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  • 2025/4/30
在日コリアンが集住する大阪市生野区。かつて「猪飼野」と呼ばれ、日本の植民地だった朝鮮半島南部、主にチェジュ島から渡ってきた人々とその子孫が多く住む。戦後、彼らは、南北分断、帰国運動など東アジアの激動に翻弄され、差別や偏見に苦しみながら生きてきた。阪神教育闘争を経て、民族教育はどのように進められてきたのか。そして、地元の日本人は、在日社会とどう向き合ってきたのか。在日コリアンの戦後史に迫る。

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トランスクリプション
00:00:00大阪市幾野区
00:00:09かつてイカイノと呼ばれた地域にある在日コリアンが学ぶ学校です
00:00:16朝鮮半島から日本に渡ってきた人々の子孫が学んでいます
00:00:30近くには夜間中学校もあります
00:00:40夕方になると集まる地域の高齢者たち
00:00:48その多くが在日コリアンです
00:00:51かつて生活が苦しく義務教育を受けられなかった人々が
00:01:03失われた教育を取り戻そうと学んでいます
00:01:07在日コリアンが最も多く住む大阪市幾野区
00:01:32チマチョゴリやキムチなどを売る店が軒を並べています
00:01:39人々はこの町でどのような歴史を歩んできたのでしょうか
00:01:49戦前植民地だった朝鮮半島から多くの人々が日本にやってきました
00:02:00敗戦後も様々な事情でおよそ60万人が日本に残りました
00:02:07日本で生活を始めた在日コリアン
00:02:13力を入れたのが民族教育でした
00:02:16しかし戦場の時代
00:02:27GHQはこうした学校を閉鎖しようとします
00:02:30在日の子供たちも抵抗し阪神教育闘争が起こります
00:02:38戦後で唯一非常事態宣言が発せられました
00:02:43その後公立学校の中で民族学級が始められました
00:03:03厳しい差別の中
00:03:09在日コリアンの教育に取り組んだ日本人教師もいました
00:03:14日本人なんか分かるはずがない
00:03:19私はあの苦しみが
00:03:21彼はそれを僕を耐えましたけどな
00:03:24在日コリアンと日本人の保護者が
00:03:31中学校のPTA運営をめぐって対立したこともありました
00:03:36在日の人は在日の人で壁を作ってませんか
00:03:41こっちはこっちで壁を作ってないけど
00:03:43その壁の作り方も違うんやけどね
00:03:45それぞれ考え方が違う
00:03:47いろんな差別がやっぱりはっきりと見えてきた
00:03:50やっぱり差別はあかんやろうと思いました
00:03:53日本の戦後を地方から見つめるシリーズ
00:04:00第4回は大阪のイカイノです
00:04:03日本人と在日コリアンは
00:04:06互いの違いと向き合いながら
00:04:09何を目指してきたのでしょうか
00:04:11教育現場を中心に
00:04:15在日コリアンが歩んだ奇跡を見つめます
00:04:18大阪市の東部平野川に沿って
00:04:35南北に長く広がる地域は
00:04:38かつてイカイノと呼ばれていました
00:04:40古くは農村だったイカイノ
00:04:52伝統の断じりが受け継がれています
00:04:55戦前ここに朝鮮半島から渡ってきた人々が
00:05:09暮らすようになりました
00:05:10古四チョルさん55歳
00:05:22両親が戦前日本に渡ってきました
00:05:25古四チョルさんは今この街で話題のグループに参加しています
00:05:37大池中学校PTA親父バンド
00:05:50地元の中学校の保護者や先生が集まりました
00:05:54古四チョルさんは朝鮮半島の伝統打楽器
00:06:04チャングを叩きます
00:06:07ギターを弾いているのは在日コリアン
00:06:14ボーカルを担当するのは日本人
00:06:19在日コリアンと日本人の混成バンドです
00:06:23結成されたのは今から6年前
00:06:31そこに至るまでに在日コリアンと日本人の
00:06:36葛藤の歴史がありました
00:06:38旅行代理店を営む古四チョルさん
00:06:52妻と子供2人の家族4人で暮らしています
00:06:56息子のヒョゲさんは去年韓国に留学し自らのルーツに関心を持つようになりました
00:07:06家族はどのようにしてイカイノに来たのか
00:07:15こうヨンチョルさんは母親に聞くことにしました
00:07:21今年89歳になるこれまで息子に自らの歴史を語ることはほとんどありませんでした
00:07:34僕はな、なんで日本に来たんや言うてな
00:07:39来たらおかんは白い米が食べたかっただけや言うて
00:07:46言うのだけ俺覚えてないけどな
00:07:4817歳の時は年と何年
00:07:5217歳から73年くらい前から
00:07:5673年くらい
00:07:57昭和15年、だから戦争前やろ
00:07:59姉さんもその時早くから来て私17歳の時朝鮮半島のチェジュ島から大阪にやって来たキム・スニさん
00:08:22当時島の生活は厳しく日本へ渡る人が多かったといいます
00:08:29苦労する人は子ども多いしね
00:08:36金もな畑あんまりないし
00:08:38そんな人で苦した人がいっぱいおります
00:08:42余裕のある人たちつけないですがな
00:08:46やっぱしそれでここ来たらあの風呂もねあのちゃんとあったし
00:08:51チェジュその時風呂あんまりなかったんですね
00:08:56夢やったからね日本は金持ち金持ち言うてね
00:09:00夢ですがな誰でもそう思って大阪来てるんです
00:09:04当時朝鮮半島は日本の植民地支配のもと日本語教育が徹底され公民化政策が進められました農民の多くが戸作に転落貧しさの中で遠く旧満州や日本に生活の過程を求める人が少なくありませんでした
00:09:301923年大正12年チェジュ島から大阪への定期航路が開かれます
00:09:45君がよ丸ですこれを機に島の人々が大阪へ次々とやってきました
00:09:55住んでわん京村はもう分かんねてこれ船の名前ですね
00:10:01船の名前で大阪行ったり来たり行ったり来たりこっち来てるどこの家族でもみんな音ドラ今ドラみんなまた呼んでもうその時降りたんで降りたらもう030年まで地区の方ねあの船と木で止まったりそっから出たりするからみんな姉さんお姉さんみんなあの
