07:04今の精神状況と
07:06非常に似ているじゃありませんか
07:08人間が大して変わらない
07:09ものであるということになるかと思いますが
07:13今手短にご紹介しました
07:156人の思想家の言っていることは
07:17現代でも
07:19誰かがそのようなことを
07:20主張しているわけでしょ
07:21それに対する
07:23借村の答えが
07:25述べられているわけなんです
07:26わかりました
07:27その借村が
07:28ご自分が生きてこられた道を
07:30私はこういうふうに信じているよ
07:33ということで
07:33おっしゃったわけですが
07:35先生今の
07:36私ご紹介したものの中で
07:39勝利と法の領域を歩んできたというのがございますが
07:43これはどういう意味でございますか
07:45勝利というのは正しい道理ですね
07:47正しい断りです
07:49法というのも結局同じことでして
07:52人間が守るべきことがある
07:55それを法と言っているんです
07:57元の言葉でドアルマと申しますが
08:00聞きするところは同じなんです
08:02自分は面倒な
08:04刑事法学的な
08:06哲学的な
08:07議論にとらわれないで
08:09人間が本当に生きるというのはどういうことか
08:12その道を追求してきたというんですね
08:16それ以外には
08:18道の人というものはいない
08:20つまり
08:21借村の立場というのは
08:25どこまでも道を求めた人なんですね
08:27元の言葉で
08:29シュラマンと申しますが
08:31これを漢字で移しますと
08:33シャモンになるんです
08:34だから仏教の修行者は
08:36シャモンと呼ばれます
08:38これがシャモンの道である
08:39本当の人間の道を追求するということ
08:43それにつきて
08:44それを求めてですね
08:46自分は29歳で出家して
08:49真実の道を追求してきたということを
08:55言われるわけなんです
08:57よくシャモンという言葉は
08:59日本語にもなっておりまして
09:01日東シャモンであるとか
09:03シャモン道元であるとか
09:05いろいろな形で使うわけですが
09:08インドの言葉で
09:09道を求めて修行する人という言葉の
09:12御社語であったわけです
09:14それを移しただけなんです
09:15シラマンという言葉をね
09:18道の人
09:20これがシャクソンが道を求める人であり
09:24そうです
09:25そうしますと
09:26その道を求めて50年間ずっと生きてこられた
09:31ということなんですが
09:32そうしますとシャクソンの生涯というのは
09:35とにかく29歳で出家をされて
09:3935歳で悟りを開かれたというわけなんですが
09:44その悟りを開かれたその後も
09:47その道を求めて歩き続けてきたというのが
09:52この願望になるのでございましょうか
09:54願望ですね
09:54道を求めて歩き続けるというところに
09:58シャクソンの実践が尽きているということが言えましょう
10:03そうしますと
10:04どうしてもシャクソンのお悟りというものが
10:08何か頭で理解したとか
10:10もう分かっちゃったから
10:11もうあとはそれを教えるだけでいいんだ
10:13ということではなくて
10:15もちろんいろいろなことがうなずかれ
10:19それが教えとして
10:22言葉にはなったにはもちろん違いないんですけれども
10:25それだけではなくて
10:27あくまでもその道を歩き続けていく
10:30いうなれば実践
10:31そこに一つのポイントがあると
10:34こう見てよろしい
10:35すごいことが言えると思いますね
10:37シャクソンは何も
10:40俺は悟りを開いたんだと
10:42あとはもう何をしてもいいんだと
10:44そういうような生き方
10:46解き方はされなかったわけなんです
10:48やはり生きている人だと
10:50始終いろいろな問題にぶつかるわけですよ
10:53その度に
10:54本当の道という立場から見れば
10:57どうすべきかということを
10:59常に考え
11:00道を求める
11:01その度に
11:03自分で解決し
11:04また人にも教えを説かれたわけです
11:06だから場合によって
11:08あるいは相手によって
11:10教えが多少違うわけですね
11:12だから八幡四川の訪問があると
11:15言われるわけなんです
11:16根本は一つなんです
11:18そうなんでしょうね
11:20根本が一つで
11:21いろいろうなずかれて
11:23お悟りを開かれる
11:24ただし
11:26お釈迦さんであれ
11:29お弟子さん方であれ
11:31生身の人間でございましたし
11:33生きていくときには
11:34さまざまな問題があったに違いない
11:36そうした問題を
11:38さまざまに解いていくときに
11:40やはりそのときそのときに
11:41懸命にそれにぶつかっていって
11:43基本は道というものを踏まえながら
11:47その解決を図っていく
11:49常にこう
11:50向上先に進むことを目指し
11:54努力を続けながら
11:56生きていくところに
11:57釈迦さんの悟った方としての
12:00生涯があったと
12:01釈迦さんの一生
12:0380年の間に
12:05いろいろなことがあったわけですよ
12:07大勢のお弟子を連れておられると
12:10あるときは
12:11その飢饉が起きたり
12:12そうすると
12:14お弟子たちの困ったこともある
12:15あるいは国王がですね
12:17干渉してきたこともありますし
12:19盗賊に脅かされたこともある
12:21いろいろなことがあったんです
12:23その旅ごとにですね
12:25本当の道を求める人という立場から
12:28どうすべきかと考えて
12:30適切な解決を与えたというのが
12:34釈迦さんの生き方だったと思います
12:36それが道を求める人であり
