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  • 2025/6/16
トランスクリプション
00:00東洋思想への関心が高まる中に 東洋の心を語るということで
00:07毎月1回放送をしております
00:10本日はその第2回でありまして 中道を歩むということでございます
00:16中道 いろいろな意味合いで使われる言葉なんですけれども
00:21東洋の心として一体それがどういう意味を持つのか
00:26いろいろと考えてみたいと思います
00:29本日お話をいただきます方は 東方学院院長の中村はじめ先生でございます
00:36先生 よろしくお願いいたします
00:37先生 今日のテーマが中道ということでございまして
00:42実は昨日少し辞書を引いてみましたんですけれども
00:48中というのは真ん中という意味でありますから
00:52例えば中流とか中年とかごく普通の真ん中という意味が
00:59と同時に例えば中心とか中性 真ん中で正しいとか中陽とか
01:07やはり中ということに非常に優れた特性を持たせて使うということが
01:15たくさんあろうかと思いますし
01:18人間 人生生きていく上の一つの心べき徳を
01:24昔からいろいろなところで説かれているように思うんですが
01:28東洋の方を見ます前に
01:31先生 これはやはり世界的に
01:34やはり中とか程よさとかいうようなことは 言われているものなんでございましょうか
01:41そうですね
01:42世界のいろいろな文化圏の伝統について見ますと
01:48中道とかあるいは中陽ということは 昔から説かれていることでございます
01:55東洋では特に強調されていますけれども
01:59決して東洋だけではないのでありまして
02:04西の方を見ますとですね
02:06西洋でもやはり昔から説いていることでございまして
02:10例えばイスラエルではソロモンがですね こういうことを言っております
02:15蜜というものは甘くておいしいものだ
02:19しかしそれをあんまり食べ過ぎると 吐き出したくなると
02:25そういうようなことも言っております
02:27ギリシャでは伝統的にこの中陽の徳が 説かれているのでございますね
02:33例えばソロンはどう過ごすなというようなことを 教えたと申しますし
02:39そしてその適度ということは 健全な徳の姿であるということを
02:47哲学者のヘイラクライトスも説いております
02:50我々人間は節度を守らなきゃいけない
02:56快楽の奴隷となってはいけないということを ソクラテスも説きましたし
03:01ことにアリストテレスになりますと
03:04この中陽の徳を積極的に考察して 論議いたしております
03:12例えば勇気とは何であるか
03:15それは無謀な無茶なことでやってはならない
03:19これは過ぎている方ですね
03:21それから反対にこの臆病でビクビクしている
03:25それもいけない
03:27その中間の最も適当な度合いを保つこと
03:33それが勇気であると
03:35その他の人間の諸々の徳に関しても
03:43同様にこの中陽を守る
03:47適切であるということが大切であるということを 説いておりまして
03:55西洋の思想史において よく知られていることでございます
03:59マナコを今度こちらへ転じますとですね
04:03中国では
04:05これはもうもともと
04:07中陽という言葉が
04:09もう中国の言葉として定着しておりますですね
04:15程よさと申しますかね
04:17中陽という言葉はよく現代でも使う言葉でございましてね
04:21本当に程よさとか
04:25どう過ぎないという意味でよく使われるようですけれども
04:29もうロングに出ておりますですね
04:32そして孔子の孫の獅子が書きました
04:37中陽という書物がございます
04:39そこではもうその中陽ということが
04:43中心のテーマになっているわけです
04:46それはどういうことかと
04:49日本でも中陽はよく読まれた書物ですが
04:53受学者の中村敵才という人が
04:57記しました仲介によりますとですね
05:00程よいことであって
05:02前後どちらにも傾かず
05:05左右どちらにも倒れないことであると
05:09ちょうどこのマットに当たっていることであるという意味に
05:18解釈しておりますが
05:20それを実践します場合には
05:22中高ということを申します
05:24中の行いとかきますがね
05:28これも中国では古くから説かれていることでございまして
05:35中陽を守って実践すると
05:38我々にもよく知られている言葉でございますが
05:42過ぎたるはなお及ばざるが如しと申しましょう
05:46よく普通に使う言葉で
05:48現代でも生きている言葉ですよね
05:50そう思いますね
05:52我々の生活に当てはめてみましても
05:54本当に当たってるんじゃないでしょうかね
05:58お薬が効くって
06:00しかしお薬を取りすぎちゃいけないんですね
06:05それからまた適当な量だけ取らないと
06:08効かないわけなんですね
06:10ちょうどその適切な問いということが
06:13この人間の生活に必要なんじゃないでしょうか
06:18インドではどういうふうに説かれますのでございましょうか
06:22インドでもですね
06:23中というのは昔のサンスクリプトの言葉で
06:26マディハって言うんですがね
06:27これは中あるいは中心という意味でございます
06:322つ何か対立している場合に
06:38どちらにもとらわれないということは
06:41ジャイナ教でも説くんです
06:43ジャイナ教というのは
06:47仏教の姉妹宗教と申しますか
06:51シャクソンが世に出られた頃
06:53ほぼ同じ頃に出た宗教ということを聞いております
06:58そうなんです
07:00今日のテーマが中道で
07:02当然仏教との関わりで
07:05私ども知っているわけなんですが
07:09先生何かどう過ごさないとか
07:13バランスを取るとかというのは
07:16もちろんわかるんですけれども
07:18何ですか真ん中とか中道と言いますと
07:22右と左の真ん中でありさえすればいいんだと
07:25ですから全体がこっちに行っていると
07:28中道も右の方に行くとか
07:32全体が左に傾いている場合には
07:34中道も左に行ってしまうと
07:36何か非常にこうふらふらと
07:39中道というのは何でも真ん中でありさえすればいいんだ
07:42何かそんな受け取り方もちょっとするんですが
07:45その辺はどう考えてよろしいでしょうか
