- 2025/6/16
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ライフスタイルトランスクリプション
00:00東洋の心を語るということで
00:04昨年の4月から毎月1回
00:07いろいろなテーマの中で
00:09お話を伺ってきたわけでありますけれども
00:12今月はその第10回になります
00:15テーマが三色症状心ということでありまして
00:20お話を伺います方は
00:22いつもの通り東方学院院長の中村はじめ先生でございます
00:27よろしくどうぞお願いいたします
00:29先生今日のテーマが三色症状心という
00:34山の姿がそのまま清らかな真実の表れであると
00:40言っていいのか
00:41あるいはその山の佇まいの中に
00:44真実の働きを見て取るといいますか
00:48いかにも清々しいお正月にふさわしいような
00:52テーマかと思うんですけれども
00:54先生その三色症状心という言葉の意味の方から
00:59一ついろいろと伺いたいのでございます
01:00三色症状心と申しますのは
01:05中国の詩人として有名な
01:08外おばの詩に出ている言葉に基づいて
01:13言われているのでありますが
01:15外おばと申しますのは
01:16もうよく知られていますけれど
01:18この中国の宗時代の詩人でして
01:21西暦で申しますと
01:241036年から1101年に渡っての人で
01:29中国のみなず日本にも非常に
01:33感化影響の大きかった人でございますが
01:35この人がですね
01:37自然世界の特別の宗教的哲学的意義を
01:47称えたと
01:48そこに宗教的哲学的なものを認めたと
01:53いうことで知られているのでございます
01:55自然の美しさを称えるというような詩は
02:00インドにもいろいろございます
02:02ただインドにおけるそういう趣旨の詩はですね
02:06どちらかと申しますと
02:08人間関係というのはうるさいもんだと
02:12人間から逃れて
02:14自然の景色の美しいところへ来て住むと
02:19ああいいなすがすがしいなという
02:22そういう趣旨のものが多いと思うんです
02:26ところが
02:27外おばの場合には
02:30それを一歩進めているんですね
02:33我々を取り巻いているこの自然の世界
02:37ここに目に見える山の色合い形姿
02:42これが実は仏様の清らかな身体が
02:48ここに現れているんだと
02:50そう言っているわけなんですね
02:52そうしますと
02:54自然というものをどう見ていくのか
02:57自然とどう付き合っていくのか
03:00ということはもう一つ言うならば
03:02積極的にどう生きていくのかという
03:05非常に積極的な生き方に関わる
03:07一つのテーマと申しますか
03:09そういうことになります
03:09そういう世界を言うかと思いますが
03:11まず早速に
03:13その外おばの
03:14この本日のテーマの元になりました
03:17外おばの詩をまずご紹介をいたしたいと思います
03:24京成すなわちこれ好調節
03:28三色あに正常心にあらずや
03:32やらい八万四千の下
03:35他律いかんぞ人に孤児せん
03:39なかなか綺麗な美しい詩でございます
03:42いい詩ですね
03:44これは昔から有名ですが
03:47禅の書物にも取り入れられておりまして
03:51俗伝統録の20巻の
03:54東馬古事章にも出ておりますが
03:57中国人には非常に訴えるところがあり
04:03さらに日本でますますもてはやされたわけです
04:07私ね前に台湾のですね
04:12南高尾っていうところがございますね
04:15あそこの最近できた大きなお寺に参りました
04:19そうすると山の上の高いところに位置していますが
04:26せせらぎの音が聞こえるんですね
04:28竹やぶんもあり
04:30樹木も茂っている
04:33そのそばにですね
04:34この詩の文句が書いてあったんです
04:37ということは今の中華民族でもですね
04:40この詩の精神をたたえているというわけですね
04:43特に今先生のお話の台湾のお寺ということで
04:50このそとばという方が
04:52総時代の大変な詩人であり
04:55書家でもあったわけでありますけれども
04:58非常に仏教にも造形が深くて
05:01確かこの今の詩も
05:03小学上層禅師という方に
05:07自分の仏教の悟りの境外を示して
05:12それでよしと言われた詩であるというふうに伝えられます
05:14上層禅師に提示したと言われておりますね
05:17その通りだと認められたというので
05:20非常に中華民族それから日本人には
05:23訴える詩なのであります
05:26先生ここにございます
05:27形成というのは谷川の水の音
05:30音ですそうです
05:31これが校長舌ということは
05:33校長舌というのはインド以来
05:35釈尊の32層の一つで
05:39釈尊が舌を出されると顔を覆うぐらい大きかった
05:44そうなんです耳まで達すると言われているんですよね
05:47それから転じてお説法が雄弁で
05:50素晴らしいことを言う言葉かと思いますけど
05:52そうなんです
05:52ですからこの詩は谷川のこのせせらぎを聞いても
05:57そこに仏様の説法の声が聞こえると言うんです
06:01そうしますと三色正常神ということは
06:06どういうことでございましょうか
06:08やっぱり趣旨は同じことになりますが
06:11谷川のあるようなこの山の姿ですね
06:17色形それが全てですね
06:22仏様の清らかな身体を表しているというのであります
06:30そのきっと外場がそこへ止まっていたんだと思います
06:35そうなんですよね
06:36その夜中からずっとこの谷川の水の音あるいは山の佇まい
06:43そうしたものが八万四千のお説法の言葉を発していると
06:48こういうことでございましょうか
06:49芸と申しますのは仏典でいう詩の文句ですね
06:53八万四千というのはたくさんのことを言う場合によく使うんです
07:00我が国でも例えば八万四千の法図を聞くもなんていうのは言葉が
07:06練乳証人の語文書なんかにもございますがね
07:10たくさんいう数値でございますが
07:14夜中からこう谷川のせせらぎ
07:19風の音を聞いていると
07:21そこに八万四千の教えを説いていらっしゃると
07:27外場はそう思ったわけですね
07:30あの谷川の水の音というのも普段必ず