12:39道の人の生き方であった
12:41こういうことかと思うんですけれども
12:43それに関連いたしまして
12:45少し後代のものかと思いますけれども
12:48具体的にどういうことかと
12:50もう一つじゃあ
12:51経典をご紹介をしながら
12:53またその話を続けて
12:55伺いたいと思います
12:56生存の苦しみが
13:01幾百とあっても
13:02それを乗り越えようと願い
13:05人々の災いを除こうと願い
13:09数多くの幸福を受けようと願う人々は
13:13悟りを目指す心
13:15母大神を常に失ってはならぬ
13:18シャアンティレーバという人の書いた
13:22悟りへの行い
13:23入門という経典からの一節でありますが
13:26先生ここに今のお話ですが
13:29生存の苦しみが幾百とあっても
13:32それを乗り越えようと願いという
13:34やはり悟りを開いたといったところで
13:39そうあと何にも空気のように
13:42すっと行けるわけではないわけですから
13:44これやっぱり今生きている我々にとっても
13:47響く言葉ですね
13:48このシャアンティレーバという人は
13:50あまり日本では知られておりませんけどね
13:53大乗仏教の実践哲学を説いた人として
13:58少なくとも
13:59学者の間では有名な人なんです
14:01年代はと申しますと
14:03だいたい650年から750年ぐらいだろうと
14:08学者は推定しているんです
14:09よく分かりますか
14:117世紀から8世紀ぐらいの方
14:13我が国に当てはめますとね
14:14大化の改新の頃から
14:16奈良時代に東大寺の大仏様が
14:20作られましたね
14:22ほぼその時代の人だろうと
14:24言われておりますが
14:26彼の著作はサンスクリットで
14:29原点が残っております
14:30そのうちの一部なのですが
14:33この人は実践ということを真剣に考えて
14:38人が生きるというのはどういうことであろう
14:43これは個人個人が
14:47孤立して生きているんじゃない
14:49お互いに人々はですね
14:52この寄り合い助け合って
14:54生きているわけなんですから
14:55だから本当の仏道の実践ということは
14:59自分の苦しみを除くとともに
15:02また他の人々の災い
15:04苦しみを除くことである
15:06それで今のような言葉を述べているわけですね
15:10世の中にはこの生存の苦しみが
15:12無数にあるわけです
15:13これ生きている限り除くことはできないでしょう
15:17けどそれを乗り越えたいと
15:19そしてまた人々の災いというものも限りなく起きるわけですね
15:23だからそれを除いて克服していきたいと
15:28それによって多くの幸せに預かりたいと願う
15:35これが悟りを目指す道であると
15:40悟りを目指す心という言葉を
15:45彼はここで使っていますが
15:46これは簡約の仏典では
15:48菩提神というんですね
15:50菩提神というのは悟りということです
15:53悟りを目指す心
15:55悟りを目指すというのはどういうことか
15:57これは我も人もともにですね
16:01この幸せになるようにということを目指す
16:05その行いの中にあるんだというのが彼の立場なんです
16:09悟りを目指すと言いますと
16:13なんか自分一人の
16:14私は悟ったぞということを求める心のように
16:18受け取れがちなんですけれども
16:22シャンティ・デイバーが言うときには
16:25自分というものがもちろん仏法の修行が進んでいく
16:29そして自分の生き方というものが
16:32法にかなったものとなっていく
16:34と同時にそれが他人と幸せを分かち合っていくものでなければならない
16:40こういうことを言うわけではないですね
16:42そうですね
16:42悟りを求めると言いますとね
16:46世間ではちょっと誤解があるんですね
16:48どこか人知らぬところに一人閉じこもりましてね
16:53そして自己閉鎖的になること
16:55それが悟りを求めることだと思われていますが
16:58そうじゃないんですね
16:59悟りの元の言葉
17:01菩提の元の言葉はボードヒって言うんですが
17:04それはですね
17:05知ることっていう意味なんです
17:06つまり人間はですね
17:08この人間の生存の真の姿を知ってないわけですね
17:14これはとても全部は知りきれないでしょう
17:16けどそれを知ろうと望む心ですね
17:20それを考えてみますと
17:23体は他の人と別なんだけれども
17:25見えないところでお互いに結び合い
17:29寄り添って助け合って人々は生きているわけですね
17:33そこまで知るということが及ぶ
17:36その立場から実践するということになりますと
17:40人々と共に生きていくということになるわけです
17:43なるほど
17:44人々と共に生きていくということになると
17:47一回や二回のことじゃなくて
17:50死ぬまでそれが続いていくことになるかと思うんですが
17:54よく母大心を起こすと言いますと
17:58何年何月何日
18:00この時間に私は母大心を起こしました
18:03発願いたしました
18:04ということで終わっちゃうんですが
18:07今の文章では
18:08この母大心を常に失ってはならぬとありましたから
18:13結局この母大心を一回起こせばいいってもんじゃなくて
18:17持ち続けるということなんですね
18:20そうですね
18:20骨眼
18:20願いを起こすということはですね
18:23これはもう絶えず続けることなんですね
18:28一旦こうしたいという願いを起こす
18:31とまたしばらく経ってからまた新たに決意を起こす
18:37そしてまた新たに理想を願うということで
18:40絶えず繰り返し行われるはずのものですね
18:44こうしたシャンティレイバーの非常に拡張の高いお話を今伺いながら
18:50こういう例を出すと