07:48確かに世間ではそういう受け取り方もなされていますね
07:51中道という言葉ですね
07:54これは仏教のマデマ・プラティパドという言葉を
08:00漢語に訳した場合に作られたこと
08:03だから大きな緩和大辞典にも出ておりませんですね
08:07仏教独特の観念だと思うんです
08:14今申し上げましたように
08:17ジャイナ教なんかでも
08:182つの極端にとらわれるなということを言うんですが
08:21仏教はそれを受けましてですね
08:242つの対立した極端にとらわれるな
08:27さらに中にもとらわれるなという教えが
08:31スタニパータに出ているんですね
08:33それは今おっしゃいましたように
08:352つの極端があるとそれを合わせてですね
08:38足して2で割ると
08:39そういうことにまたとらわれてはいけない
08:42本当にその適切な
08:45要点にピタッと当たるということが必要であると
08:52中という字はですね
08:54これは当たるとも呼びますね
08:57そういう名前の方もいらっしゃいますね
09:01そうですね
09:02ちょうどその適切な点に当たる
09:05この説に当たるということですね
09:08中道という言葉を
09:13また漢訳の仏典では
09:15使用の道とも訳していることがございます
09:18使用というのはこの要の道ですね
09:21その肝心要のところにピタッと当たるという
09:24それが中道の精神なんです
09:27ということは
09:28とにかく
09:30右と左両極端があって
09:32それの真ん中でありさえすれば
09:34何でもいいということではなくて
09:36その真ん中だということが
09:38きちっとポイントを押さえた
09:40要を踏まえていなければいけない
09:43ということを
09:44そういう意味です
09:45なるほど
09:46同じ平面の上に2つの対立したものを並べまして
09:52それを
09:54それだけで考えて中と言いますと
09:58そうすると
10:00足して2で割るというようなことを考えがち
10:04あるいはどっちつかずというようなことになる恐れがありますけど
10:06そうじゃないんですね
10:08人間の現実の生活というのは非常に複雑なもので
10:14いろいろな面を含んでおりますね
10:17だから何かの問題にぶつかった場合には
10:21こういう点から見ればこうであると考える
10:24また他の事件から考えるとこうであると
10:27いろいろな面から考えてみましてですね
10:30その上で最も適切な
10:35この解決の仕方はこうだと
10:38目処をつける
10:39それが中の精神です
10:42とにかくその肝心の要を押さえている
10:47そこがそうしますと中道ということを考えるときの一番大切な
10:52それこそ要の問題かと思いますんですが
10:55これは中道という言葉は勝って政治などの世界に使われたことがございますし
11:01いろいろな意味合いがあるんですが
11:03その本来のですね
11:05その意味をもう少しいろいろ伺っていきたいと思うんですが
11:09仏典の中から一つ文章を読ませていただこうかと思いますが
11:16修行者は二つの極端に近づいてはならない
11:23一つは諸々の欲望において欲の快楽にふけることであり
11:29他の一つは自らを苦しめる苦行に勤しむことで
11:34両者ともためにならないものである
11:37人格を完成した人はこの両極端に近づかないで中道を悟ったのである
11:44三ユッタ二階屋でありますから
11:46原始仏典の中でも比較的古葬に属する古いものかと思いますが
11:52ここで先生二つの極端
11:54それで諸々の欲望快楽ということと
11:58苦行ということを対比しておりますんですが
12:01先生もう少しこの辺の事情をご説明を教えいただきたいんですが
12:06最初期の仏教が起こりました時代には
12:12世間に色々な思想家がいて
12:14また色々な実践の仕方をとっていた人々がいたわけです
12:22分類することは難しいんですけれども
12:24大まかに分けまして
12:26ある人々は快楽にふけていた
12:32快楽を追求することが人生の目的であると思っていた
12:36それからまた他の人々は身を苦しめる苦行にふけるのが
12:42それが宗教の本質であるとそう考えておりました
12:48ところが釈尊の立場というものは
12:50そのどちらも間違っているというわけなんですね
12:56我々の問題として今度考えてみますと
13:02今の世の中では
13:04苦行にふけて身を苦しめるという人は
13:08あまりいないかと思うんですかね
13:10しかし当時は実際にいたんですね
13:14仏典にも出ておりますがね
13:16その苦行の有様が
13:18これ本当かしらと思うことがあるんですかね
13:21もう何にも食べないで断食の行を何日も続けるとか
13:25あるいは立ったままで寝ないとかね
13:30けどインドへ行ってみますと実際におりますですねまだ
13:35今日のインドでも私どもも色々なところで苦行者に出会っておりまして
13:42現在でさえそれだけおりますのでね
13:46古代の釈尊の時代
13:48古い時代にはもっとたくさんの苦行者がいたろうと本当に思いますですね
13:53私も経験しましたがね
13:56ベナレスですね
13:57宗教的な都市ですが
14:00あの海岸でですね
14:02茨をずっとこう積んでましてね
14:08で中に人間のこの死骸が横たわってるんですよほとんど裸で
14:14これは仮想ニュースのところかなってギクッとしたんですよ
14:20よく見てますとねその以外がピクピクッと動くじゃないですか
14:26つまりその苦行者がですねそういうところで寝てるんですね
14:34昔その転席に出ていたあの苦行を行う人がまだいるんだなと
14:40ただまぁだんだんあのそういう人も少なくなりですね
14:43その後私はベナレスに何度も行きましたけどね
14:45見かけなくなったんですよ
14:47でどうしてだって聞きましたね
14:48この頃は流行らなくなったんだよっていうんですね
14:51まああのそれでもあの少し奥まったところへ行きますと
14:55昔風の苦行の伝統はあのまだ続いていると
14:59そのようですね
15:01はい聞いておりますですね
15:02現にあの立ったままでですね
15:04はい
15:05十何年も寝たことがないっていう
15:07そういう苦行者にあなたは会われたんじゃないですか
15:09はいあの写真も撮ったりしたことがございましたんですけども
15:14あの足がこう
15:16天井からの紐でこう台のようなものをぶら下げまして
15:21休む時にはそこへ寄りかかって休むんですね