07:35音が出ているわけでありますし
07:41山というものも当然最初からそこにあるわけで
07:45私どもしょっちゅうそれを見たり聞いたりしているんですけれども
07:49こういう外場のような受け取り方というのは普通はいたしません
07:54やはりこれは外場の仏教のお悟りの世界と申しますか
07:59真実を見通していく世界をいわば心でうなずいて
08:04一般の人には聞こえていながらその宗教的な意味がわからない
08:09外場はその自分の理解した心にうなずいた意味を
08:14こういう形で説いている
08:15そうですね自分がはっとこう打つものがあったわけですね
08:19心に響くものがあった
08:21それをですね他日いつの日かですね
08:24どういう具合にして人に誇示せんと他の人々にですね
08:28何として提示することができようかと
08:31もうただその
08:32宇宙の神秘に打たれているという
08:36そういう気持ちですね
08:38これは理屈で言って分かるものではなくて
08:42一つの宗教的な修行が積んできた
08:45その挙句の心境でございましょうから
08:49なるほどなかなか人に伝えるというのも
08:52難しいかと思うんですが
08:54しかし先生なかなか私ども
08:56この自然というものを素直に見ることは
09:00私どもいたしませんですね
09:02なんかこう
09:03自然が
09:06例えば春の後に夏が来て秋が来るとか
09:10谷川の水が流れているとか
09:12山があって風が吹き渡っていくとか
09:17そうしたようなことを何か
09:18人間の自分の立場から勝手な解釈をして
09:22いわば計らいを持ち込んで
09:24結局それが自然をそのまま
09:28あるがままに見てないということが
09:32あるように思いますんですが
09:33このね
09:34自然環境に対する
09:38対し方といいますか
09:41捉え方と申しますか
09:43インドの大乗仏教の哲学者も
09:47同じ趣旨のことは言っているわけです
09:49例えば大乗仏教の哲学者として
09:51有名なリュウジュ
09:53なんかあるじゃないですか
09:54あの人はこう言っているんですね
09:56如来の本性はいかなるものであるか
10:02如来の本体はすなわち
10:05輪廻の世界の本体であるとか
10:08あるいは世界の本体である
10:12世界と如来とは一つであって
10:15区別はないというようなね
10:17そういう抽象的な表現をしているわけです
10:20哲学的にはそれでいいんですがね
10:22けれど一般の人に訴えるときは
10:26もっと具象的なものを持ってきた方がいいわけですよ
10:29それで東アジアの国々ごとに中国とか日本ではですね
10:33京成三色というようなものを持ってくると
10:35ちょっとピンとくるわけです
10:37一つにはその東アジアの自然環境が美しいということもあると思うんですね
10:42そうだろうと思いますですね
10:44やはり西アジアからそちらに行きますと
10:52非常に自然が厳しいところですと
10:54自然の佇まいの中に清らかな真実が現れているというのは
10:59なかなか見にくいだろうと思います
11:00見にくいと思うんですね
11:01ところが日本人にはこれはピンときましょう
11:04だからその日本でことにもてはやされるんじゃないでしょうか
11:08そうした形で美しい自然の中で
11:12宗教的な人間とか自然の考察が
11:16おのずとそうしたものの中に真実の姿が現れている
11:21どうも私どもは人間の自我欲望を持ち込みますので
11:26その通り見ないんですが
11:28これは先生やはり釈尊以来から
11:33いろいろな表現は違うんですけれども
11:36人間の自我欲望
11:38計らいを持ち込まないで
11:41ものをあるがままに見ていくというのは
11:43やはりお釈迦さん以来
11:44やはり仏教の一つの伝統としてあるように思います
11:49そうですね
11:49非常に古い最初期の仏典から
11:54如実に見るということをしっきりに説いているんです
11:57ヤタブータンパッサティと
12:00元の言葉では申しますが
12:01あるがままに見る
12:03それもいろいろな意味合いがございまして
12:05この自然科学的な対象として
12:10事物をあるがままに見るという
12:12それももちろん説かれていることですが
12:15しかしそれよりも以上にですね
12:17人間の生きる姿
12:23人間の生き方をあるがままに見て反省するということを
12:30特に仏典では最初の時期から説いているのであります
12:35そうしたことをピタッと言い当てた
12:38仏典が一つございますので
12:39それを一つご紹介をしながら
12:43その辺のことをもう少し詳しく突っ込んで
12:45伺ってみたいと思いますけれども
12:48この世において知恵ある修行者は
12:54悟った人
12:56ブッダの言葉を聞いて
12:58このことを完全に了下する
13:01なんとなれば
13:03彼はあるがままに見るからである
13:06スッタニパータ202でございまして
13:10釈尊の言葉がたくさん含まれていると言われております
13:17最古の仏典の一つでありますけれども
13:19ここに先生あるがままに見るという
13:22先生実はそのあるがままって言葉はよく使うんですけれども
13:27本当にあるがままに見るっていうのは
13:30大変私難しいと思うんですね
13:32そう思いますね
13:33自然現象をあるがままに見るということは
13:36これは誰でも同じようにできることなんですね
13:39そこに差があることはないし
13:42またあってはならないんですが
13:44ところが人間に関すること
13:47あるいは自分が含まれている事柄について
13:51あるがままに見るっていうのは難しいですね
13:54これはやっぱり人間には
13:57自分を中心にして見たり考えたりするという
14:02そういう傾向があるものですから
14:04当たり前って当たり前ですけど
14:06その当たり前の家にまた難しいと思いますですね
14:10もうその春夏秋冬
14:12例えば日本で季節の移り変わりは
14:15もう動かしようがないのに
14:17寒い時ですと早くあったかい夏が来ないかと言いますし
14:21先日若い人に会いましたら
14:24スキー場に行ったら雪がなかったとかで
14:29怒って帰ってまいりましたけれども
14:32これは自然に対してやはり