18:52雰囲気を崩してしまうかもしれないんですけれども
18:57道元禅師の教えの中に
19:01ホッシン
19:03ホツボダイシンですね
19:04このホツボダイシンを一回だけじゃダメだと
19:07100千万回もしろというのがございまして
19:11これを禁煙の誓いに当てはめて考える向きがございまして
19:17なるほどね
19:17つまりホツボダイシンと禁煙の誓いとは次元が違うんですけれども
19:24でもやっぱりその一つですわね
19:26はい
19:26さあタバコをやめようって発願して
19:30大抵それでおしまいになるから続かないんですか
19:34道元禅師の言われるように
19:36100千万回ボダイシンを起こせと言うと
19:40タバコが吸いたくなったときに
19:42禁煙の誓いを新たに立て直す
19:44またホッシンする
19:46ホッシンホッシンホッシンというのを
19:48無限に続けていくと
19:49なるほど
19:50その禁煙は成就するわけでありましょうけれども
19:54最初はですね
19:55やっぱりそういう願いと言いますか
19:58誓いを起こすのは苦しいでしょうからね
20:01意識的にやるわけです
20:04けれど
20:05決心を新たにすることを繰り返していますと
20:09そうするとそれが身につくわけでしょ
20:11いつの間にかもう
20:12新たに決意しなくても
20:15一人でに
20:16その願いが成就されている
20:20身についているということになるんじゃないですか
20:23身につくものになってきますでしょうね
20:25ということはやはり
20:26このボダイシンを起こすということは
20:29やはりシャンティレーバーが言っております通り
20:31常に失ってはならない
20:33それが一生懸命努力して
20:35ホッシンを起こさなければいけないこともございましょうし
20:38身についたものとなっても
20:40常にボダイシンは働いているわけでしょうか
20:43身についたからいいなと思って安心していますとね
20:46また忘れてしまうことなんでしょ
20:47やっぱりいいことは忘れないように
20:50改めて反省し直すということも
20:53必要じゃないでしょうかね
20:55先生そういうふうに
20:56このボダイシンを常に起こし続けていくということは
21:00当然ボダイシンを起こしますと
21:02それなりの修行が
21:04付随する道理でありましょうから
21:06常にボダイシンを起こし起こし起こしていくということは
21:10常に修行そのものが
21:11続いて続いて続いていくという
21:14いつまでも修行が終わらないという
21:17これはもう一生を続けなきゃいけないんですよ
21:19また油断をしてはいけないということになりますよ
21:24結局それが釈尊の言われる道の人ということでしょうか
21:28歩み続けてきたということに関わってくるかと思うんですが
21:32面白い表現ですけれども
21:34お釈迦さんも魅力さんも常に修行中だという表現があって
21:39なかなかいい言葉ですね
21:40決してかなり前にちょっと論争があった記憶もございますんですが
21:49お釈迦さんのお悟りは未完成だなという方がございまして
21:54物議を醸したんですけれども
21:57決してそういう意味じゃなくて
21:59常に道の人として修行を続けていくということを
22:06言いたかったんだろうと思うんですけれども
22:07そうですね
22:07世の中がどんどん変わるんですからね
22:09だからそれに応じてまた願いを決意を新たにするわけです
22:14だからやっぱり未完成だと言ったって構わないじゃないですかね
22:18もうこれでいいということがないんだという意味において
22:22常に歩き続けていくというところに
22:28大切さがあるとするならば
22:30もうこれで完成した
22:32昼寝していいよというのはない道理でございましょうからね
22:36そういう意味で先生
22:39ハラミタという言葉がございまして
22:44このシャンティレーバーも
22:47具体的な修行の実践として
22:50六腹蜜を解いているかと思うんですが
22:53この六腹蜜という言葉も完成という
22:58先生は完成というふうにお訳しになっている
23:01私はね
23:02ハラミタというのを完成と訳しております
23:05なかなか難しい言葉だもんだから
23:07それで簡約の仏典ではですね
23:10ハラミツとかハラミタという感じでもって
23:15音を移しているわけなんです
23:17けれど砕いて申しますとですね
23:20パーラミタという元の言葉ですが
23:24パーラというのは飛眼という意味です
23:26彼方の世界
23:27理想の世界ですね
23:29だからいたというのは
23:31そこに至ることという意味なんです
23:34ですからこの完成を目指していくことです
23:39人間はどういう点に心がけて
23:46完成を目指したらいいかということで
23:49いろいろ解き方はございますが
23:52仮にですね
23:52この六つの完成を言うわけです
23:56これを感じて分かりやすく言いますとね
23:59六度とも言うんです
24:01度というのは一度二度の度ですね
24:03温度の度でございます
24:04そうなんです
24:05あれは渡すという意味ですから
24:08だから我々は常に迷っている
24:11考えあぐんでいることが
24:12それを彼方へ連れていく
24:15つまり道を求めて彼方に向かって進むという意味なんです
24:21主な項目としてですね
24:24六つあるというんですかね
24:26世界妊娠前例と言うんですが
24:30ここに出ているのは世界妊娠上例となっています
24:33同じことであるんですよね
24:36前例というぐらいであります
24:37そうです
24:37背というのはこの施すということ
24:41これは人に何かを与えることなんですね
24:45施すというとなんかそのね
24:47上の人が下の人に与えるというような意味に
24:50取られる恐れがありますが