15:25ですからあの横になることはないんで
15:28そうしますとあの足がこう
15:31血が下がるというのでしょうか
15:33本当に膨れ上がれまして
15:35あのとってもこう
15:37あのこれでいいのかしらと思うような
15:39あの
15:41足がこう形が変わって
15:43見てても目を背けたくなるような状況なんですが
15:47それでもあのあと2年経つと
15:50それが満行であると
15:51全部済むというようなことで
15:53一生懸命やっておりましたですけれども
15:56仏典にまあそういう記載がございますね
15:59それからのギリシャ人の旅行記ですね
16:02それにそのインドの苦行者は
16:04異様なことをするって出てるんですよ
16:07で本当かなと思ったらやっぱり本当なんですね
16:11でインドのジャイナ教徒は
16:14現在でもまだそれほどひどい苦行じゃないですけど
16:18我々から見ると苦行に
16:21と呼ばざるを得ないようなことをやっておりますですね
16:24そうした苦行をやる
16:27一つの修行として苦行があったと同時に
16:31やはり釈尊の時代には今度は
16:34極端な快楽に走ると
16:36そうなんですよ
16:37いう考え方といいますか
16:39生き方といいますか
16:40あるいは
16:41宗教的業法としても
16:43その快楽を追求するといったようなものも
16:45あったと聞いておりますのでしょうか
16:47そのようですね
16:48今日の我々の問題として見ますと
16:55快楽にふけるっていう方が問題になってますね
16:57自ら身を苦しめる苦行をやる人はだんだん少なくなってます
17:01昔なぜそういう人がいたかっていうと
17:03これやっぱり苦行によってですね
17:06重力を身に蓄えると
17:08それで不思議な力を減ずるというところから来てるようなんですが
17:14魂が汚れているからその魂を清らくならし
17:18今日はそちらの方はあまり問題にならないで
17:23むしろその快楽にふけるという方が
17:30問題になってるんじゃないですかね
17:31先生
17:32現代でも先ほど苦行と快楽追求と
17:36両極端とおっしゃいましたけれども
17:38現代の社会では別に極端じゃなくて
17:41ごく普通になっているような面がございませんでしょうか
17:45快楽に関しては
17:46そう思いますね
17:49これはやっぱり人間の生活がだんだん楽になる
17:53戦時中はですね
17:55我々の年配の者はどうしても生活も苦しかったです
17:59苦行を強いられていたわけなんですが
18:01この頃は万事が安楽になりました
18:04そうするとそれだけで人が満足しないで
18:08もっともっと快楽を追求すると
18:11これは昔のインドでも見られることでございましたけれども
18:15ことに
18:18シャクソンの当時には都市人ですね
18:21名上がりかと申しますが
18:23富が蓄積されて
18:26その富を使って快楽にふけるという現象が
18:30顕著だったんです
18:32それも良くないと言われます
18:35これは現代の我々としては大きな意味を持っていることじゃないかと思います
18:41シャクソンご自身も出家をされまして
18:456年苦行と普通に言われますけれども
18:48苦行をされて
18:49そして苦行を捨てて
18:53母大寺の下で
18:56苦行をして悟りを開いたということがございます
18:59つまり仏殿
19:01シャクソンの生涯そのものが
19:03この2つの生き方に対する反応を示しているわけです
19:07若い時は国王の長子として
19:10王宮の中で育ったから
19:12非常に栄養栄養を極めていたわけですね
19:15しかしその生活に満足することができなかった
19:19今度は出家して
19:21苦行者の下で苦行6年を行って
19:26それで体も痩せさらばえてですね
19:30これじゃダメだということを悟られた
19:34そこでどちらでもない
19:36この本当の生き方は何だろうと思って
19:39瞑想にふけて
19:40そこで悟りに達せられたと
19:43そのように伝えられております
19:46先生 シャクソンがですね
19:48やはり王宮にいた時に
19:50これは高台の伝承ですから
19:52どこまで歴史的に見ていいかどうか
19:54知りませんけれども
19:56三次伝と言いまして
19:58暑い時と寒い時と
20:00雨季の
20:01そうなんです
20:02それぞれの時に別々の
20:04それの時期にふさわしい
20:06屋敷に
20:08女性と共に住んでなんて書いてございました
20:10そうなんです
20:11その時期が三つあったって言うんですね
20:13宮殿が
20:14ですから
20:15シャクソンが
20:16その愛欲と言いますか
20:18快楽の追求というものを
20:20自ら体験しておられたということ
20:22そうなんです
20:23そしてそれが一転して激しい苦行を行われて
20:26結局その両者を捨てて中道を説かれたということが
20:30その体験踏まえているだけに
20:32とても意味があるような感じが私するんですけれども
20:35そう思いますね
20:36その二つの対立した生き方が
20:39どちらも人間の本当の生き方を示すものではないと
20:43本当の道は何だろうと
20:45いうところに問題が展開したわけです
20:49そこに出てきたのが中道ということでございますね
20:53そうしますと
20:56両極端を捨てて
20:59シャクソン自身が自ら体験された両極端を
21:02これではダメだと捨てている
21:05ある意味では
21:06シャクソンが捨てられた
21:08苦行は私どもも行いませんけれども
21:11ある意味では
21:12その快楽を一生懸命
21:14現代に追求していると
21:16いったことはどうもありそうでございます
21:19そう思いますね
21:21快楽というものは
21:23一つ追求して満足しますと
21:27それで道足りないで
21:29また次のものを追い求める
21:33果てることがないと
21:35昔から言われておりますが
21:38結局自分の身を苦しめることになりますので
21:41そういうことになりますね結局は
21:43その辺をシャクソンの教えというものが
21:47その中道ということを
21:49一番修行の根本にした
21:51ということかと思うんですが
21:53それじゃあ一体この中道というのは
21:57今当時のシャクソンの出た時代の
22:01一般的な傾向として
22:03そういう修行者があり
22:05その両極端に走る人々が