14:35それなりの理由があったから雪がなかったのでありましょうし
14:38それを雪がないのはけしからんというのも
14:42やはりこれはあるがままには見ていないことだと思うんですね
14:45やっぱりどうしても人は自己中心に見て考えるようになりますし
14:50よく世間でも申しますが希望的観測というのがございますね
14:54こうありたいと願う
14:56そうするとそれが同時にそうあるという事実と誤認されてしまうわけですね
15:02よくあります
15:03私ども毎日の生活の中で
15:06私はこう思うとか私はこう見ましたとか
15:10いうのは結局人間の計らいを通してしかも見えない
15:15人間というのはどうもそんなものじゃないかと思うんですけど
15:18そうですねこれは仕方がないのかもしれませんけど
15:21と同時にそういう傾向があるということを
15:24いつも反省している必要があるんじゃないでしょうか
15:27やはり雪がないのに雪がないのはけしからんといったところで
15:32言うなればこれはないものねだりでありまして
15:35結局あるがままに見ないからないものをねだって
15:40そして欲求不満を起こして苦しんでしまうと
15:43生活の中の一コマあたりにかこつけて言うと
15:50どうもそんなことかと思います
15:51そう思いますね
15:52先生仏典の中でこのあるがままに見ると
15:56それじゃあ具体的にはどういうふうにあるがままに見ていくのか
16:01ということの教えがございますので
16:04まずご紹介をいたしたいと思います
16:07一切の形成されたものは無常である
16:14一切の形成されたものは苦しみである
16:19一切の事物は我ならざるものであると
16:24明らかな知恵を持ってみるときに
16:27人は苦しみから遠ざかり離れる
16:30ダンマパダ北九郷の中からの一節でありますけれども
16:36先生ここに全て存在するもの
16:42作られたものは無常である苦である
16:45そして我ならざるものというのは無我という言葉なんですね
16:50そしてこれ少しご説明をいただきたいんですが
16:52この三つの事柄はですね
16:55仏典の中ではよく出てくるんです
16:58ダンマパダばかりじゃございません
17:00最初の一切の形成されたものは無常である
17:07ありとあらゆるものは作り出されたものですね
17:10それには原因や条件がそこに働いている
17:15因縁によって作り出されたものですが
17:17だからこの原因とか条件が消えてしまうと
17:22なくなるわけですね
17:23だから無常です
17:25これを諸行無常というわけです
17:28諸行の行は作られたものを言うわけでございます
17:32具体的にはごく一般的な意味で存在するものは
17:36全てのものはといった程度で考えてもよろしいわけでございます
17:39全てのものについてそのことが言うるわけです
17:43当てはまるわけですから
17:44次に一切の形成されたもの
17:49作られたものは苦しみである
17:51これはですね
17:53いろいろと自分の経験するものというのは
17:59因縁により原因条件によって作り出されたものでしょう
18:02だから自分が作ったものじゃないわけですね
18:05自分がこうありたいと思ってもその通りにならないわけです
18:09思うようにならないということを
18:12仏典では苦とか苦しみとか言っているわけなんです
18:16なるほど
18:17具体的な何が足りないとかこれがないというよりも
18:21思い通りにならない
18:23そうです
18:23広い意味で言うわけですね
18:24広い意味で一般的な意味ですね
18:26それを訳す言葉が見つからないものだから
18:29それでもどこかという元の言葉ですが
18:32それを仮に苦と訳しているわけです
18:34思うようにならないということです
18:36そこから世間でいう苦しみも出てくるわけですね
18:39なるほど今最初に伺いました通り
18:43全てのものが原因と条件が和合することによってできていて
18:49もう本当に自然の必然の流れがあるわけで
18:53だから雪が降らなかったわけで
18:55それを雪がなんでないんだということは
19:00いわば思い通りにならない不満が苦をもたらしている
19:04具体的にはそういうことだと思うんですが
19:06こっちの自分の希望だけをぶっつけているんですね
19:10そうしますと
19:11そうしたことを明らかに見ていく
19:15同時に3番目に
19:17全てのものは我ならざるものという
19:20これは古い仏典によく出てくる決まり文句なんです
19:26我々が欲しいと思うもの
19:32あるいは嫌うものもですね
19:33思うにはならないわけでしょ
19:36なぜかというと自分ではないからだと言うんですね
19:39これらの事物は全て自分ならざるものである
19:42非我である
19:43我にあらざるものである
19:45そういう解き方が多いのですが
19:48と同時にそれが自分に属しているものじゃなくて
19:51やがては自分から離れて消え失せるわけです
19:57だから長い期間にわたって続く実体を持っていない
20:02中心本質を持っていない
20:05そこで無我という表現もよく使われるんです
20:09で処方を無我なんてことを申しますが
20:13最初は無我という言葉はですね
20:16我欲をなくする
20:19我心をなくすると
20:20そういう意味に使われることが多かったんですが
20:23それが哲学的な意味では
20:25非我も無我も同じような趣旨に帰着するわけであります
20:30でも哲学的には同じかもしれませんけれども
20:33生活実践という面から見ますと
20:36どんなものもこれが私のものですよって
20:41握りしめることができない
20:43どんなものでもこれは私ではないんですよ
20:47と言った方が分かりようございますね
20:49分かりと思いますね
20:51そう思います
20:53ことに原文を読んでますとですね
20:55こういう解釈が成り立つわけなんです
20:57そうしますと全てのものは移り変わっていくし
21:02それを無理に人間の思い通りにしようということで
21:09人間の儚いを持ち込んでいくと欲求不満に陥って
21:15苦しみをもたらすことになる
21:18だからこそあるがままに見るということが必要になるわけですね
21:23ということは自分の欲望を持ち込まないということが
21:26あるがままに見るということに連なっていく