24:53そうじゃなくてですね
24:54施すというのは
24:55あまめく広めるという意味なんです
24:57だからこう人に何か与えるか
25:00あるいは奉仕して
25:01その徳があまめく及ぶという意味で
25:04それで背という字を使ってあるんです
25:06それから人がですね
25:09生きていく間に絶えずこの選択に迫られます
25:13こういうことはしていい
25:15こういうことはしてはいけないと
25:16こういうことはしないでおきましょう
25:20こうしましょうという忌ましめがそれが快なんですね
25:24それから現実の世界ではですね
25:27なかなか自分の気に食わないことってあるわけです
25:30けれどそれをですね耐えしのんでいく
25:33最初のうちはこう
25:35えいしゃくだなと思っても耐えしのぶわけです
25:38その耐えしのぶにこうなれますとですね
25:41あまり努力しないでも怒らないで済むと
25:45自ら耐えるということになりますですね
25:47それから真というのは進むという意味ですが
25:50これはその精進とも申しまして
25:52努力すること
25:53努め励むことです
25:55積極的に動くこと
25:57だから情というのは心を定めることの意味で
26:00で善情とも申します
26:02あの善の
26:04座禅の善とですね
26:08同じ意味なんです
26:09でその結果本当の知恵が現れてくるという
26:12その本当の知恵をえと申します
26:15でまあ6つ立てるわけですがね
26:18どれ一つ取ってみても
26:20みんな他のこの徳と相互にこの
26:24入り合い助け合っているわけです
26:27だから逆にまた一つを完成しようと思うと
26:30他のものも
26:31実現しようと努めねばならないという
26:35そういう関係にあるわけです
26:37それは先生大切なことのように思うんですけれども
26:41何かこう六腹道と言いますと
26:43一つ一つ別々なように感じますけれども
26:46やはり伏せというものが完成されていくためには
26:51解とか忍とか精進努力とか
26:54善情とか知恵というもののバックアップがなければ
26:58本当のものになりませんでしょうし
27:00どれ一つを取り上げても
27:03他のものとも関わっている
27:05ある意味では
27:07手にある五本の指みたいなもので
27:11それぞれ別ではあるけれども
27:12独立では動かない
27:14こんな風に見てよろしい
27:15そういうことになりますですね
27:17人間はいろんな働きを持っていて
27:20いろんな活動を示すわけです
27:21それが孤立したものじゃないですね
27:23お互いに寄り合っているものですから
27:27原始物典の中から
27:31今の最初の不正
27:34特にその不正が今先生のお話のように
27:37広く及ぼすこと
27:38奉仕ということを通じて
27:42仏法の深い領域に達したという
27:46話がございますので
27:52それを一つご紹介しながら
27:54少しお話を伺いたいと思います
27:58皆さんは出家したのですから
28:03一つにまとまること
28:05水入のようにあらねばなりません
28:08今後はお互いに看病し合ってください
28:13他の人の病を見ることは
28:16私を見ることに他ならないのです
28:19増一阿言経第40巻でありますが
28:22先生ここに
28:24これはどういう状況のものか
28:27ちょっと教えをいただきたい
28:28これはですね
28:29出家した人々が
28:33お互いに修行者として
28:35共同生活を行っております
28:37共同生活を行う以上は
28:40互いに仲良く暮らさなきゃいけないと
28:43いうことが言われているわけですね
28:48和の精神といえば
28:51そこに落ち着くかと思いますが
28:53ところで
28:56こういう話があるんです
28:59釈尊が長くおられたところは
29:02擬音症者と申しまして
29:04インドの北の方で
29:07ネパールに近いところですが
29:09今でも擬音症者の遺跡が残っております
29:12そこに修行者たちが大勢が住んでいたわけですが
29:18その中に一人
29:19重病のお坊さんがいた
29:26もう病んでいますし
29:31体が動かせないものですから
29:35身の回りも汚くなっていたわけですね
29:38他の人が面倒を見てくれなかった
29:41ところが釈尊はですね
29:45その病人の修行者のところへ行って
29:48積極的に身の回りをきれいにしてやって
29:53洗濯もしてですね
29:54看病されたと
29:56そういう話が仏典に出ているんです
30:00中国の有名な巡礼僧の
30:06玄城山像が
30:07擬音症者の後に行きましたときにですね
30:10ここが釈尊が病人を解放された場所ですと
30:17そこに住んでいる人が教えてくれた
30:22それに非常に感激したということを
30:26玄城山像は述べておりますが
30:28そのようにですね
30:32辞める人
30:33さらに広めて申しますと
30:35悩んでいる人困っている人
30:37そういう人を助けてあげるというところに
30:41仏教の教えがあるんだと
30:42だからそういう病人の
30:46修行者を
30:48看病するということは
30:50実は仏様に仕えて
30:53仏様の看病するのと
30:55同じことだと
30:57そういうことを説いておられる
30:59他の人の病を見ることは
31:03私を見ることに他ならないってありますから
31:06仲間のお互いに助け合って
31:09病気の看護をしていくということが
31:11仏さんに仕えること
31:13奉仕することと同じ意味を持つんだ
31:15そういうことですね
31:16それを広げますとね
31:18広く世の人々のために
31:20奉仕し仕えるということになると思います
31:23別にその狭い教団だけに限ったんじゃないんです
31:27と申しますのは
31:28当時の教団はですね