22:08同時に何か哲学的な面におきましても
22:11いろいろな極端なものがあったと
22:15聞いておりまして
22:17その一つの例をちょっと読ませて
22:19いただこうかと思います
22:23カッチャーヤなよ世間の人々は
22:25多くは二つの立場に得損している
22:29それはすなわち
22:31うとむとである
22:33もしも人が正しい知恵を持って
22:37世間のあらわれいずることを
22:39如実に感ずるならば
22:41むはありえない
22:43また人が正しい知恵を持って
22:45世間の消滅を如実に感ずるならば
22:49うはありえない
22:51輪郭を完成した人は
22:53この両極端に近づかないで
22:55中道によって法を説くのである
22:59三言ったニカーヤ
23:01これも古い原始仏典の一つ
23:03先ほどと同じでありますけれども
23:05先生ここにうとむという言葉が
23:07ちょっと難しいんですが
23:09そうですね
23:10教えをいただきたいんですが
23:12当時はいろんな思想家がいたわけです
23:16人々は精神の拠り所を失っていたわけです
23:25必然論を解いて
23:27人間の運命はもう決まっているんだ
23:29努力したって
23:30ダメだっていうことを言う人もいる
23:32またそうかと思うと
23:34すべては偶然に支配されているんだから
23:38なるようになれといって
23:40深く考えない人もいたと
23:42それから片っぽでは快楽にふける人もいたし
23:46また片っぽでは苦行にふける人もいました
23:50あるいはもう考えることなんかやめてしまい
23:52という会議論を解く人もいたし
23:55まあいろいろだったわけですね
23:57そのいろいろの考え方を整理しますとですね
24:01結局
24:03うを解く思想とむを解く思想とに
24:07帰着するというわけなんですね
24:10人間の観念とか概念というものはたくさんありますけど
24:14それをずっと整理しますとですね
24:16最後はうとむの対立に帰着すると思うんですね
24:20自分というものがはっきりあるとかないとか
24:24世界があるとかないとか
24:26こういう
24:27そういうことになります
24:28かなり哲学的な意味ではありましょうけれども
24:31なるほど
24:32うの方は肯定するわけでしょ
24:34むの方は否定するわけです
24:36そのどちらかが帰着する
24:38そのどちらもですね
24:40対立の一方であって
24:43本当の正しい見解ではないというのが
24:47今の言葉の趣旨です
24:49うに
24:56なずむ人もいると
24:58けれども
24:59我々があると思っているものは
25:01みんな消え失せるじゃないかというんですね
25:05それから
25:06また無にとらわれて
25:08すべてを否定する人もいる
25:10けれども
25:11現実にいろいろな事柄が現れているというのは
25:14これも疑えないことでしょ
25:16そうすると
25:17どちらも対立した見解である
25:19本当はですね
25:20うも無もともに生かして
25:23ありとあらゆるものは
25:26縁起によって現れている
25:29いろいろな因縁
25:31原因条件が集まってですね
25:35事柄が現れていて
25:37また消え失せると
25:38それを
25:40あるがままに見ようというのが
25:44縁起の教えでございます
25:46先生今
25:48大変
25:49私には大切だなと思われることを
25:52先生おっしゃったように思うんですけれども
25:55あるということ
25:57これを否定もしない
25:59それからないということに
26:01つまりあるということに
26:03あるんだぞって
26:06こだわらないし
26:08ないということにもこだわらない
26:10その両方を生かした形で
26:13しかも正しいものの見方
26:15それが縁起だという
26:17そういう意味
26:18趣旨のことを
26:20先生おっしゃったんですが
26:21非常に現代的な表現を使いますと
26:23全てをプラスとマイナスで
26:26片付けるというような
26:28考え方がございます
26:30そのどっちにもとらわれるなと
26:32やっぱりプラスとマイナスと
26:33両方あるわけでしょ
26:35そうですね
26:37全てプラスだといえば
26:38マイナスが消えてしまうし
26:40マイナスだといえば
26:41プラスが消えてしまう
26:42その両方をやはり
26:44それぞれの立場において
26:45認めながら
26:46全体をひっくるめる形で
26:49見ていかなければいけない
26:51そうしますと先生
26:52それが縁起という
26:53見方で
26:54そういうことです
26:55こう考えてよろしゅうございます
26:56そういうことになると思います
26:58縁起というのは
27:02読んで字のごとく
27:04寄って起こるという
27:06何か
27:08それだけの一つの存在を
27:10認めないことというふうに
27:11確か聞いております
27:13互いに依存して成立している
27:15ということですね
27:16何も孤立したものはないわけです
27:19必ず他のものを予想して
27:21それによって起こっているというのが
27:24縁起の思想でございます
27:28全てが
27:30じゃあそうしますと
27:31エソンしている
27:33全てが関わり合いの関係の中で
27:35存在しているから
27:37その関わり方といいますか
27:40関係を切っちゃって
27:41これだけがあるよと言っても
27:43だめだし
27:45ないよというのもまた嘘になるし
27:48それを全部
27:50うとむということ
27:52あるとないということを
27:54全部ひっくるめた形で
27:56この
27:58世の中のあり方を見ていく見方
28:01あるいはそれに従う生き方
28:03こう見ていくことになろうかと
28:06そういうことになりますね
28:08今お話に出ましたところは
28:09うとむという抽象的な
28:11概念の対立ですが
28:13これを現実の世界に当てまってみますと
28:15大きな意味を持っていると思います
28:17どんな人だって孤立して
28:19存在しているんじゃない
28:21お互いに他の人々と
28:22関わりを持って
28:24他のものに依存して
28:26平たい表現でいえば
28:28他の人々のおかげを受けて
28:30生きていると
28:32なかなかそこまで
28:34私たちは反省しませんけど
28:36よく考えてみるとそうなんですね