21:29自分の欲望は欲望としてまたこのあるがままに見てですね
21:32次にそれに対してどうしたらいいかということを
21:37またあるがままに見たところによって考えると
21:40そういう道筋が必要ですよね
21:42そうなんでしょうね
21:43どっちみち私ども人間はこの自我欲望から離れることができない
21:47常に自己中心的であるとこれも当然のことなんですが
21:50それを見てそれに欠かずらわって引きずり回されると
21:54苦しみがいつまでも取れない
21:57そうです
21:57こういうことか
21:58だから入実に見るということが必要だというわけですね
22:00そしてそれが明らかな知恵で見るときに苦を離れる
22:05こういうことかと思いますんですが
22:08先生そういうあるがままに見ると申しますか
22:15雪がないときは雪がないときのように
22:19嬉しいときには嬉しいときのように
22:21から悲しいときは熱いときには熱いときのように
22:25それにそっくりそのまま見てとって
22:28それを勝手にああなれこうなれと言わない
22:33いわばあるがままに受け止めていくところに帰って
22:37生活実践の面ではいろんな厄介なことを
22:43克服していく道があろうかと思うんですが
22:45実はこれをちょっと先生から受けたまわりながら
22:50ふっと私中国の東山禅寺の
22:52これ有名な詩を思い出しというか
22:56雲水さんとのエピソードを思い出しました
22:58雲水さんが暑いとき寒いときどうやったら
23:03その暑さ寒さをしのげるかと聞きましたら
23:07暑さ寒さのないところへ行ったらいいじゃないかと
23:10そんなのはどこにあるんですかと聞いたら
23:14暑いときには体中を暑さで殺しちまえと
23:18寒いときには体中を全身を寒さで殺してしまえと
23:23こう言ったという全問答が
23:26全問答で有名ですけど
23:28漢字関西熱時熱災というんですか
23:30なるほど
23:30よく言われております
23:33これはある意味ではやっぱり現代でも当てはまると思うんですね
23:36この頃はだんだん機械文明が進歩しまして
23:41冷暖房完備というような生活に移ってきますけど
23:47しかし部屋の中にいるときは冷暖房完備でも
23:51どうしても外に出るわけですよ
23:53そうするとやっぱり寒かったり暑かったりするわけですよ
23:56所詮逃れることはできないですね
23:58それをあるがままに見て素直に受け取るということが
24:03やはり今でも必要じゃないでしょうか
24:05そうなんですよね
24:06冷暖房というのは外から暑さ寒さが来る
24:11これは暑さ寒さ
24:12人間の人生の暑さ寒さに置き換えてもいいと思うんですが
24:16暑さ寒さ
24:17冷暖房というのは外から来る暑さ寒さを機械の力で遮断してしまう
24:23私は楽になりますけど
24:25反面私は何もしないでいようという思想だと思う
24:29ところが暑さ寒さをあるがままに見るというときには
24:35冷房が効けばそれを使えばよろしいし
24:38効かない外を歩いているときは効かないんですから
24:40やはりそうすると寒いときあるいは暑いときに
24:45今外を自分はもう歩いて行かざるを得ないんだというのを
24:50状況を明らかに見たときに
24:53かえってその暑さの中寒さの中に飛び込んで
24:57むしろ暑いなと言って汗を吹き吹き
25:02胸だけは張って前を向いて歩いていく
25:04寒いときにも背筋をちゃんと伸ばして歩いていく
25:08あるがままに見るということは先生やはり
25:11暑さ寒さ苦しさ嬉しさを受け止めながら
25:16実はそれに振り回されずに前向きに生きていく
25:21そういう生き方をも含むわけでございます
25:24随所に首都なると思いましょう
25:26人生にはいろいろな事柄が起こるわけです
25:30避けることはできません
25:32今の暑い寒いというのは物理的な事柄ですけれども
25:38さらに人間の生活の中には
25:44好ましいこともあれば好ましくないこともいろいろ起きます
25:47それをすべて受け取って如実に見て
25:52そして自分がはっきりとした立場を打ち出す
25:55随所に首都なるということが寛容な生きる仕方ということになると思いますが
26:04なるほど
26:05先生そういうあるがままに見るというのが
26:10釈尊以来インド以来の仏教の基本的なものの見方であり
26:16同時に具体的な生き方にくっついてきているわけですが
26:20すごいことになると思いますね
26:22仏教の発展特に中国以降になりますと
26:26このあるがままに見るということが
26:29もっと宗教的な意味で
26:31ですけれども非常に積極的に現実を肯定していく
26:38人間を取り巻くすべてを
26:41どう見るかということに関わってくる傾向が出てくるように思いますんですが
26:47処方実装という言葉などが出てくるかと思うんですか
26:52そうですね
26:52処方実装というのは大乗物点にはよく出てくるんです
26:57その言語はいくつかありましてですね
26:59一定してないんです
27:00で割合に中国のクマラジュという翻訳層がおりましたですね
27:08法華経なんか翻訳
27:09あの人の書物の中によく出てくるんです
27:13で言葉の意味としてはですね
27:19処方ありとあらゆるもの
27:21それの真実の姿ということですね
27:25それを処方実装というわけです
27:30でこれをその見極めて
27:32自分で生きていけということが教えだと思います
27:37先ほど本日のテーマの元になりました
27:42祖遠場の詩でございますけれども
27:44谷川の水はお説法じゃないかと
27:47山の佇まいのその姿は
27:50清らかな釈尊の姿ではないかと
27:55いうこともその普通のごく様々な自然の佇まいの中に
28:02真実の働きを見ていくわけで
28:04これもやはり処方実装の一つの
28:07同じ世界にあると見てよろしいですか
28:10その処方実装というのはありとあらゆるものの真実の姿
28:15つまり真理ということになりますので
28:17だからこの三色象徴心ということも結局そこに希釈することになると思います
28:27確か先生がアメリカの哲学者のノーマン・プリニー・ジェイコブソンという方との話の中で
28:39確か先生がおっしゃったんですが
28:40ジェイコブソンさん先生がおっしゃったんですが
28:44そういう仏教というものはごく普通の自然の在り方の中に