31:29志のある人は誰でも受け入れましたから
31:32だからその気持ちというのは
31:35世界に
31:36世の中に広く
31:38伝えられていくものだったわけです
31:43そうした伏せというのが
31:45この場合
31:46他人に対する気遣い
31:50病気の看護もその一つでありますし
31:53奉仕業でありましょうし
31:54それが伏せの重要な特目であり
31:58シャクソンが道の人として
32:0250年間歩み続けてきたというような
32:05そういう内容を持ったものだったわけではないですね
32:08その精神はですね
32:09その後にも伝えられまして
32:13ことにインドでは
32:14興味深いことには
32:17人間のための病院ばかりじゃなくて
32:20この動物のための病院というものがですね
32:22昔から作られていたんです
32:24仏教が地獄に移ってきますとね
32:27曜日予防というのが
32:29制度として作られました
32:32病を養う傍者建物ですね
32:36これは仏教者によって作られたんです
32:39そして日本にもその理想が受け継がれましてですね
32:42伝統として我が国にも生きておりました
32:48道書律師とかですね
32:52あるいは認証律師なんていう人は
32:54まさに代表的な人ですが
32:57広く行われたものです
32:59そうしますとシャクソン以来
33:01こういうふうに
33:02ジタフニと申しますか
33:04原始物典の中にも
33:07他人様の命を自分に引き当ててという表現
33:10先生もお書きになっておられたと記憶しておりますが
33:13そうしたものの中から
33:15自分と他人というものを
33:19共に生き
33:22助け合いながら生きていくということが
33:24非常に中心的な生き方になろうかと思いますし
33:28当然それが不正ないし奉仕ということになろうかと思いますが
33:34先生ここでもう一つ
33:36奉仕ということを通じて
33:40仏法の悟りに到達したという
33:44一つの例をまたご紹介をいたしたいと思います
33:47これはチューラパンタカ長老という人が
33:57若い頃のことを思い出して書かれた
34:02詩ということになっておりますが
34:03私の進歩は遅かった
34:06私は以前には軽蔑されていた
34:10兄は私を追い出した
34:12さあお前は家へ帰れと言って
34:15そこへ尊き師が来られて
34:18私の頭を撫でて
34:20私の手を取って
34:22草園の中に連れて行かれた
34:24慈しみの思いを持って
34:26師は私に足拭きの布を与えられた
34:30この清らかなものをひたすらに専念して
34:33気をつけていなさいと言って
34:35私は師の言葉を聞いて
34:40教えを楽しみながら
34:42最上の通りに到達するために
34:44精神統一を実践した
34:46私は過去世の状態を知った
34:49見通す眼
34:51天元は清められた
34:53三つの命地は体得された
34:56ブッダの教えは成し遂げられた
34:59テーラガータ557番から562の
35:04詩でございますが
35:06先生は中羅パンタカという
35:09確か漢訳経典では
35:12手裏判読という形で知られている
35:14漢字で音を写しましたね
35:17先生は大変これは
35:20お釈迦さんの釈迦の教えにしては
35:24理屈っぽいことが全くございません
35:26そうなんです
35:27大変分かりやすいと申しますが
35:33事柄に即した経典でございます
35:36この辺がどういうことなのか
35:38もう少し状況説明を含めて
35:40お話を伺いたいんですが
35:42この中羅パンタカの話というのは
35:44仏典の中でよく知られているものなんですが
35:50いろいろな種物に伝えられていますけど
35:54今ご紹介くださいました
35:57このテーラガータの中に出てくるものは
36:00古い形でそして簡単に伝えられているので
36:04分かりやすいと思うんです
36:06中羅パンタカというのは
36:09兄のマーパンタカとともに
36:14釈迦の教団に入って
36:16お弟子になったわけです
36:18兄の方はですね
36:19秀才だったんです
36:21頭が良かったんです
36:22ところが弟の方はどうも頭が悪くてですね
36:25それで覚えが悪い
36:28だから人にバカにされていたんですよ
36:31それで
36:31兄さんの方がもう怒りましてね
36:37お前はもうダメだ見込みがない
36:39家へ帰れって言ったということが
36:42ここに出ておりますね
36:43そして叱られているところへですね
36:46お釈迦さんが来られて
36:48私の頭を撫でてと書いてありますが
36:54おそらくまだ小さかったんだろうと思うんですよね
36:57そうでしょうね
36:58きっと秀才の兄さんに怒られて
37:01きっと涙か何かこぼしながら
37:04がっかりしていたところへ
37:06釈迦が見えて
37:07頭を撫でて手を取ってと言いますか
37:10やはりまだ小僧さんというか
37:11小さい方だったんでしょうね
37:13非常に釈迦の
37:16慈しみの頃がよくここに出ていると思うんです
37:19それでまあこっちへ来いって言ってですね
37:22その相談の中へ
37:26共同生活をしている中へ
37:28また連れ戻されたわけですね
37:29そして慈しみの念を持って
37:32釈迦は私に足拭きの布を与えられたと言うんですね
37:38これはどういうことかと申しますとですね
37:41続いてその釈迦の教えが続いておりますが
37:46この清らかなものをひたすらに専念して
37:50気をつけていなさいと言うんですが
37:54これはですね
37:55その年長の人が
38:00あれお客様が来られますとね
38:03そうするとインドでは
38:05足を洗うための
38:09水を用意する
38:13専属の水を用意すると
38:15いう習わしがあるんですね
38:22と申しますのは
38:26インドは日本よりも空気が乾燥しておりました
38:33埃っぽいんですね