28:38縁起の理から
28:40そういう点を気づかされると思います
28:43そうしますと
28:45その縁起のものの見方からしますと
28:47うとかむとか
28:49これだって一つに決めつけてしまうと
28:51やはり正しい言い方にはならない
28:54そうなんです
28:56こういうことかと思いますけれども
28:58シャクソンが
29:00なんで中道というものをおときになったのか
29:04今言ったような
29:06うでもない、無でもない
29:08あるいは、うがある、無がある
29:10それを超えた言い方というのは
29:12やはりかなり哲学的な言い方になるかと思うんですが
29:15そうですね
29:17先生にお選びいただいた仏典の中から
29:19実は何故に
29:22シャクソンが中道をとかなければならなかったのか
29:26ということを示した
29:28文例がございますので
29:30一つご紹介をいたしたいと思います
29:31世界は常住であるという見解があっても
29:38また、世界は常住ではないという見解があっても
29:44しかも、生あり、老いあり、死あり
29:48憂い、苦痛、嘆き、悩み、もだえがある
29:54私は今、間のあたりにこれらを制圧することを説くのである
30:00マッジマ・ニカーヤ、中部経典と
30:03普通訳されている経典でありますが
30:06先生、ここに世界は常住だとか常住でないというのが
30:08有と無の今のことだろうと思います
30:11そうですね
30:13有と無の対立を世界の問題に当てはめると
30:16そういう議論になると思います
30:18ところが、有とか無とか議論したところで
30:21結局、私どもにとって一番大切な
30:24いかに前向きに生きていくかという
30:27つまり、生老病死をはじめとした
30:29憂い、苦痛、嘆き、悩み、もだえ
30:31悩み、もだえ、そうしたものがあって
30:34それとは関係がないではないかというような
30:37ニュアンスがここにございまして
30:40むしろ、そうしたものを目の当たりに制圧することを
30:44私は説くのだと、シャクソンはこうおっしゃるわけなんですが
30:47そう思いますね
30:49当時、世界についてもいろいろ
30:52鉄人たちは施策を行いまして
30:56対立した見解があったわけなんです
30:58この世界といいますか、宇宙というものですね
31:00これは永久に存在するものか
31:03あるいは、ある場合に消えてなくなるかということですね
31:07あるいは、宇宙は広がりが無限にあるものであるか
31:14あるいは、どこかで限られているかということを
31:18論議していたわけですが
31:20現代の天文学だっていろいろ専門の大化が論議しておられました
31:27この世界は有限かどうか
31:31例えば、最初にビッグバンなんていうものがあって
31:34宇宙が現れたかどうかということを言われます
31:37やがては、ブラックホールに飲み込まれるとかどうか
31:40けど、我々は素人というのは分かりませんから
31:45所詮そういう議論は専門家に任せておいて
31:48我々の命というのはもう限られていまして
31:52何億年も生きることはないんですから
31:55それよりも、与えられた命、この寿命、この生涯を
31:59いかに生きるかということ
32:02それが寛容な問題であると
32:06だから解決できない問題には今すぐとらわれるなと
32:11まず、命名の人がどう生きたらいいかということを
32:14それぞれ考えようではないかというのが出発点であります
32:18釈尊は、そうした解決のつかないような問題、問いを発せられると
32:26お答えにならなかったということを聞いております
32:30つまり、それに対してイエスかノーかと言って
32:34返事を迫られたときに、釈尊は答えを与えられなかったと言うんです
32:39それを仏典では無記と申しますが
32:42記すことなしと書くんですね
32:44二つの対立した意見が、あるいは命題があったという場合に
32:52どちらでもないと言うんですね
32:54それから離れているわけです
32:56確かに、今、先生、ビッグバンとか
33:00現代の天文学のことをおっしゃられたわけですが
33:03確かに、現代に生きている私どもとしましてですね
33:08宇宙がどうなっているのかとか、終わりがあるのかとかないとか
33:12それは一つの知識として、関心がないと言えば嘘になるので
33:18知識としては、どういうことになっているんですかと
33:21本を読んだり聞いたりするんですけれども
33:25実はそれを言ったところで、私どもで結論が出るものでもなし
33:29宇宙が変わるわけでもないですからね
33:33専門の学者の方でさえまだ結論がきっと出ていないようなことでありましょうし
33:38ただ、一つはっきりしていることは、そうしたことは
33:42いわば、私どもの知的なお楽しみとしては
33:46会話になるけれども、自分がいかに生きていくかということに関して
33:50あまり問題になりませんし、むしろもっと別に重要な
33:56そちらの面で考えていくべきことがたくさんある
34:00いや、百尊がそうした問題にお答えにならなかったという意味は
34:05むしろ、はっきりした答えを出せないではないかということ以上に
34:11そんなことに余計に頭を使うなというお示しもあったのでございましょうかしら
34:20そう思いますね。どちらに対しても答えを与えないというのは
34:26ただ逃げたという意味じゃないんです
34:31西洋の人は、そういう立場を最初は理解しがたかったと思います
34:36アメリカ人で、パーリ語の仏典を翻訳しました
34:42ワレンという人が翻訳しながら、その中で書いたんです
34:46これは西洋人にはちょっと理解しがたい態度かもしれない
34:50ムッキーというのは、しかし考えられないことはないと
34:53例えば、ある人が、面と向かって
34:58君は君のお母さんを殴ったことがあるかいと
35:01こう聞いた場合に、そんな失礼な答えには返事をしないだろうと
35:06返事をしないということは、やっぱり西洋にだってあるんだって言うんですね
35:11なるほど、面白い例でございますね。なるほど
35:14私がね、これ面白いと思いまして
35:17アメリカの大学でちょっとそれを申し出したんです
35:19そしたら学生が手を挙げて申しますね
35:21いや、あなたのお母さんをと言うと
35:24あなたの奥さんをと言ったほうが、もっと我々には響く
35:29そう言って笑ったことがあります
35:31なるほど、はい。
35:33あなたのお母さんをとか奥さんを