28:50宗教的な価値を見出していく立場であるというようなことを
28:55確かちょっとおっしゃっていたように記憶があるんですか
28:57そうですね
28:57そういうことをはっきり言われた方もおられると思います
29:02日本でも道元禅師は処方実装という言葉の意味を突き詰めて考えられまして
29:10実装が処方なりとそう言っておられましょうあるところでは
29:15つまり真実の姿というのはどこにあるんだ
29:18我々に現れているこの現象世界それが真理の姿
29:24自然環境に当てはめていますと谷川のせせらぎもですね
29:30それから山の美しい佇まいも全て真理の姿であると
29:38そういうことになるわけです
29:40道元禅師のお言葉の中にこの千賀大地
29:44みな仏性界なりというのも一つございました
29:47そうですね
29:48仏性というと仏となり得る可能性ということですかね
29:53言葉の意味は
29:56我々が生きているこの山とか川とか大地
30:02これも実は仏の本質がそこに現れているんだと
30:08我々は気づきませんけどね
30:11しかしよく考えてみるとそこに仏様が現れているんだと
30:17いうことを説かれたわけです
30:20なかなか私どもは今先生もおっしゃいましたようにそれが気づかないんですけれども
30:25しかし仏教の伝承というものは
30:30やはりその仏教を続けてきた
30:33釈尊なりお祖父さん方がそれを気づいて
30:37うなずいてそしてこういう言葉にもなってきて
30:42それが真実を踏まえながら生きていく道ですよと
30:46教えられてきているんだろうと思いますんですが
30:49先生新蘭承認もこれは有名な
30:53次年法二という教えがございまして
30:55次年法二というのはですね
31:01新蘭承認が説かれましたけれども
31:04大無量寺教なんかによく出てくるんですね
31:08元のインド仏教について見ますとですね
31:13自然という観念が少し違っておりまして
31:18次年下道というのがありますが
31:23自然と書きましてこれ次年と読むんですが
31:26下道それは何かと言いますとですね
31:28もう我々が何やってもしょうがないんだと言って
31:34因果の断りを否定する人たちを言うんです
31:38つまりいいことをすれば良い報いがある
31:41悪いことをすれば悪い報いがあると
31:44その他そういうような道理がありましょう
31:47それを全部否定してしまう
31:50そんなことに欠かされてしょうがないよと
31:52いう具合に考えて生活する人たち
31:56それを自然下道と言ったんです
31:59だからそういう考え方は
32:01インド仏教では知りづけられています
32:06ところが大乗仏典が漢訳されますね
32:13漢文に訳されます
32:14その場合にですね
32:16ことに大無量寺教には
32:17自然ということが非常に多く出てくるんです
32:20これはですね
32:22もともと中国の道教で強調する言葉です
32:27道教ではもう無理をしないでですね
32:32自然の言葉に従って生きようということを言っております
32:35そうするとそこでですね
32:38仏教が変わってきたかと思われるかもしれませんけど
32:42必ずしもそうじゃないんですね
32:44そのインド仏教で自然下道を排斥した場合には
32:50知りづけた場合には
32:51日常の生活のレベルでですね
32:56投げやりなことはいけない
33:01道理を考えて生きようということを言ったわけです
33:08ところが大乗仏教になりますと
33:12その我々の日常生活の基づいて成立する
33:17もっともとを考えるようになった
33:19そこに中国の道教以来使われてきた
33:27自然という言葉を生かしてきたわけです
33:30つまり我々はどこまでもなすべきことをなし
33:34なしてはならないことをなさないように
33:37絶えず努めております
33:38それはもう当然のことですが
33:42それは人間がなし得る領域においてのみ
33:49成り立つことなんです
33:50けれど我々の人間というものは
33:54もう気づかないところでですね
33:56大きな力に生かされているわけでしょ
34:00我々がこうして生まれてきた
34:02どうしてかって分かりませんわね
34:06それから生きているでしょ
34:07食べ物を食べるからってあってですね
34:11それだけじゃ生きていくことはできません
34:13やっぱりその目に見えない力に生かされて生きているわけです
34:19そしてやがて消えていくという
34:21これもですね
34:22もうそのようになっているんですね
34:25目に見えない力に動かされている
34:29その大いなるもの
34:33そこに目を向けると
34:37この次年法にという考え方が出てくるわけです
34:40全てをお任せすると
34:42結局それもあるがままに
34:47全てのものを見ていくという
34:50そうです
34:50人間の自我計らいを持ち込まずに見ていく
34:53そういう姿勢に連なるかと思いますが
34:55その次年法に
34:57そして同じような趣旨でありますけれども
35:01道元
35:01新蘭承認制から道元禅寺の
35:07お言葉を少し続けてご紹介をいたしたいと思いますが
35:11次年というは
35:14次はおのずからという
35:16行者の計らいにあらず
35:18しからしむという言葉なり
35:21念というはしからしむという言葉
35:24行者の計らいにあらず
35:27如来の誓いにてあるがゆえに
35:30次年法二章というものでありますが
35:32先生ここに今の先生のお話のように
35:36次年というのがおのずからということで
35:41そうですね
35:42人間の計らいによって移り変わったり
35:46あるいは勝手な解釈をして
35:48どうとかできるものではないと
35:50すべてがおのずから真実の働きを表している
35:54それが如来の近いなんだと
36:00いう一つの宗教的なうなずきの世界
36:03宗教的な目を通して見た受け止め方
36:07そうですね
36:08今お読みいただいた文書は
36:10新蘭聖人の言葉ですがね
36:12末等賞の第五通ですが
36:15また三条和産の一番最後のところにも
36:18ほぼ同じ趣旨のことが述べられております
36:20もう我々の計らいを超えた世界がある
36:25それを新蘭聖人は如来様と呼んでいるわけですが
36:30そこにまで思いを馳せる
36:34これは最初期あるいはインドの仏教が