38:34だから家へ帰ってきて上がる前に
38:37足を洗う
38:39その時に水を差し上げてですね
38:48そして足を洗って清めてあげるというのが
38:53一つの礼儀になっているんです
38:56それでこの千浦パンタクはまだ
39:01若い小僧さんだったんでしょうか
39:05それで先輩の人たちのために
39:10足を洗うと
39:12ただそれだけのことですよ
39:14それなら彼だってできたわけです
39:18だからお釈迦さんはこれならできるだろう
39:21やってごらんと言ってされた
39:23その足を洗って拭いてあげるという
39:30その行いがですね
39:32これが実は考えてみると非常に尊いことである
39:36それによって足を清めるばかりじゃなくて
39:39その受ける人
39:40それから足を洗ってあげる人の心を清めることになります
39:44これは大きな収容ですね
39:47それによって彼は
39:50苦毒を積んで
39:54でやがて悟りを開くことになったと言われております
39:58それから他の伝えによりますとですね
40:01彼は死の文句をなかなか覚えることはできなかったと言うんですね
40:06それでみんなからバカにされたけれども
40:08しかし木曹寺なんかをやっている間に
40:11やがて覚えるようになったということを
40:15別の伝えでは言われておりますが
40:18確かに何でもあるんですね
40:21人の足を洗ってあげるということは
40:24確かに伏せの一つであり
40:26奉仕の行であり
40:28下座行という言葉があります
40:31今先生おっしゃいました通り
40:34その下座行を続けるということは
40:37何かこう自分の中に頭を持ち上げてくる自我とか
40:42俺はといったようなものを
40:44潰さなければ奉仕はできないわけですし
40:47人に尽くすという行為が身についていくわけでありましょうし
40:52そうしたものが重要な修行になっていたわけなんでしょうね
40:57だから足吹きの雑巾ですね
40:59それは世間的に見れば汚れているものと思うかもしれないけど
41:05実は清らかな心がこもっているから
41:08尊いものだ清らかなものであると
41:10そういう推しがここに述べられているわけです
41:12だからこのことをじっと心に思いなさいと
41:15シャクソンを教えられたわけなんです
41:17その足を拭く雑巾を布を清らかなものを専念してと
41:22そういう意味なんでありますね
41:24なるほど
41:24中浦パンタカはそういうことを続けていくうちに
41:29つまり奉仕行を続けていくうちに
41:32きっと何かをはっと思い当たることがあり
41:36悟りの目が開けてきたわけでございましょうか
41:40その悟りの目が開けたということをですね
41:43この書物ではまず過去世の状態を知ったという
41:47それから見通す清らかな眼を得たということを言うわけです
41:53それから三つの命地が得られたとございますが
41:57これはですね
41:58仏教の教義の方では
42:01過去世を見通す知恵と
42:09それから未来世にいかなる報いを得るかということを
42:15見通す知恵と
42:17それから自分の修行によって煩悩が消え失せる
42:24その消え失せたということを確かに知る知恵と
42:28その三つという具合に言うんです
42:30これはまあ教義的な説明ですよね
42:33もとは三つの命地というのは
42:34三つのベイダーのことを言ったんですよ
42:37けれど仏教ではですね
42:39ベイダーはいかんというようなことは言わないんですね
42:41名前だけ残してですね
42:43その内容をすっかり改めて
42:45本当に実践的な清らかなものにしたというのが実情であります
42:50ということはやはり当時の仏教徒が納得するような形での
42:54悟りを得たよ
42:56うなずきが出たんだよ
42:58法に対する眼が開けたんですよということの表現である
43:02そうなんです
43:02こう受け取っておけばよろしい
43:03非常に分かりやすくですね
43:05根に迫るような解き方ですね
43:09一字が万字という言葉もございますし
43:13あるいは
43:14こいつ平書とでも言うんですかね
43:17いつを挙げて諸々のものを覆うという
43:20つまり先ほどの六腹道ですが
43:23伏せ奉仕というものをとことまでこうやっていくことによって
43:28他の方の5つのことを含んだ形で
43:31やはり正しい道を歩く
43:34マナコが開けてきた
43:35そういう状況をここで述べている
43:39そうです
43:39そこまでマナコが開けたということですね
43:42そこでこうした釈尊の
43:47釈尊ご自身が正しい道と法の領域を歩き続けてきたんだ
43:55ということをもう少し集約的に表現した
43:59重要な仏教の言葉がございますので
44:02それをご紹介しながらまたお話を伺いたいと思います
44:07母大神を陰となし
44:11大秘を根本となし
44:13方弁を苦境となす
44:15大日教からの
44:17これは先生大変有名なこと
44:18有名な言葉ですね
44:19大日教といいますと
44:21神言密教の根本経典ですね
44:24その最初の大事な教えを述べている
44:27十心本の中にあるしかも有名な言葉なんですが
44:31簡潔に述べておりますね
44:34母大神は先ほどのシャンティレーバーの話にも出てまいりましたし
44:39悟りを求めていく心ということは
44:42一回こっきりのものではなくて
44:44それをずっと死ぬまで持ち続けていくことだと
44:48こういうようなことを先ほど伺ったのでありますが
44:51そうですね
44:51つまり悟りを目指して求めるということ
44:55その心がそれが原因となっている
44:58その原因がなければ何も実現しないわけですか
45:03それで母大神を因となしというわけです
45:06その次の大秘と申しますのは
45:09これはですね
45:10今度具体的に実践するためには
45:15大いなる憐れみの心