35:36そうした失礼な質問に対して答えようもないという
35:42やはりそこに単に答えが出ないよということ以上に
35:46そこに一つの姿勢が示されているわけなんですが
35:50はっきりした。それは哲学的立場と言えると思います
35:53そうしますと、釈尊の一番、そうした哲学的な
35:59有とか無とか、そうしたもののこだわりを捨てて
36:02そういう質問には答えずに、一番力を注がれたのが
36:08先ほど読んだところにございましたけれども、生老病死の問題
36:14そうです。この生老病死ということは
36:17これはもう人間にはつきものでしてね、人間の生存の本質的なものだと思うんです
36:23それを逃れることはできない。だからそれに対して我々が
36:27どういう立場をとって、どのように生きていったらよいかということが
36:34釈尊の関心事であり、それが教えとなったわけですね。
36:41釈尊が出家されたのも、人生の不安、苦しみを解決するためと
36:48言われておりますし、おそらくそうであろうと思いますけれども
36:52人間というものが必然的に人生生きていく中に
36:57いろいろな悩み、苦というものを避けることができないものとして
37:02いろいろ抱えていますですね。
37:03それはもう人間が生きている限り避けることはできない。
37:07じゃあ他の人だって同じじゃないかと。そこで人に対して
37:11この言葉を持って説くということが始まったわけですね。
37:14いろいろに四苦八苦というものに関して
37:21釈尊は、いかにして苦というものを克服していくかということを
37:27説かれたということなんですよね。
37:29そういうことだと思います。
37:30先ほどの仏典の中で、
37:35老いとか、生あり、老いあり、死あり、憂い、苦痛、
37:41嘆き、悩みもない、
37:43一つ一つの、読み過ごしてみると何でもないんですけれども
37:47私どもの毎日の生活に当てはめてみますと
37:51それぞれに思い当たるような、いろんな不安があって
37:55仏典ではそれを四苦八苦とまとめて説くんでありましょうけれども
38:00その解決の道が中道であると。
38:05ですから、有とか無とか、世界上流とか上流でないとか
38:10そうしたような監視はもうどうでもいいと
38:13むしろそっちの方に中道を歩むことを
38:18心がけるべきであると。
38:20こういうことかと思うんですが
38:23先生、具体的にですね、その
38:26人生の不安、苦というものを
38:30どのようにして解決したらいいのかと。
38:34どういうふうにしたら中道を歩むことになるのか。
38:37仏典の中から一つ、読ませていただきたいと思いますので
38:42どうぞ。
38:43またそれをもとにいろいろお話を伺いたいと思います。
38:48中道とは、それは八子の聖なる道である。
38:54いわく、聖見、聖子、聖語、聖号、聖名、聖精神、聖念、聖情である。
39:05これが人格を完成した人の悟り得た中道であって、
39:11これが目を開き、地を生じ、涅槃に赴かしめるのである。
39:16これも三由田、仁川屋からでございます。
39:20いわゆる八聖道と普通に言われておりますものが、
39:24それが中道なんだというふうにここで書かれておりますんですが、
39:28先生、八聖道の聖見、聖子、いか、ちょっと難しい言葉が並んでおります。
39:35そうかもしれませんね。
39:36ごく簡単にこの辺からお話をいただきたいんです。
39:40町道というのが、ちょうどピタッと肝心、カラメのところに当たる道だということになりました。
39:51それを正しい道とまた別に言うわけです。
39:55正しいというのは、ある意味で完全な生き方と、
40:00元の言葉では解することもできるのです。
40:03それを具体的に我々の生活に当てはめてみますと、
40:10仮に八つ立てるというんですね。
40:12これもある時代にまとめて言われるようになったんですが、
40:17正見というのは正しい見解ですね。
40:20それから、正視というのは正しい思いです。
40:23何々しようと思うというその思いですね。
40:27時には正視の思いを志という字を当てて、
40:31訳していることもございます。
40:34それから、正語というのは正しい言葉。
40:39それから、正語というのは正しい行いです。
40:43語というのは行いのことです。
40:45それから、正明の明というのは、これは生き方、生活法のことです。
40:49それから、正精進というのは勤めることですね。
40:54だから、正しい勤め、正しい努力ですね。
40:58少年というのは、正しく心を向けること。
41:06そして、その結果、心が統一するのが症状であります。
41:16一応、そのように返せられるのでありますか。
41:18先生、今、8つございましてですね。
41:22一番最後の、5番目、6番目でしたかね。
41:27正しく努力するというのは、
41:29一つの努力して生きていくという姿勢ですからも、
41:31それはそれでよろしいですね。
41:33最後の、正念、正しく思いを向けると先生おっしゃられました。
41:38それから、症状が心の統一。
41:42これは、それなりの一つの努力といいますか、
41:47修行のかなり大きな特目になるんですが、
41:50その前の5つというのは、正しい見解、
41:54つまり、よこし間違ってない、
41:57いろんなことについて正しい考えを持ちなさいとか、
42:00正しく考えなさいとか、正しく口を聞きなさいとか、
42:04正しく行いなさいとか、正しく生活をしなさい。
42:09これはもう、宗教的な生き方を心がけるとか、
42:14信仰があるとかないとかでなくても、
42:17社会、生きている人間にどうしても関わってくる生き方、
42:21生活の必然的な体、心の動き。
42:25そういうことになりましたよね。
42:27誰でも本気に考える人だったら、
42:29こういうことからに関しては異論はないと思うんです。
42:31ただ、現実的にですね、
42:35それをどう生かすかということになると、
42:39いろいろ問題も出てきました。
42:42ごく普通の生活のさまざまなことを、
42:49正しい方向で心がけて、
42:51そういうことになりますね。
42:52ということで、それが先ほど来ずっと受けたまってまいりました、
42:56中道という、
42:59真実というものを踏まえ、
43:01肝心なポイントを抑えた生き方そのものなんだ。
43:05何ですか、この中道を生きようとか、
43:08中道を実践といいますと、
43:10とてつもなく難しいように思うんですけれども、
43:12今、こうした八正道のお話を伺っておりますと、