00:10:22部下行きで待ってましたこの家も昔のママですね
00:10:28やがて人々は家族や知人を頼って異界野に多く住むようになりました
00:10:37朝鮮半島南部京山南道出身の金一手さん91歳
00:10:5212歳の時姉を頼って異界野へやってきました
00:10:58姉夫婦が日本にやってきたのは大正時代平野川の改修工事がきっかけでした
00:11:08兄さんから聞いた話によれば募集があって
00:11:20あの大阪にあの土木工事があるんだということで募集してきてみたら平野川の改修工事やった
00:11:29兄さんはこの工事が済んで大正時代大阪は一大工業地帯へと発展東洋のマンチェスターといわれ異界野にも工場が進出していきます
00:11:56昭和になると朝鮮の食材を売る位置が立ちにぎわいます
00:12:06この頃1万人を超える朝鮮の人々が暮らしていました
00:12:12やがて人々は異界野で家庭を築き次の世代が生まれます
00:12:26キムイッテさんの老いパクハンネさん
00:12:30昭和9年イカイノで生まれました
00:12:366歳の時イカイノの国民学校に入学したパクさん
00:12:42この年日本人風の氏名を名乗らせる創始改名が行われました
00:12:49あるほど全部焼けていなかった
00:12:51当時はね新井学来やったと思います
00:12:55新井学来
00:12:57僕らの時は教育直後まで行ったかな
00:13:01覚えるまで手学年やったからね
00:13:03多分3年生やったと思います
00:13:07軍人は6つか7つあるんですよ
00:13:18あれは覚えさせられましたね
00:13:24そういう環境で育て教育を受けているんですからね
00:13:30日本人とか自分の意識全然持ってなかったですよね
00:13:33僕が日本に生まれ日本に座ってからね
00:13:36日本のことしか分からないですからね
00:13:43昭和16年太平洋戦争が始まり次第に戦況は悪化します
00:13:49大阪も大規模な空襲にさらされました
00:13:54兵器工場があった大阪城の周辺が焼き払われ
00:13:58被害は異界の間で及びました
00:14:02昭和20年1945年敗戦
00:14:15朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されました
00:14:21当時日本にいた朝鮮人はおよそ200万人
00:14:30多くの人々が祖国を目指して山口や福岡の港に押し寄せます
00:14:36しかし渡航費や帰国後の生活費を苦面できない人が多かったといいます
00:14:43金一手さんも福岡へ向かいました
00:14:58しかし財産の持ち出しを制限されていました
00:15:11さらに帰国しても生活のめどが立たない人も多くいました
00:15:18一手さんは福岡の港で日本に戻ってくる人々に出会ったといいます
00:15:26日本から引き揚げて
00:15:29で 釜山から日本人の引き揚げ車をまた乗せて帰りますね
00:15:35その船に一緒に乗って帰ってくるんですよね
00:15:41で 怒難したりと言うて聞きますよ
00:15:46そしたら?
00:15:47そうしたら結局政治不安やら働く場所もないとそれから戻ってきたといいますよ
00:15:57何悲しい思いやらね
00:16:03切ない思いでしたな正直な話
00:16:08朝鮮半島では北緯38度線を挟み北にはソビエト軍が親中共産主義体制が敷かれます
00:16:29一方南にはアメリカ軍が親中し軍政を敷きました
00:16:35祖国が分断されていく中でおよそ60万人の人々が日本に残りました
00:16:46戦前から異界野に暮らしてきた朝鮮の人々の多くが祖国の混乱を前にこの町にとどまりました国民学校で教育を受けてきたパク・ハンネさん11歳になっていました
00:17:09父親が家の1階に自転車のタイヤを売る店を構えその2階に家族9人で暮らしました
00:17:20戦後にここに来た人たちがちょっとお店に出し合ってねそれが生活の糧になりましたからね
00:17:35だから真似て続けるやる人は一軒抜けて自然と増えていったわけです
00:17:42今の人よりも元気でしたからね
00:17:46だから真似て続けるやる人は一軒抜けて自然と増えていったわけです
00:17:57今の人よりも元気でしたからね
00:18:01JR大阪環状線鶴橋駅
00:18:23この周辺にも在日コリアが多く集まりました戦後間もなくおよそ3000人の露天相が集まり闇市が生まれます
00:18:39ムン・ウピョンさん73歳
00:18:49幼かったムンさんはここで両親が出したホルモン焼きの店を手伝いながら戦後の混乱を行きました
00:19:00お姉さんと一緒に京都の方へ行って戸殺場を見てきてるから
00:19:06だから京都のどこかわからんってわからないけど電車乗って行ってドラム缶を2つつかんで
00:19:13現場で牛殺すのを見てるから
00:19:15その後いらんものはホルモンを掘るからそれを管理に入れて
00:19:22でここまで運んできてお姉さんと一緒に
00:19:25闇市では蜜蔵氏も売られたびたび摘発を受けました
00:19:34で金道とドブロックというのはドブロックというのは蜜蔵氏
00:19:39だからうちのお母さんが一回捕まって
00:19:42行かしになる警察に行ったことある
00:19:47在日コリアンはやがて御助組織を作り生活を支え合ってゆきます
00:19:541945年10月在日本朝鮮人連盟いわゆる朝連が結成されます
00:20:07翌年10月には在日本朝鮮居留民団後の韓国民団が結成されました
00:20:18中でも最大の規模を誇った朝連は労働問題の解決や民族教育の要求など
00:20:28在日コリアンの権利獲得に力を入れてゆきます
00:20:33映画朝鮮の子
00:20:45朝連は自分たちの言葉を取り戻そうと全国に500を超える学校を作ってゆきます
00:20:57こうした学校で民族教育に取り組んだ人がいます
00:21:17キムヨンヘさん87歳
00:21:22戦前大阪にやってきたキムさんは戦後地方へ買い出しをしながら帰国の準備をしていました
00:21:36新聞の配達をしていたおり訪れた学校で朝鮮語ができることを見込まれ教師になるよう誘われました
00:21:45朝鮮語が話せる読み書きできる歴史が分かるのであれば別に私学だったら問題外にして
00:21:56それで朝鮮の学校に学校の先生になれたわけです