45:19人と共感する気持ち
45:23それが根本になければならない
45:25母大神の方はどちらかと申しますと
45:28知的な表現ですね
45:30真理を目指す方です
45:32けどそれが具現する場合には
45:34人々に対する慈悲の心がなきゃいけない
45:37だから大秘が根本となるわけである
45:40知恵と慈悲という2つのものを並べて
45:45違った面においてその意義を明らかに強調するという
45:51そういう解き方がなされているわけです
45:54そうしますと母大神と大秘
45:56知恵と慈悲ということが
45:58片っぽは原因で片っぽは根本だということは
46:01表現としては分かれているんですけれども
46:04実際にそれが生活の中で働き出るときには
46:08一つのものとして働き出るという
46:10そういうことになると思います
46:11裏表のようなものでございますね
46:12我々が一応分析すると2つになるけれど
46:15実際は利用法がもう一つになって働いていると思います
46:19それが現れると方便になるわけですね
46:24嘘も方便になるという言葉がすぐ出てくるんですが
46:28どういう意味でございますか
46:30これはですね方便というのは手立てという意味ですが
46:33その現実に理想を実現するとあって
46:37頭の中で持っているだけで実現するわけじゃないでしょう
46:40実際にはどうしたらいいかなと思って
46:43その実現する手立てを考えるわけですね
46:47慈悲と知恵が一つのものの表裏を成して
46:53これが具体的に働き出すときには
46:56どうしても具体的なさまざまな手立てとか方法とか
47:00具体的な行為で出てくるわけ
47:04そうした具体的な形を方便という
47:08そうです
47:08その具体的な形で出てくるものがですね
47:12苦境となすとありましょう
47:14これは非常に深い意味を持っていると思うんです
47:16と申しますのはね
47:18我々はその具体的に現れるものの彼方に
47:24何か別の根本的なものがあると思いますね
47:28これをもう少し現実的な場面に当てはめてみますと
47:35我々は生きております
47:37人々との人間関係にあるわけですが
47:40けれど抽象的に漠然と考えますと
47:44どこか素晴らしい理想の人物というのが
47:49どこかにいるだろうと
47:51今この周りにいる人はとてもそこまでいっていないと
47:55そういう具合に思いがちなんですが
48:00しかし考えてみると
48:02私なら私が置かれているこの場面がですね
48:05もう苦境のものなんですね
48:07最終的なもう究極的なもの
48:09だから理想の世界というのはここに求めなければならない
48:12本当の死といいますか
48:16あるいは友人と申しますか
48:19そういう人もですね
48:20今ここにいるわけなんですね
48:23その中に見出すべきである
48:25あるいは家庭でもですね
48:27自分の両親になり配偶者がですね
48:31もっといい人であったらいいななんて思うかもしれないけども
48:34いやここに自分と縁のできているこの人がですね
48:38もう究極のものなんで
48:41その人の中に絶対の意義を見出すの
48:43いうこと
48:45つまり現れがそのまま絶対の意味を持っているということを
48:51強調していることになる
48:52信号仏教のこれはある意味で
48:54その極意を述べているものだと思いますね
48:57またなるほど
48:58伺いますとその通りだろうと思うのはですね
49:01今というものを本当に充実しきった形で生きていきませんと
49:06じゃあいつ充実した人生が展開するか
49:10明日なら明日一生懸命やるよと言っても
49:14結局明日はまた明後日に伸びてしまうでしょうし
49:17結局今を生きるという言葉がございますけれども
49:21そういうことになると思いますね
49:24なんか非常に苦しい場面に置かれます
49:27今日は嫌だ明日になればと思って
49:30明日を待ちますね
49:32けど明日にそのいい場面が来るというものじゃない
49:37今生きている今与えられているこの場面というものを
49:42絶対のものであり最上のものであり
49:45最もありがたいものだと思って受け取る
49:48それによってそこに新しい光が現れるということになるんじゃないですかね
49:53そうしますとこの方便というのが何か頭で考えて
49:58テレンテクダを考え出してなるというものではなくて
50:02本当に自分が今置かれている現状
50:04正しい方向でそれこそ
50:07時期と知恵というものを耐えしながら生き抜いていく
50:11自分の生き方そのものの方便であるということにもなってまいりますね
50:15自分の生き方を探る場合にこうしたらこうなる
50:21ああしたらああなという具合に目的と手段の関係にありますから
50:27だから目的に対して言えば手段であるから
50:30その手段を方便というわけです
50:32決してテレンテクダという意味ではないんです
50:35俗語ではだいぶ崩れた意味になっておりますが
50:38そうなんですねそしてそういうふうに生きていくということが
50:42先ほどのようなお話で自費と結びついておりますし
50:48自分も一生懸命生きると同時に他人様と共に正しく生き合っていくといいますか
50:55そうしますと結局例えば地味得度先度たなという言葉もございます
51:02自分が未だ得度しないのに先に他人の方を渡すと
51:11要するに利多行のことですけれども
51:13これは大乗仏教の究極の立場ですね
51:18ギリギリの実践はどういう立場にあるか
51:21自分がこの良い目に遭う前に
51:25まず人を助け人を救うと
51:28それが大乗仏教の理想であるというわけです
51:33そうでましょうね
51:34それが決して自分が潰れちゃうなんていうことじゃなくて
51:39他人に対して尽くし抜いていくところに
51:42より正しく自分というものを主張し
51:46自分が生き抜いていく