43:19ごく身近なものとして、
43:21どうも考えていかなければいけないんじゃないかと、
43:23そんなような気がしきりにするんですけれども。
43:25そうですね。
43:26一言でまとめたら中道になるんでしょうけど。
43:29けど、それを人間の生活のいろいろな面に当てはめて、
43:34分けて考えると、八つになる。
43:37別に最初のうちは、八つとまとめることもなかったようです。
43:42五つぐらいにまとめていることもありますしね。
43:44そこのところは、あまりこだわらなくていいと思うんですが。
43:48確かに、正しい生き方とか正しい考え方というのは、
43:51ある意味では非常に抽象的な言い方でございましてね。
43:54要するに、正しい生き方ですよって一つにまとめてしまえば、
44:00まとまらないわけでもない。
44:02それだけ八つに分けてきて、分かりよくやったんでしょうけれども。
44:09しかしそれでもなおかつ、
44:11あまり具体的に教えられているとも言えませんで。
44:18先生、もう少し具体的な生き方で、
44:22この八正道を、より具体的に展開した教え、
44:28解律の方とも関わるんじゃないかと思うんですが、
44:32もう少しその辺の、むしろ具体的にどうしたらいいんだというようなことを、
44:37もうちょっと教えいただきたいんですか。
44:39そうですね。
44:41今度、具体的にどのように実践するかということにつきましては、
44:46誤解とか、八歳解とか、あるいは十善解とか、
44:50いろいろまた分けて解かれるようになったわけですが、
44:54誤解というのが一番普通でしてね、
44:57仏教とたるものは、誰でも誤解を守るべきであるとされておりますが、
45:03その第一がですね、生き物を殺すなかれということですね。
45:08摂政とよく言われですね。
45:09摂政です。
45:12摂政なことをするなよということを、よく世間でも申しましょう。
45:16ひどいことをするなという意味ですね。
45:20生き物は、人間はもちろんいかなる生き物でも、みんな命を持っている。
45:26だからそれぞれの人、あるいはそれぞれの生き物にとって、
45:31一番大事なものは命だと言うんですね。
45:33だからそれを大事にせよと。
45:39人の生命を奪うということが、最大の悪であると。
45:50だから仏教では、殺してはならんということを言うわけです。
45:56そしてその殺す流れということをできればですね、
45:58人間に近いような獣でも及ぼそうとする。
46:04これが、何と申しますか、他の宗教と違ってですね、
46:14仏教の道場、慈悲の気持ちを及ぼす範囲が広いということが言えましょう。
46:21生き物に慈悲を及ぼせといったようなことがよく書いてございます。
46:26そうなんです。生き物に慈悲を及ぼすと。
46:29これは、ある意味で人間性に根際していることだと思うんですね。
46:35というのは、西アジアや西洋ではそういう思想がなかったわけですよ、昔から。
46:39ところが、やっぱり人類の文化が進みまして反省をするようになる。
46:46そうすると、近世になりますと動物愛護ということを言うようになったでしょう。
46:51今日は、ある意味では世界的な動きになってきますね。
46:55これはやっぱり人間というものは仏性といいますかね、
46:59仏の心を持っているわけですから、それに目覚めるようになったからだと思います。
47:06確かに最近は、本当に自然と共に生きるとか、自然を環境保護とか、本当にいろいろ言うわけですけれども、
47:19これは歴史的にどういうふうに解釈していいか難しいんじゃないかと思うんですけれども、
47:24確かに、今先生おっしゃいました通り、欧米といいますか、西の方の世界では、
47:31特に動物を愛護しましょうという姿勢が出てきて、愛護にしようという行為が行われてくる。
47:41東洋の方は、むしろ古い昔から、生き物の命を憐れんでいくといいますか、
47:53不必要に奪うことがないようにとか、そういう教えになるわけでございますね。
47:57歴史的には、南アジア、東アジアの方が、生き物を憐れむという、そういう伝統は強く、根強く続いてきたと思います。
48:10大昔のことは、これは知りませんけれども、やっぱり仏教だとか、ジャイナ教だとか、道教だとか、そういうものが広がりまして、
48:19我が国の神道だって、仏教の影響もあったでしょうけど、
48:26西洋のような残酷な犠牲を捧げるということは、ありませんでしたものね。
48:32今、誤解の中の、ことさらに生き物の命を取らないということで、ちょっとお伺いしてきたわけなんですが、
48:42こうしたことが具体的な一つの、あるべき行為、いわば努力目標として置かれていく。
48:51むしろそうしたことを、努力目標として置きながら生きていくのが、先ほどの正しい見解であり、正しい思いであり、正しい行為であり、正しい生活であるというふうにつながっていく。
49:05そういうことになると思います。
49:07今、生き物を殺す中でだけを申しましたけど、盗みをする中で、これはどの宗教でも説くことですね。
49:14仏教では与えられないものを取ってはならないと、そういう具合に解釈されています。
49:20それから、邪因を行う中で、これは男女の間を乱してはいけないということですね。
49:25それから、次は言葉に関することですが、偽りを語る中で。
49:32その他、仏教では、人を傷つけることを言ってはいけない。
49:38人の中を裂くようなことを言ってはいけない。
49:41罵ってはいけない。
49:43それから、飾っていってはいけないとかですね。
49:47いろいろ付け加えて解かれております。
49:51精神は同じことです。
49:52誤解という言葉でよく言われるんですが、
49:55でも先生、いつもこの誤解というのを私、考えますときにですね、
50:00生き物の命をことさらに奪わないということも、なかなかことさらにというのがつきますから、
50:08まだ救われるんですけれども、嘘をつかないなどということに至りましては、
50:13とてももうできようとも思えないわけなんで。
50:16これはね、多言的に事柄を考える必要があると思うんですね。
50:21人間はいろんな関係に置かれているわけでしょ。
50:25ある人を囲まっている。
50:27そこで悪者が来てですね、
50:29お前が囲まってるじゃないかって言ったときに、
50:32我々は何と答えたらいいかということになりますね。
50:36うっかり囲まっているということを言いますとね、
50:40そうすると悪者が本当に入ってきて、その人を殺すかもしれないでしょ。