00:22:00私がそのイントレでしたもう徹底していかにして読むか書くか読み書きがもうほとんどでした
00:22:10まず話さないと読めないとどうにもならないです
00:22:14大阪の白桃学院建国学校
00:22:24終戦の翌年1946年
00:22:27在日コリアンの実業家が出資して開校しました
00:22:31この学校では韓国語に学習の重点を置いています
00:22:47この中学校へ進んだパク・ハンネさん
00:23:00戦争中に日本語しか学んだことがなく
00:23:04戦後初めて祖国の言葉を学びました
00:23:07僕らの一生懸命やられたでしょ
00:23:12僕らのある時は死んでると思いますよ
00:23:15取り入れる懸命になってると思います
00:23:17本当に難しく感じました
00:23:21全然今小学校に行ってた通りにね
00:23:27習ってないことを取り入れるのか
00:23:30僕は建国学校に開校当時の様子を写したフィルムが残っていました
00:23:42パク・ハンネさんたち生徒は
00:23:56先生と一緒になって運動場を作っていきました
00:23:59石広いとか砂箱になりとかね
00:24:08砂箱のそれは今でも覚えています
00:24:13道歩同士がたどりにいたということは
00:24:23気さくに遊べたんじゃないですかね
00:24:26いやねなくね
00:24:28その時始めた
00:24:29これが開放って言うんやな
00:24:31って名席のうちに感じたのは確かです
00:24:35民族教育が活発になる中
00:24:43占領に当たったGHQは
00:24:45在日コリアンをどう見ていたのでしょうか
00:24:48アメリカ本国からマッカーサーに出された指令です
00:24:54朝鮮人を解放人民として扱うが
00:25:02それは軍事上の安全が許す場合に限る
00:25:07必要な場合には
00:25:11朝鮮人を敵国民として扱ってよいとしています
00:25:16日本政府は在日コリアンについて警戒していきます
00:25:25終戦を契機として戦勝意識
00:25:31違い封建的錯覚をもって
00:25:34従来の非圧迫感に対する反動なるがごとく
00:25:39各種の不法行為に入れたる
00:25:421947年5月
00:25:47日本政府は外国人登録令を発します
00:25:51朝鮮人は日本国籍は有するものの
00:25:58当分の間外国人とみなす
00:26:02その一方で日本の教育法に従い
00:26:08日本語による授業を受けなければならないとされました
00:26:11アメリカとソビエトが分割占領してきた朝鮮半島
00:26:22米ソ共同委員会が決裂
00:26:24南はアメリカの支持を得た
00:26:29イ・スンマンを大統領とする大韓民国が成立します
00:26:33一方北ではソビエトの支持を得た
00:26:41キム・イルソンが
00:26:43朝鮮民主主義人民共和国の独立を宣言します
00:26:47南北で分断国家が生まれる前夜
00:26:55イカイノの人々の多くがふるさととする
00:26:58チェジュ島で悲劇が起こります
00:27:01共産主義者への弾圧が続く中
00:27:08これに反対する島民が
00:27:101948年4月3日
00:27:14武装放棄します
00:27:15チェジュ島4産事件です
00:27:20キム・スニさんは
00:27:27ふるさとの村で
00:27:29親戚が犠牲になったことを伝え聞きます
00:27:32いとこも一人亡くなったんです
00:27:36背が兄弟の中で一番高いし
00:27:4123歳か4歳ごろ
00:27:45結婚してまあないのにね
00:27:47何も済みないけど
00:27:49ピラー
00:27:51どこかあちこち張ってくれってみんな寝てみて
00:27:56あれも静かなとこ回って
00:27:59ただそれだけピラー張ったのそれが罪にして
00:28:03同じ悪いものと思って
00:28:05畑つらっと立ててみんな殺されたらしいです
00:28:10みんな亡くなった人がうち小さい時からもう
00:28:13みんな知ってる人やったからみんなごごごご知ったりだら
00:28:16みんなも顔知っていて本当に何とも言われん悲しい思いしました
00:28:21何にも住めない住めないでね
00:28:24チェジュ島四山事件では死者行方不明者合わせて3万人に上りました
00:28:34難を逃れるため日本へ渡る人もいました
00:28:39逃げたか逃げた人も何か捕まって帰らしだとか
00:28:50その時来たことあります
00:28:55病みてくんねんから
00:28:58病みてくるんから
00:29:01アメリカはチェジュ島の民衆放棄が日本に及ぶことを恐れ
00:29:09事件の1週間後警告を発しています
00:29:13朝鮮半島での大きな暴動と連携して
00:29:18在日コリアン
00:29:20特に大阪地区の遺憾分子がデモを起こし
00:29:25他の民衆騒乱を助けるかもしれない
00:29:31GHQはすでに文部省に指示し
00:29:38日本の教育法に沿わない朝鮮人の学校を閉鎖しようとしていました
00:29:441948年4月
00:29:52学校閉鎖の強制執行に抗議する在日コリアンは
00:29:57神戸と大阪でデモを行います
00:30:01大阪府知事に閉鎖の撤回を迫りました
00:30:05事態を重く見たアメリカ軍は
00:30:10非常事態宣言を発令
00:30:12実力で排除しようとします
00:30:154月26日
00:30:19大阪府庁での抗議集会には
00:30:22在日コリアンの生徒や教師
00:30:24さらに一般市民も加わり
00:30:262万人以上が参加しました
00:30:29当時中学2年生だった
00:30:36パク・ハンネさんも
00:30:37大阪府庁前に向かいました
00:30:39多数の警官が動員され
00:30:56放水を返し
00:30:57参加していた少年に銃弾が当たりました
00:31:01バーンバーンと立ち歯2倍効いてるんです
00:31:07驚いてパッと言うんです
00:31:10そしたら
00:31:10それ
00:31:11撃たれた
00:31:14ああいうのを聞いて
00:31:15死んだというのは
00:31:16後で聞いたんです
00:31:18一人
00:31:19亡くなったのは
00:31:2216歳の少年
00:31:24キム・テイル
00:31:25貧しい母子家庭に育ち