36:42次年下道を退けたのとは
36:45次元をことにする
36:47つまり次年という言葉を構造的に理解する必要がある
36:55同じ平面の上に置いて考えますとね
36:58そうするとインドで退けたものを
37:01なぜ中国日本の仏教で肯定したかって
37:05おかしく思いますが
37:07そうじゃないんですね
37:08人間の生存というものを考えますとですね
37:12いろいろな場面があり領域があるわけですね
37:15だからその異なった領域に属する事柄であるということを
37:21理解しますとですね
37:23そうするとその趣旨がすべて生きてくることになると思います
37:27やはり同じ次年といっても使われている意味が違いますし
37:32使われる状況によってのものでございましょうからね
37:38自然科学なんていう場合の自然ですね
37:40天地自然というのは
37:41それはまた違うわけですね
37:42どこまでもフィジカルな自然ですか
37:46決してそのあるがままに存在しているものの
37:49ありようを自然と言っているわけでございましょうけれども
37:54自然科学という時の自然は
37:56むしろ英語のネイチアにあたるわけですから
37:59ものそのものを物理的に見ているだけでございますね
38:02似たようなことを道元禅師もおっしゃっておられますので
38:06ご紹介をいたしたいと思いますが
38:09事故を運びて万望を首相するを迷いとす
38:15万望を進みて事故を首相するは悟りなり
38:19消防現像現状公安の巻の一節でありますけれども
38:24これはね全くこの驚くような発言ですね
38:28普通その浄土経は他力であると
38:31それから禅は自力であるとそう言いましょう
38:34しかしここに言われたこの道元禅師の言葉
38:37これは他力じゃないですか
38:38全くそう思いますですね
38:41ですから新蘭商人のおっしゃる他力も
38:44それから道元禅師の系統がよく言われる自力というのも
38:49結局自我計らいを持ち込まない
38:52それを超えたところにこそ
38:55ものの真実の姿を見ていくということに関しては
38:59同じなんでございましょうかね
39:00そう思いますね
39:01で他力という言葉もですね
39:03非常に誤解を招きやすいと思うんです
39:06ここにこのささやからつまらない事故があると
39:10それに対するただというとですね
39:12同じ事件のものなんでしょ
39:13けどそうじゃなくてそれを超えたものということなんです
39:16言葉で言いがらしようがないもんだから
39:18浄土教の方は他力という言葉を仮に使っただけなんですね
39:22これ事件をことにするということをやはり理解する必要があると思います
39:27やはり先ほど来いろいろお話を伺っていることとの関わりで言いますと
39:37先ほど先生暑い時の道を歩いていくということをおっしゃったわけでありますけれども
39:43今先生おっしゃいましたように暑い時にクーラーは効かないわけなので
39:48暑い時にクーラーを道を歩いていて
39:52クーラーもないのにクーラーをかけようというのは事故を運びて
39:57まんぼう全てに近寄っていく迷いの立場ですし
40:02そういうことになりますね
40:03暑いものは暑いんで今はクーラーのないところで歩いていくんだから
40:08その暑さの中に飛び込んで汗が出てきたら
40:12吹き出てきたら吹きしながら胸を張って歩いていくところに
40:17すなわちまんぼうの方から事故を包み込むところに悟りがあると
40:22大変道元禅師のお言葉を大変俗な形で解釈しちゃうと
40:27分かりやすく言われるわけですね
40:29そんなことじゃないかと思うんですが
40:32インドにも先生やはりあるがままに
40:39理法を見ていくのが素晴らしいという教えがございます
40:43最初の時期からそのように述べられておりますね
40:46インドではどういう形で解かれているのか
40:49それをまずご紹介をいたしたいと思います
40:51ばっかりよやがては腐敗して朽ちてしまう
40:58私のこの肉心を見たとて何になりましょう
41:01物事の理法を見る人は私を見るのです
41:05また私を見る人は物事の理法を見るのです
41:10実に物事の理法を見ている人は私を見ているのであり
41:16私を見ているものは物事の理法を見ているのです
41:21三言った二カーヤでありますけれども
41:25これは素晴らしい言葉だと思いますね
41:27こういう言葉を発せられたそのゆかりを申しますとですね
41:35ばっかりという修行僧がもう年をとって
41:38やがて自分の身は消えてなくなるだろう
41:45ただその前にですね
41:47お釈迦様に一目お会いしたいということを言った
41:51シャクソンが見舞いに行かれたんですね
41:54その時の言葉なんですよ
41:57つまりシャクソンにお目にかかると
42:02それはどういう意味か
42:03シャクソンは別に要望が美しいからとかですね
42:08形が見事だからというので
42:12偉いわけでもたっというわけでもないと
42:15人としての理、道理、理法ですね
42:20それを具現しておられるわけなんです
42:22だからシャクソンに会いたいと思う
42:26その気持ちで
42:27本当の人間の真理というものを
42:31仰いだらいいではないか
42:32私の肉体だってやっぱりこれ消えていくものなんだ
42:38だからお互いにこの本当の人間の真理
42:42本当の生き方を実行するということでよって
42:47シャクソンとばっかりとが結ばれるわけですね
42:50それは押し広げますとですね
42:53あらゆる人の場合に当てはまることだということになるんです
42:59シャクソンという方が仏教を始めたから偉いとか
43:05教団のリーダーだからどうということよりも
43:09もちろん実際的には人間的な尊敬ないし
43:13愛情というのはもろんあったに違いないんですが
43:16今の話の本質というのは
43:19シャクソンという方が真実を身に対して
43:22働かせている方だという
43:24大切なのはその真実というものを
43:27働かせていくというところには
43:29こういうことでございます
43:30そういうことになると思いますね
43:32それはシャクソンという方は
43:36その後2500年にわたってアジアの人々から
43:41仰がれるようになったんですから
43:42個人的にもきっと偉い方であったに違いないんですが
43:46ただ本当に偉いと言われるところはどこにあるか