50:43そういう場合には、やはりその人間の真実を実現するというところに
50:50重点を置いて処理すべきだと。
50:54人間の関係はいろいろあるわけですから。
50:56だから今ここでは自分が囲まっているこの人を大切にするということが
51:03最も真実の行いであると思えば、悪者を追っ払うためにですね、
51:11嘘を言ったってそれは構わないということになるんだと思います。
51:15じゃあ、極めて強情的にといいますか、
51:19言葉尻を捉えるような形で嘘をつくなというようなことではなくて、
51:24もっとその状況に応じて、その状況に応じての判断というのも、
51:31今、よかれと念ずるといいますか、自分の正しいと思う生き方を根底においてそれを守っていくという。
51:39人間としての誠を実現するということになりましょうね。
51:44そうしますと、誤解を実践するという大変難しい問題も同じようにそれを考えてよろしいわけではないですか。
51:51もうすべてどの戒律もそれに基づいて解決できるんじゃないでしょうか。
51:57そうでなくて、ただ文章として表れている戒律の項目だけをですね、
52:02ご主を大事にするんだということになると、本当の精神が失われる恐れなきにしもあらずですね。
52:11そうしますと、仏教でいう戒律というのは、決して言葉、法律がそうかどうかよくわからないんですが、
52:18その文言通りにというよりは、その精神を組み、趣旨を組んで、そして誠を通すという、
52:27私なら私、各自、みんなの自覚と言いますか、良心と言いますか、
52:34そうしたものに従いながら実践していく、そういうことでございます。
52:39そういう具合に今まで、我々の祖先は実践してきたんじゃないでしょうか。
52:46今、誤解のうちの4つまで申し上げましたがね、最後は酒を飲む流れというんですね。
52:52これまたなかなか難しい問題であります。
52:54前の4つはですね、それ自身が悪いことだと、競技学の方で解釈されている。
53:03ところが酒を飲むというのはですね、それ自身は悪いことじゃないけど、過ごすといかんで、
53:08だからその遮る戒めと言われているんです。
53:11あんまりどう過ごすなよというわけですね。
53:13で、南アジアは暑い国ですから、みんな本当に厳重に守っている。
53:18ところがネパールから北の方へ行きますとですね、その点がだんだん緩められて、
53:23日本ではご承知のとおりです。
53:26緩められているからと言って、それに暗示しちゃいけないでしょうけどね。
53:30けれどその風土なり社会生活の違いに応じて、適当に実践するということが必要になるんじゃないでしょうか。
53:40お酒に関しては、中国、日本は寒い国でございますのでね。
53:44そうなんです。
53:45そうした風土的なこともございましょうけれども。
53:47そうなんです。例えば、朝鮮のお坊さんなんて、戒律を厳重に守っていますがね。
53:51寒い時には、お酒を少々いただくのは許されているそうです。
53:56そうすると、我々が薬をいただくのと同じことになるんですね。
54:00寒くは薬を飲むような形でいただければよろしいと思いますけれども。
54:06そこで言動を置くべきでしょうね、やっぱり。
54:10今の先生のお話、とっても中道ということを考えるときに大切なことではないかなと思いながら伺っておりましたんですが。
54:23先ほどのお話で、うとかむとか、あるいは中道というものはこうだとかああだとかっていう、はっきりと決めつけるのは、かえって中道というものの趣旨に反すると。
54:37そうです。中にもとらわれるなということを仏典では教えているわけですから。
54:42しかしそれじゃ何をやってもいいかというと、そうじゃなくて中道という、やはり一つのはっきりしたものは。
54:48そうですね。
54:49それが一つの、先ほど、使用の道、肝心、要の道とおっしゃいましたが、ポイントを抑え、真実を抑えている生き方。
55:00しかもそれは、今の誤解の解釈でも本当にそうなんですが、一人一人の人間がそれぞれの立場において、誠を尽くしていくという、自分の心の中から出てくるものを基準にしながら努力をしていく。
55:19その意味で大変バランスを取った生き方を心がけよという。
55:24そうですね。いい表現なさいました。本当にバランスを取ることです。
55:28調和という言葉などもございます。
55:31調和ですね。
55:33時間もございませんから、ストーリー全部、ここで教えていただくのは難しいと思うんですけれども、
55:43インドにも楽器をもとにして、あんまり糸を張り詰めてもダメから緩んでも音は出ないという例がございます。
55:53そうですね。
55:54そうですね。
55:55ソーナという坊さんに向かってですね、釈尊が教えられたというんです。
55:59楽器の弦がですね、あまりこう、強く張っててもいけない。
56:05それからまたたるんでてもいい音は出ない。
56:08ちょうどその適切なところで、この張らなければいけないということを教えられた。
56:16その通りだと思います。
56:17中道ということをずっと伺ってきながら、結局現実の私どもの生き方の問題に本当に直結したものでありまして、
56:29先ほど両極端を離れると申しましたけれども、いろいろな意味で極端に走ることを自分で抑制し、調和を心がけていく。
56:40現代の私どもの生きている社会というのは、私自身なども含めていろんな意味でバランスの取りにくいといいますか、取ることの難しい世の中になっているとも思いますんですけれどもね。
56:55だから突き詰めて考えますと、命名の人の問題になると思うんですね。
57:01一律にはいかない面があると思います。
57:05この中道と申しますか、あるいは音楽に例えて言うと和ですね。
57:14それを命名の人が実現するということに帰着するんじゃないでしょうか。
57:19決してこれが中道ですよって言って、その法律のように1から10まで書いていて、それを文字通りの意味で守っていくということではなくて、
57:31あくまでも真実を踏まえ誠を通すという基本を抑えながら努力して生きていく。
57:38それが自ずと中道と言いますか、真ん中を正しい道を歩く生き方に通じていかなければいけない。
57:47むしろそういう生き方を心がけていくのが中道であり、その実践であり、仏教の教えと言いますか、東洋の心でもある。
57:59こういうことかと思うんですけど。
58:00そうですね。そういうことに帰着すると思います。
58:02中道ということでいろいろ伺ってきたわけでございますが、本日はどうも大変ありがとうございました。
58:07ありがとうございました。

お勧め

1:21:02