00:31:29タバコ売りをして
00:31:30家族を支えていました
00:31:32阪神教育闘争と呼ばれた
00:31:37この事件では
00:31:38占領軍の安全を脅かしたとして
00:31:41およそ2000人が検挙
00:31:43軍事裁判の結果
00:31:45重労働や国外退去などの
00:31:47刑を受けた人もいました
00:31:49弾圧が始まったのかな
00:31:53過去に戻るのかな
00:31:55いうぐらいの意識は
00:31:56確かにあったと思います
00:31:591949年8月
00:32:05吉田茂首相は
00:32:07マッカーサーに宛てて
00:32:08次のような手紙を送っています
00:32:10私は朝鮮人が
00:32:14全て彼らの故郷の半島に
00:32:16送り返されることを欲するものです
00:32:19日本の食料事情は
00:32:23余分な人々を維持することを許しません
00:32:26かなりの数が
00:32:29共産主義者かその同調者であり
00:32:32政治的犯罪を犯しがちなのです
00:32:35当時GHQ外交局に勤めていた
00:32:43リチャード・フィンの
00:32:44生前の証言が残されていました
00:32:47我々は
00:32:52次第に日本の考え方に
00:32:55共感するようになりました
00:32:57在日コリアン問題では
00:33:00アメリカ側も
00:33:02偏見に染まっていったのです
00:33:04吉田は
00:33:06コリアンの国外追放を望んだのでしょうが
00:33:10マッカーサーは同意しませんでした
00:33:13これは長期にわたって続いた問題であり
00:33:19我々の占領期間中に
00:33:22解決するのは適当ではない
00:33:24マッカーサーは
00:33:26基本的にそう語っていました
00:33:29GHQは
00:33:34在日コリアンの本国総監で
00:33:37共産勢力が
00:33:38韓国に拡大することを
00:33:40恐れていました
00:33:41東アジアでの冷戦の激化が
00:33:45日本の在日社会を
00:33:47揺るがしていきます
00:33:481949年9月
00:33:54吉田内閣は
00:33:56朝鮮人連盟を解散させ
00:33:58財産を没収します
00:34:00その1ヶ月後
00:34:03文部省は
00:34:04朝連携の学校を
00:34:06閉鎖する措置に出ます
00:34:08異界の近くに開校した
00:34:13東成朝鮮学園
00:34:15873人が学んでいました
00:34:18閉鎖に抵抗したこの学校は
00:34:24警官隊による強制執行を受けました
00:34:27当時8歳だった
00:34:38キムキョンドンさん
00:34:39校舎に立てこもっていました
00:34:42表から計算してくるしね
00:34:49僕ら2年生の時に
00:34:52この中っ川で
00:34:53生徒みんながね
00:34:551年生から6年生まで
00:34:57みんながもう
00:34:58一生懸命押してやったけど
00:35:00それはもう
00:35:01表から大人が
00:35:02うわー押してくるもんね
00:35:04すごかったですよ
00:35:06怖かったね
00:35:09もう怖いのだけ
00:35:11結局ほとんどの学校が閉鎖されます
00:35:17在日コリアンの子どもたちは
00:35:20強制的に日本の学校へ編入されました
00:35:23在日コリアンの民族教育をどうしていくのか
00:35:33阪神教育闘争を経て
00:35:36大阪府知事と朝鮮人代表者との間で
00:35:40覚書が交わされました
00:35:42公立の小学校において
00:35:48放課後など課外の時間に
00:35:51朝鮮語や朝鮮の歴史などについて
00:35:55授業を行うことができる
00:35:57この覚書に沿って
00:36:06大阪府の33校の公立学校で
00:36:09民族学級が始まります
00:36:11放課後に在日の児童生徒だけを
00:36:17集めた学級を設けて
00:36:19朝鮮語などの授業を
00:36:21週に1回程度行いました
00:36:23朝鮮人の学校が閉鎖され
00:36:32教師の職を失った金四平さん
00:36:35民族学級の講師の試験を受け
00:36:39しかし民族学級に対する周囲の
00:36:47日本人教師の目は冷たく
00:36:50さまざまな障害に突き当たりました
00:36:52金四平の学級であって
00:36:57学校で関係ないなと言わんばっかりのことです
00:37:00まるっきり関心がない
00:37:04その高度の横に
00:37:0732、3名しか座れない倉庫を
00:37:11当てがってもらったんです
00:37:15病院じゃありません
00:37:16本当に赤だるま入れ
00:37:18白玉入れだったり
00:37:19もうそうゆうかげっこするね
00:37:21鉢巻やらみも
00:37:23そういうのがいっぱい入れであると
00:37:25どうするので
00:37:26もう本当にね
00:37:28もうことばが出ないんです
00:37:31情けないというから悲しくて
00:37:33こんなところですね
00:37:35こんなところで
00:37:36授業せっていうのかってことです
00:37:37朝鮮人の学校が閉鎖された時
00:37:469歳だったムン・ウピョンさん
00:37:49編入された日本の小学校には民族学級はありませんでした
00:37:55それまでとは違う教育に戸惑い
00:38:06次第に学校に行かなくなりました
00:38:36学校に行っても面白ないついていけない
00:38:38先生に骨を殴られる
00:38:41異界の出は日本の学校へ行かない在日コリアンの子どもたちが増えていきました
00:38:511950年朝鮮戦争が勃発します
00:38:58戦争は在日コリアンの社会にも分裂をもたらしました
00:39:04韓国を支持する民団は
00:39:09諸国防衛のために戦う志願者を募り
00:39:12戦場に送りました
00:39:13一方解散させられた元朝鮮の人々は
00:39:22反戦反米の闘争を激しく展開します
00:39:26大阪方面では
00:39:31爆撃砲弾、発煙弾などの大量生産が行われ
00:39:35異様な活況を呈しています
00:39:36日本では朝鮮特殊を足掛かりに戦後復興が始まりました