43:50人間の真理を明らかにしたというところにあるのですね
43:54その人間の真理はいかなるものであるか
43:58そういう問題が次に出てくるわけです
44:00これいろいろ解き方がございますが
44:03一番特徴的なのは縁起の断りですね
44:07つまりあらゆるものはお互いに寄り合って作られていると
44:13主事の原因条件によって作り出されている
44:17人と人の関係もですね
44:20普通一般に考えられていますのは
44:25個人個人がみんな別の存在だということですね
44:28それを強調するわけです
44:30けれど目に見えないところでですね
44:32人々はお互いに目に見えない因縁によって
44:36結びつけられているわけです
44:37縁があるわけですね
44:40その縁を大事にしようと
44:43そうすると自分が生きているというのも
44:46自分個人で生きているわけじゃなくて
44:48多くの人々に助けられて生きているわけです
44:52現在ここに生きている世の人々に助けられているばかりじゃなくて
44:58もうすでに消えてしまった
45:00亡くなってしまった
45:02祖先の気持ちとか力というものが
45:05今明々の人の中に生きているわけです
45:09個人は非常に小さな微小な存在であるけど
45:14その中に偉大な宇宙が含まれている
45:17そこまで思いを馳せますとですね
45:20おのずからこの人々のために働くという
45:23その気持ちが起きてくるということになりましょう
45:28そうした今おっしゃったようなことが一つの理法だし
45:34それが具体的な生き方に本当に連なってくるんですが
45:39なかなかそれを私どもはあるがままに見ないわけで
45:43ですからそれを何とかやめてですね
45:47やはりあるがままに見るのが理法を見ることだし
45:52ということはそれを真実を生活の中に働かせていくことだし
45:57そういうことになります
45:58そういう形で人間私なら私というものと
46:02自分を取り巻く全ての環境との関わり合いを求めていくということかと思うんですが
46:09そうしたことを道元禅師と両官さんの言葉が大変美しい歌がございますので
46:21ご紹介をしてまたお話を伺いたいと思います
46:24まず道元禅師のお歌でありますけれども
46:29峰の色谷の響きも見ながら
46:32我が釈迦森の声と姿と
46:36これは先ほどの外馬の詩と一脈相通ずるものでございますが
46:45そうですね
46:45外馬の詩は何て言っても漢文ですからね
46:49だから当時の日本人にはまだ良し良しいところもあったと思うんです
46:53教養のある人は別ですけど
46:55ところが道元禅師のこの歌は三書道絵の中にあると思うんですが
47:01本当に自分の身にこなしてですね
47:05その精神を生かして読まれたと
47:08そういう気持ちがします
47:09やはり自然の佇まい全てに真実の働きを見ていく
47:16それを仏の声であり仏の姿を見ているのでありましょうけれども
47:21実に的確に精神を生かしておられると思いますね
47:25続きまして良漢さんの歌でございますけれども
47:31片見とて何残すらん春は花夏ほととぎす秋はもみじば
47:40いかにも良漢さんらしい
47:43自分の身の回りの自然の移り行きの中に
47:50真実の働きを迷っているもののように思いますんですが
47:53これも良い歌ですね
47:54禅の精神を非常に我々に身近なところで
48:00生かして歌っておられると思うんです
48:02趣旨から申しますとね
48:05その中国の無文館の中に出てくる詩があるのです
48:12趣旨は同じですけど
48:14それをご紹介しますとですね
48:16春に百花あり秋に月あり
48:19夏に涼風あり
48:21涼しい風あり
48:22冬に雪あり
48:24もし漢字を浸透に隠ることなくんば
48:28すなわちこれ人間の好事説って言うんですね
48:32自然の移り行きが美しい
48:35もしも人間がつまらないことをですね
48:40心にかけることがなければ
48:42もう全て人間の良い事説であるって言うんですね
48:45それと同じ趣旨のことを言っておられるんですが
48:49ただやっぱり無文館の詩はですね
48:52中国の暴漠たる風土から出てきたものになっています
48:58だからそこへ出てくるのはですね
48:59春には百の花があると
49:02それから秋には月が照らしていると
49:07それから夏には涼しい風がせーっと吹いてくると
49:11冬には雪があると
49:13いずれも雄大な景観を連想します
49:17ところが涼寒さんの場合ですね
49:22それを自分に当てはめているわけですね
49:25涼寒さんの言葉にはですね
49:28春は花でしょ
49:29夏ほととぎす
49:31秋はもみじばと
49:32本当にですね
49:33もう牙ってもいないし
49:36我々にも近づきやすい心境だと思うんですね
49:41なんかいかにも日本人
49:44涼寒さんらしいと言えば確かにそうなんですが
49:47それと同時に中国の人と日本人との
49:51やはり物の考え方の違いみたいな
49:55情緒のあり方の違いのようなものを感じます
49:59そうですね
49:59日本人の情緒感と言いますか
50:01心理感と言いますか
50:02それに訴えるものがあるんです
50:03あるがままに見る
50:08そしてあるがままに見ていくと
50:12縁起のことわりに従って
50:14いろいろ移り変わっていく
50:17全てのものが真実の
50:21常に真実を働かせながら
50:26存在し続けているではないかと
50:28そういうことを伺ってきたわけでありますが
50:30そうしたことを非常にまた
50:33生活の場の中に踏まえながら
50:36ズバリと言いのけた詩がございます
50:40本日はソトーバの詩で始まったんですが
50:43最後もソトーバの詩で
50:45また締めくくりたいと思うんですが
50:47ご紹介をいたしましょう
50:49ロザンは縁雨 石膏は牛を
50:53未だ至らざれば先般恨み消えず
50:58至り得て帰り来たれば別人なし
51:02ロザンは縁雨 石膏は牛を
51:05ソトーバの詩と伝えられておりますんですが
51:09先生この詩は最初の句と
51:12最後の句が同じなんですよね
51:14同じだということがまた
51:15非常に深い意味を持っていると思うんです
51:17天下の絶景としてですね
51:20中国で称えられているの
51:22ロザンの縁雨ですね
51:23ロザンは後世書にあります