51:48いわば事故の確率もあるわけでございます
51:50そういうことなんですね
51:51つまり自分と他人とが別のものでありながら
51:55両方ともに生きるような道を求めるということになるわけです
52:00そうなんでしょうね
52:01先生そうしたことで
52:03本日が1年にわたる12回の最終回のまとめという
52:10そしてさらに今日いろいろお話を伺ってまいりましたことの
52:15またまとめという
52:16そうした意味で最後に人間の願いを
52:20誠に端的に表現した仏典の言葉がございますので
52:26それを最後にご紹介をいたしたいと思います
52:29願わくばこの苦毒をもって
52:33あまねく一切に及ぼし
52:36我らと主張と皆ともに仏道を上前ことを
52:41法華経秀本の中からの一説でありますが
52:45これはもういろいろ
52:50現在の各仏教教団におきましても
52:54お経を読みました後で必ず唱える
52:57エコーモンでございますね
53:00つまりエコーというのは
53:02苦毒を振り向けるという意味ですからね
53:05だから自分が行ったこと
53:08全て成し遂げたこと
53:11その苦毒をあまねく人々に及ぼすことにしたいという
53:15その気持ちを述べたものとして
53:18この法華経の秀本の中の言葉が
53:22誠に適切なものであるというので
53:25それで諸宗派で用いられるわけです
53:28大体どの宗派でもこの文句を唱えられますが
53:36浄土教の諸宗派で
53:38少しくそれを改めまして
53:41東大の中国の禅道大使が
53:45同じことですけど
53:48文句を少し改めまして
53:51最初は寝川区はこの苦毒を持って
53:56これは同じですが
53:58平等に一切に施し
54:01同じく母大神を起こし
54:07安楽国に王城戦国と
54:10そういう具合に改めて
54:13唱えることになっておりますが
54:16趣旨は同じことなんですよ
54:18そうでございますよね
54:19我らと修行と皆共に仏道を醸善ことを
54:24というのが
54:25禅道大使の言われるお言葉ですと
54:27母大神を
54:28同じく母大神を起こし
54:31そうなんですよ
54:31内容的には同じことであろうか
54:34そうです
54:34自分一人
54:38どっかいいところへ
54:40極楽へでも行こうというんじゃなくて
54:42我らと諸人
54:45諸人ばかりじゃない
54:46生きとし生きるものを含めるわけですね
54:49理論的には
54:50皆共にですね
54:51この仏道を進みたいものだと
54:55そういう願いがここに表現されているわけです
54:58その願いの内容を成すものが
55:01今日のお話の流れで申しますと
55:04六原道であり
55:05特に伏せとか奉仕ということで
55:09お話を伺ってきたわけなんですが
55:11結局それが
55:13他人に尽くしていくということ
55:17ということは決して自分が潰すことではなくて
55:22自他共に生きていくことでございましょうし
55:24いわば共に生きるということが大きなポイントになろうかと思います
55:30そうです
55:31この頃の宗教かって言いますか
55:34宗教指導者の中では
55:35共生きっていうことをおっしゃる方もございますね
55:38共に生きる
55:39簡潔に要約するとそういうことになると思います
55:43共に生きるということは
55:45自分が自分のそれなりのがんを起こして
55:50そのいろいろなことがあるけれども
55:52それを克服しながら生き抜いていく
55:55それも正しく教えに従って生き抜いていくということを
55:59覚悟し努力しなければいけないわけでありましょうし
56:03それが具体的には常に他人様に対して
56:07働きかけていくものでなければならない
56:09みんながそういう形で生きていくところに
56:14共生き
56:16一緒に生きるということが現状している
56:19他人と離れた自分というものはないんですからね
56:21この頃事故の確立とかなんてよく申しますけど
56:25どうかすると他人と離れた自分だけを主張する
56:29要求するというような傾向がないにしもあらずですけど
56:33自分というものは他人と決して離れていないので
56:37自分が生きることができるのは人様のおかげなんですから
56:41だから我らと主張と皆共に仏道を
56:45常然ことをということを願うわけです
56:48それが事故の確立であり
56:52自由というのでございましょうか
56:54自らによるというんですから
56:56そうです
56:56自由というのは
56:58本当の自由という意味はそこにあるんですね
57:00自由という言葉は全の語録によく出てくるんですがね
57:04事故によるとその事故というものは
57:07他人と共にあり他人に助けられている事故なんですね
57:12それを実現する
57:13それを自覚しながら生きていくから自由なんです
57:17そうしますと現代というものがいろいろな形で
57:21エゴというものがはびこりすぎているということが
57:26よく言われるわけですけれども
57:27これはいろんな社会の発展に伴って
57:31そうした傾向が出て
57:32従来以前よりも出てきている面があろうかと思いますけれども
57:38そうしたことも含めて
57:41私どもの一人一人が人間の願いとして
57:45そうしたことを考えていかなければいけない
57:47そうですね
57:48今おっしゃいました
57:50ケチな自我というもの
57:52ケチなエゴを克服してですね
57:55大いなる事故を実現するということを
57:58目指して進むじゃないですか
58:00それが人間の願いということであろうかと思いますけれども
58:04先生長い間どうもいろいろありがとうございました
58:06どうもありがとうございました
58:07ありがとうございました
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