00:39:44朝鮮戦争の最中、吉田内閣は
00:39:52サンフランシスコ平和条約に調印
00:39:55日本は独立を回復します
00:39:58独立の直前、日本政府は通達を発しました
00:40:04朝鮮人および台湾人は
00:40:08すべて日本の国籍を喪失する
00:40:12この通達で
00:40:16大日コリアンは国籍選択の自由を与えられないまま
00:40:21日本国籍を喪失し
00:40:23地域を指す故障の朝鮮籍とされました
00:40:27非常に憤慨したのは
00:40:35それまでには我々は日本人だったんですよ
00:40:38何も日本人になりたくて日本人になったのと違うんですよね
00:40:42日本の国籍で人を得てね
00:40:45まずいて国籍を剥奪したでしょう
00:40:49居住権までは剥奪しなんだけれど
00:40:53もうちょっとその
00:40:57我々、韓国朝鮮人は日本に来た経緯が違うから
00:41:05もうちょっとその
00:41:08何というか
00:41:10差別的言うか
00:41:13
00:41:14そういうところにちょっとあの違和感を感じましたね
00:41:19大阪では日本の学校へ行かない在日コリアンの子供を
00:41:29どう処遇するのか課題となっていました
00:41:321950年
00:41:39大阪市はおよそ1400人の在日コリアンが
00:41:44不修学の状態にあると政府に報告しています
00:41:48例外を認めざるを得ないとして
00:41:54特例的な学校を作ることを要望しました
00:41:57それまで公立学校での民族教育は
00:42:06民族学級が中心でしたが
00:42:08大阪市は在日の生徒だけが通う
00:42:12公立の中学校を新たに設置します
00:42:15イカイノの近くに開校した
00:42:21大阪市立西今里中学校です
00:42:25朝鮮人の学校が閉鎖された後
00:42:32日本の小学校に編入された
00:42:35キムキョンドンさん
00:42:36卒業後
00:42:41西今里中学校へ進学しました
00:42:44バラバラになったのが
00:42:56小学校卒業してパッと戻ってきたら
00:43:01ほとんど昔の顔がね
00:43:04ちょっと抑えられてたのが
00:43:07こっちから来た時に
00:43:08みんなのお手からちょっと気がね
00:43:10バッと何か明るくなりましたね
00:43:16西今里中学校では
00:43:23日本人と在日コリアンの教師が
00:43:26共に教えていました
00:43:27朝鮮語をはじめ
00:43:32朝鮮の歴史や文化などの授業も
00:43:34行われました
00:43:44日本の学校に行かなくなっていた
00:43:47文右平さんも
00:43:48西今里中学校に入学します
00:43:55西今里中学校の時は
00:43:57ほんまに楽しかった
00:43:59先生らが一生懸命教える
00:44:01僕ら学ぶ
00:44:03中学校の時も教える
00:44:05その先生
00:44:06日本の先生も一緒やもんね
00:44:08教えるの
00:44:08だから日本の先生も一緒に教えてくれる
00:44:11朝鮮の先生も教えてくれる
00:44:13だから全国に見ることのできないような
00:44:17学校やねこれ
00:44:17開校から5年後
00:44:23この学校に赴任した
00:44:25パクチョンミョンさん
00:44:27校長に挨拶に行ったと聞かけられた言葉を
00:44:33今も忘れられないと言います
00:44:35だからもう
00:44:39赴任した時に私は
00:44:41誰々でございます
00:44:42お世話になります
00:44:44言ったらもう
00:44:45ここは朝鮮人の学校だから
00:44:49朝鮮の先生が来るのは
00:44:50大変嬉しいことです
00:44:52どうぞ
00:44:53あなたも朝鮮の先生の一人だから
00:44:55子どもたちのために
00:44:57一生懸命
00:44:58努力してください
00:44:59今後とも
00:45:00いやーこちらこそ先生
00:45:02大変感動的でありましたね
00:45:05私にとっては
00:45:06中でもパクさんの印象に残った人が
00:45:12数学教師の市川雅明さんでした
00:45:15市川さんが生徒に伝えた言葉を覚えていました
00:45:21君たちが日本に住んでいて
00:45:24日本という場で
00:45:26いろんな日本の方と関わって
00:45:29やがて国に帰るだろう
00:45:32民族団体で仕事するだろう
00:45:34日本で自立して
00:45:35いろんな形で生きていくだろう
00:45:37じゃあそういう人間が
00:45:39日本人として
00:45:42日本人との関わりの中で
00:45:46外国人として
00:45:47どういうことが
00:45:50必要なんだろうか
00:45:53それは日本の教師が
00:45:56いくらでもサポートしてやれる
00:45:59子どもたちも
00:46:01そういう先生方には
00:46:02非常に信頼感を持ってましたですね
00:46:06市川雅明さんは
00:46:125年前
00:46:1380歳で
00:46:14他界しました
00:46:18市川さんの妻
00:46:19すみ子さんによれば
00:46:20市川さんは
00:46:21独学で
00:46:22ハングルを覚えようとしていたといいます
00:46:28数学の教師でしたからね
00:46:31朝鮮語はできなかったですけど
00:46:34単語だけ
00:46:36数学の教えるところの
00:46:40なんか数学的な
00:46:41あれで言葉ですね
00:46:43そういう単語だけ
00:46:44朝鮮で書いて
00:46:48金を打って
00:46:50あれで授業するんやなと思って
00:46:54見てましたけどね
00:46:55私は
00:46:56こんなしてやるんかと思って
00:46:59ちょっと新鮮やったのでね
00:47:00見てましたけど
00:47:02市川鮮子さんの学校は
00:47:12日本人生徒に混じって
00:47:14在日コリアンの生徒が学んでいました
00:47:17アンケート調査を行い
00:47:21その気持ちに寄り添おうと
00:47:23努めました
00:47:24大人は特に悪口をやめてほしい
00:47:31なぜ差別されるのか知りたい
00:47:34こうした願いを知った