51:25昔から仏教の聖者の
51:30住んだところとしても有名ですが
51:33そこにはですね
51:34煙のような霧雨が
51:37称えられているんです
51:39それから石膏はですね
51:42高潮が寄せてくると
51:46これも特別の景観だと言って
51:49称えられている
51:51まだ見ないうちはですね
51:54どうなんだろう見たいなと思って
51:57長い間その心に
52:00一種の望みを託していた
52:05それが実現されないうちは
52:08恨みとなっていたわけですね
52:09それがなかなか消えなかった
52:12けれども自分がそこへ行ってですね
52:15自分で眺めてみると
52:17なんだ別のことはない
52:19別人なしですね
52:20なるほど
52:22この通りロザンは縁雨
52:25石膏は後ろだと
52:27つまり元いた自分から
52:31ここを出て高いものを目指す
52:35そこまで到達して振り返ってみると
52:38やはり元の自分がここにあるんだと
52:42形はちょっとも変わっていない
52:46自分の体も少しも変わっていない
52:49ただ心がですね
52:51その偉大な展開を経て
52:54また元へ戻ってきたということが言えるんですね
52:57人の最初の句のロザンは
53:00ぼっと霧雨にけぶっている
53:02石膏には後ろが押し寄せている
53:06これはごく普通の私どもの日常生活の場で
53:10そういうことがあるみたいな
53:12どういうものかという
53:13いろいろこうあるがままに
53:17見る以前にいろんなものを持ち込んでいる見方
53:20ところがひとたび行って
53:23そうしたものの本当の姿を見て帰ってきたときに
53:27やはりロザンは霧雨がぼっとしていて
53:30石膏には後ろがあるという
53:32同じ言葉ですけれども
53:35それを受け取る精神の次元がかなり違っているわけですね
53:40そうです
53:41それを痛感して
53:44しかも何ら異なったところはないということを
53:47この外側は言っているわけです
53:50これはね道元禅師にもっと簡単な表現がありましょう
53:53空手元凶って言うんですね
53:55天に何も持たないで故郷へ戻ってきたと
53:59中国に行って修行した悟ったと
54:03けど元へ戻ってみるとですね
54:05やはり元からの自分なんだと
54:07空手で手を空にして故郷へ戻ったと
54:11けどその故郷へ戻ったときですね
54:13道元禅師自身は非常に高められているわけですね
54:15ただ同じ人間である
54:17同じ人間であるという場においてですね
54:20高いものを生かして生きていくと
54:23そういう気持ちを言われたと思うんですね
54:26なるほど
54:26道元禅師の空手元凶ということと
54:29この外側の別字なしということが
54:32やはり同じ一つのものの見方という
54:36非常に次元の高い宗教的な境界に
54:41両方とも同じ世界にあるということが
54:44言えようかと思うんですが
54:45そう思いますね
54:46これは哲学的にこういう解釈もできるかと思うんですね
54:50高いものを目指していく
54:52これ行く姿なんですね
54:55それからそこまで達して今度また元のところへ帰ってくる
54:59これは元祖で帰る姿ですね
55:01浄土教の方で王宗と元宗ということをよく申します
55:08このように解釈していいのかどうか知りませんけれど
55:13私はそのように理解できるかと思うんです
55:15元に戻ってみると一向変わりがない
55:18道元禅師はですね
55:20幻能美直ということを言われます
55:21元に戻ってくるとやっぱり同じ人間がいるんだ
55:24目は横にあってですね
55:25鼻が真ん中にある
55:27別に別の人間がいるわけじゃない
55:29また我々がその別の生理的に別の人間となることができるわけじゃない
55:36けれど同じ人間であってもすっかりですね
55:39お腹が改められて高められていると
55:42そうでもないでしょうね
55:44今こうしたお話しいただきました
55:47外おばのものにしろ空手元教あるいは幻能美直
55:51そうしたことはみんないわばお悟りの世界といいますか
55:57修行を積んで新しいキラキラした宗教的な見方を
56:01目の見開きを持った方の心情なわけですが
56:04先生そうした方をまた私どもの日常生活の生活実践の中に
56:12少しこう引き下ろして考えてみますと
56:18やはりその喜怒哀楽というような言葉がございますけれども
56:25そうしますと石膏は
56:27露山は霧雨 石膏は牛尾と
56:32それを今度は喜怒哀楽という形で仮に置き換えた場合
56:36喜怒哀楽のただなる中に私ども生きている
56:40もうそれはいろいろそれと
56:43それを乗り越えていかなければいけない
56:46それがいろいろな形で物の考え方が進み
56:50いわばいろいろなものをあるがままに受け止めていく
56:53受け止めることによってそれを乗り越えていく
56:57それでふっと振り返ってみると
57:00やはり喜怒哀楽そのただ中にいるということは変わりないんだけれども
57:05その喜怒哀楽に振り回される振り回され方が丸きち違う
57:10どうもお悟りの内容を生活の具体的なことに
57:16引きずり下ろしてしまう癖があるのでございます
57:18そういうことになりましょうね
57:20もう同じ人間としてやはり生きているわけですが
57:23ただすっかり展開されて新しい意味を持つようになっていると
57:28そういうことが言えるかと思うんです
57:30そうしますと本日いろいろ伺ってまいりましたことが
57:34三色正常心という
57:36テーマとしては山の佇まいが仏の姿ですよ
57:42真実の働きですよということなんですけれども
57:44これは私どもにとって自然をどう見るか
57:49自然とどう付き合うかといったようなことから
57:52同時に私どもの毎日の生活の中に
57:56それをどういろいろな物事を受け止め
58:00いわば充実したものとさせていくかという
58:03生き方にも関わってくると
58:05そうですね
58:06そうしてそこにまた将来に新たな問題を
58:09投げかけられるわけです
58:11どうも本日は先生ありがとうございました
58:13ありがとうございました
58:14ありがとうございました
お勧め
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