00:47:40増子さんは夫の正明さんとともに行政へ働きかけました
00:47:45在日コリアンが多い公立学校に対し
00:47:51教師の定員や予算など特別な配慮をするよう申し入れたのです
00:47:56とにかく分散して
00:48:03日本の学校へ入っている
00:48:06子どもらについて
00:48:09もうちょっと市はちゃんと
00:48:13対策を立ててほしいと
00:48:16朝鮮人のこの置かれている地位が
00:48:20貧しいしやっぱり低いし
00:48:24日本人のこのありとは違いますよね
00:48:30だからそれの対策を立ててほしいと
00:48:341955年
00:48:39在日本朝鮮人総連合会
00:48:43いわゆる朝鮮総連が結成されます
00:48:46北朝鮮から教育援助費が送金され
00:48:51各地で独自に朝鮮学校を再建していきます
00:48:55西今里中学校では
00:49:02在日コリアンによる自主的な運営を望む
00:49:05保護者の声が高まります
00:49:071961年
00:49:11大阪市立の中学校から
00:49:13自主運営の朝鮮学校となりました
00:49:16西今里があの時期存在したっていうことはね
00:49:22日本の公立学校で朝鮮の子ばっかり教えるっていう
00:49:26両方の先生が行って教えるっていうのは
00:49:30奇跡的なことって言えばそうですけども
00:49:34西今里があるときはやっぱり
00:49:37あの中で分散している子どものこととか
00:49:41他の周りの学校の教師ともつながっていかなあかんって
00:49:47思う人たちが何歩かあったと思うんですね
00:49:51それで
00:49:51それとこっちの学校の問題とがつながったっていうことは
00:49:59西今里がある間はありますけどね
00:50:03その後在日コリアンの教育はいくつかの学校に分かれて行われます
00:50:11各種学校として認可された朝鮮学校
00:50:17日本の教育課程に沿った建国学校などの私立学校
00:50:23そして公立学校の中の民族学級で行われていくことになります
00:50:331958年
00:50:36NHKが大阪・イクノックの在日コリアンを撮影した映像です
00:50:42異界野の在日を記録したテレビドキュメンタリーとして
00:50:49最も古いものとされています
00:50:51バラックが立ち並び
00:50:57人々が肩を寄せ合って暮らす姿が映し出されています
00:51:03東行くの中学校夜間学級です
00:51:20苦しい生活の中で義務教育を受けられなかった
00:51:25在日コリアンが大勢学んでいます
00:51:28半世紀前働きづめだった親たちの姿も記録されています
00:51:36うちも近所にこんなシアルおばちゃんがおって
00:51:42傘もないし
00:51:42いろんなこと考えた
00:51:46胸張り裂けるし涙出るし
00:51:49思い出します
00:52:04やっぱりこういうふうにしているのを見て
00:52:09自分がこんなにして生きてきたなという
00:52:13親はもうお金がないから病気になっても
00:52:17お医者さんも行かれへんしね
00:52:20その当時はね
00:52:21いちいちおばさんが住みだろうなあれを持って担いでね
00:52:25ゴミを漁ってそれで生活したわけですよ
00:52:29それほどね生活にはね困ってたわけです
00:52:33定食に就くことが難しかった人々は紙くずや鉄くずを集めては
00:52:44寄席屋と呼ばれる廃品回収業者に売って暮らしをしのいでいました
00:52:49当時小学生だったキム・ビョンタクさん
00:52:57学校の窓から母親が紙くずを積んだ手押し車を押す姿を目にしました
00:53:05お店のお店はあの坂上がるのに難気してやねん
00:53:12俺は上から見てるけど
00:53:14いかれへんのよ押しに
00:53:16押しに行くわけにはいかんのや
00:53:18もういじめられるから
00:53:20挑戦挑戦
00:53:23俺はもうきめみたいに使ってたもん
00:53:28隠してな
00:53:281959年北朝鮮への帰国運動が始まります
00:53:43祖国へ帰ることを希望した在日コリアンに対し
00:53:47北朝鮮が受け入れを認める形で始められました
00:53:51当時北朝鮮では5カ年計画が進められ
00:53:58国民所得は韓国を大きく上回っていました
00:54:08岸総理大臣は2日の衆議院予算委員会で
00:54:12朝鮮人を送り返す問題について
00:54:15人道上の問題でもあるので
00:54:17北戦へ帰国する者についてはその希望に沿うようにしたいと
00:54:21政府の方針を明らかにしました
00:54:23帰国事業は日本と北朝鮮両国の赤十字社の協定によって行われました
00:54:32朝鮮総連は北朝鮮基幹運動を積極的に進めていきました
00:54:40当時30代だったキムスニさん
00:54:524人目の子供を出産したばかりで子育てに追われていました
00:54:59夫と共に服の縫製の内職で家族を支えていたキムスニさん
00:55:07南のチェジュ島の出身でしたが
00:55:13北朝鮮へ行くことを希望しました
00:55:15北朝鮮に行ったら家族もただ
00:55:19家族もただ
00:55:21みんな金持ち貧乏がなし
00:55:23みんな廃棄をくれるゆうだから
00:55:27それで洋さん身内の人やら
00:55:29洋さん行ったんやから
00:55:30行ったんやけど
00:55:31うちもそれ来たらな
00:55:32行けたなって
00:55:33そんなとこ行って
00:55:34ここ金持ち貧乏みんなサービスするから
00:55:38金持ち金持ち貧乏
00:55:39僕行ったらそれがないよ
00:55:41それでそれで帰る思ったらな
00:55:43お父さんの姉貴な
00:55:46おじさんの方
00:55:47絶対そこ行ったらあかん
00:55:49そこ行ったらあかん
00:55:50ええ言うけどそこ行ったらあかん
00:55:51いけんいけん言うし
00:55:53向こうおじさんがいけな
00:55:55あかん言うだから
00:55:56それでしゃあないな
00:55:57思いました
00:55:57金スニさんは
00:56:04義理の兄の説得を受け入れて
00:56:06家族とともに
00:56:07日本にとどまることにしました
00:56:09キムイッテさんは
00:56:17当時
00:56:18イカイノで
00:56:19塩化ビニールの工場を
00:56:21経営していました
00:56:22老いのパクハンネさんも
00:56:30一緒に働き
00:56:32イカイノで
00:56:32生活の基盤を
00:56:34築きつつありました
00:56:35キムイッテさんは
00:56:45在日本韓国
00:56:47居留民団
00:56:48いわゆる民団の活動に
00:56:49参加し
00:56:50帰国運動に
00:56:51反対しました
00:56:52帰った人は
00:56:58チェジュ島
00:56:58南の人が
00:57:00ほとんどですね
00:57:01なんで
00:57:03自分の国境を
00:57:04置いておいて
00:57:04いくかと
00:57:05やっぱり
00:57:06北が復興しよう
00:57:07思ったら
00:57:08日本から
00:57:09やっぱり
00:57:10同胞を
00:57:11集めんことには
00:57:12ということを
00:57:14ある程度
00:57:15私らは
00:57:16分かっておったんでね
00:57:18そういうことで
00:57:19また日本の方が
00:57:22生活ましよと
00:57:23帰るんだったら
00:57:26自分の国境に
00:57:27帰らんかと
00:57:28だからその折にね
00:57:30日本政府に
00:57:32私ら
00:57:34反対もしたし
00:57:37いろんな抗議も
00:57:38したけれど
00:57:39個人の力
00:57:42民団の力
00:57:46国の力に
00:57:49かないませんわな
00:57:50日本の国策やから
00:57:53どうしようも
00:57:53ありませんがな
00:57:54北朝鮮への
00:57:59帰国運動は
00:58:001959年から
00:58:0225年間に
00:58:04わたって続けられ
00:58:059万人余りの
00:58:06人々が
00:58:07日本を
00:58:08後にしました
00:58:09一方
00:58:16韓国との間では
00:58:171965年に
00:58:20国交が
00:58:20正常化され
00:58:21日韓
00:58:22法的地位協定が
00:58:24結ばれました
00:58:25在日コリアンの
00:58:33協定永住権が
00:58:34認められ
00:58:35対象者は
00:58:36戦前から
00:58:37日本に引き続き
00:58:39居住している人や
00:58:40その直系の
00:58:41子孫などと
00:58:42されました
00:58:431960年代
00:58:56日本は
00:58:57高度成長期を
00:58:58迎えます
00:58:59在日コリアンは
00:59:02日本で
00:59:02生まれ育った
00:59:03二世の時代と
00:59:04なります
00:59:05イカイノにある
00:59:17韓国大阪教会
00:59:19この町で
00:59:21暮らす
00:59:21在日コリアンの
00:59:23心の
00:59:23拠り所と
00:59:24なってきました
00:59:25キム・ヨンソンさん
00:59:3070歳
00:59:31イカイノで育った
00:59:33在日二世です
00:59:34母親は戦前
00:59:47チェジュ島から
00:59:48イカイノに
00:59:49やってきました
00:59:50在日コリアンの
00:59:55多くが
00:59:55本名とは別に
00:59:57通名
00:59:58通称名と呼ばれる
00:59:59日本人風の
01:00:01氏名を
01:00:01使ってきました
01:00:02キム・ヨンソンさんは
01:00:05教会など
01:00:06限られた場所で
01:00:07本名を使い
01:00:09学校や会社では
01:00:10通名を
01:00:11名乗ってきました
01:00:12特にあの頃
01:00:15通名で行く人が
01:00:16多かったと思うんですけども
01:00:18それはむしろ
01:00:19学校の先生が
01:00:21どうなさいますか
01:00:25という名前を
01:00:26質問していたのが
01:00:28担任が
01:00:29それで
01:00:30おそらく
01:00:31周りは
01:00:32親父は
01:00:33周りは
01:00:34ほとんど通名やから
01:00:35通名で
01:00:36そしたら
01:00:37言うたんや
01:00:38と思いますわ
01:00:38中学校は
01:00:41金村優生で
01:00:42中学校
01:00:43高校ですね
01:00:44高校は
01:00:45金村優生で
01:00:46名前も
01:00:48なんていうか
01:00:49教会へ行くときと
01:00:52学校行くときと
01:00:54家庭と呼ばれるときと
01:00:55違うんだけども
01:00:57なんか
01:00:57あんまり
01:00:58それに対して
01:01:00こだわった気持ちは
01:01:00なかったんですね
01:01:02もうそれが
01:01:02普通のように
01:01:04生活の中で
01:01:06使っていました
01:01:06ですからね
01:01:07大学は
01:01:12就職に有利だと考え
01:01:14機械化に進みます
01:01:16周囲の理解もあって
01:01:19大学では
01:01:20本名を名乗りました
01:01:21ところが
01:01:23就職活動で
01:01:24厳しい現実に
01:01:26ぶつかりました
01:01:26就職担当の
01:01:31教授
01:01:32助教授だったかな
01:01:33その当時
01:01:34相談したら
01:01:36よくわからない
01:01:37そういうときは
01:01:38
01:01:38金村優生の
01:01:39名前だったんですけど
01:01:40わかったわかった
01:01:40そうしたら
01:01:42もう何本でも
01:01:43毎日
01:01:43大学に来て
01:01:45もう学生送って
01:01:46ください先生
01:01:46頼みますわ
01:01:47言って
01:01:48あちこちから
01:01:48教育は
01:01:49紹介したりは
01:01:51いうことで
01:01:521週間か10日ぐらい
01:01:53経ったんですけども
01:01:55あのときに
01:01:56呼ばれて
01:01:57金村優生の
01:01:58こっちに
01:02:00日本人ではないんだけども
01:02:04日本はね
01:02:05全然日本人と
01:02:07変わらない
01:02:07言葉も何も
01:02:09全然変わらない
01:02:09そういう学生が
01:02:11おるけど
01:02:11言って
01:02:12紹介したら
01:02:13大学がもう
01:02:15先生
01:02:16ちょっと
01:02:16また今度来ますから
01:02:18よろしく
01:02:19そのまま
01:02:19言ってしまえるよ
01:02:20わけだったんですね
01:02:22やはり
01:02:23思うてるよりも
01:02:25もっと
01:02:26差別が
01:02:27強いんだ
01:02:28ということを
01:02:29知らされて
01:02:30だから
01:02:33どうして
01:02:35あと
01:02:36やっていったら
01:02:37いいかなと
01:02:38なんとか
01:02:42在日が
01:02:43経営する
01:02:44工場に
01:02:44職を得た
01:02:45金さん
01:02:46しかし
01:02:47すぐに
01:02:48会社が倒産し
01:02:49その後
01:02:50職を
01:02:50転々とします
01:02:51職場では
01:02:53通名で通しました
01:02:55もともと
01:02:57あんまり
01:02:57観光人を隠すとか
01:02:59そういうことも
01:03:00なかったんですけども
01:03:01いくらで
01:03:01生活している限りで
01:03:02ただ
01:03:03一般会社を
01:03:04勤めるときは
01:03:05金破りで
01:03:05ずっと
01:03:06県では
01:03:06一回も
01:03:07勤めたことないんですから
01:03:08差別が
01:03:10どうしようもないぐらい
01:03:11矛盾したことでは
01:03:14あるんだけども
01:03:15現実だから
01:03:16やっぱり
01:03:17この現実の中で
01:03:18生きていくしかない
01:03:20わけですから
01:03:21基盤は
01:03:23日本にあるわけであって
01:03:25韓国に帰って
01:03:26なんとか言うことは
01:03:27はなかないわけですから
01:03:28ここで
01:03:29何か水を切り入れて
01:03:31いかなあかんかな
01:03:32という
01:03:32気持ちなんですけども
01:03:34就職や進学などで
01:03:40異界のから
01:03:41出ていこうとする
01:03:42在日2世の若者たち
01:03:44名前をどう名乗るか
01:03:47葛藤する人が
01:03:49少なくありませんでした
01:03:50名前の問題に
01:03:58教育の現場で
01:03:59取り組もうとした人がいました
01:04:01日本の小学校で
01:04:04民族学級を指導してきた
01:04:06金四平さんです
01:04:071973年
01:04:14金さんが始めたのが
01:04:16本名を名乗る取り組みでした
01:04:19就職や進学などの
01:04:24新しい壁にぶつかっても
01:04:26負けないための
01:04:27誇りを持ってほしいと
01:04:29願ったからです
01:04:30結局
01:04:33人間だから言って問題が
01:04:35掛けされるもんじゃないわけです
01:04:37自分の本当の名前があるのに
01:04:42なぜですね
01:04:43そのね
01:04:44実名を使わないで
01:04:46通称名を使わないのではないか
01:04:48無論
01:04:51君たちはね
01:04:52本名を名乗れば
01:04:55日本のお友達から
01:04:58差別されるんじゃないか
01:04:59変な目で見られるしないか
01:05:01いじめるんじゃないか
01:05:03っていうのはね
01:05:04そういうことに
01:05:05負けたら
01:05:07いかん
01:05:08本当に真実が大事だ
01:05:10本当に
01:05:12本当のことが大事なんだ
01:05:14本名を名乗ることは
01:05:21在日コリアンの児童に
01:05:22どう受け止められたのでしょうか
01:05:25金四平さんの教え子
01:05:29金手孫さんです
01:05:31当時小学校へ
01:05:37通名で通っていましたが
01:05:39本名を名乗るよう指導されました
01:05:42初めて呼ばれて
01:05:48黒板に書かれて
01:05:50その名前っていうのと
01:05:51自分が一致しませんから
01:05:53そういう意味では
01:05:54最初は本当に
01:05:55金手孫という字を書かれた
01:05:58紙をペタッと額に貼られたような
01:06:01ちょっとそういうこう
01:06:02あのびっくりしたような
01:06:05無意識に培われてた
01:06:06こういうコンプレックスみたいなものが
01:06:09その時に
01:06:11バチッとこう
01:06:12どういうんですか
01:06:13一致させられた
01:06:14
01:06:16お前やねっていう
01:06:17一致させられたっていうような感覚ですね
01:06:21自分が何になるかってことは
01:06:23はっきりせないかんじゃないかと
01:06:24自分がね
01:06:26日本人のような振る舞いするから
01:06:27かえってね
01:06:29差別されるんだ
01:06:30自分がね
01:06:31堂々と本命になってみなさい
01:06:33なんで日本の友達を悪く見るはずがないじゃないかと
01:06:36まあいいことで
01:06:38まあこう
01:06:39励ましたりです
01:06:42葉っぱかけたりするわけだけれども
01:06:43それっていうのが
01:06:46当時の私自身やっぱり非常に
01:06:49怖いことで
01:06:53そういう意味では
01:06:54本当に怖いこと
01:06:55自分自身にとって怖いことを
01:06:58その前人は
01:06:59一生懸命進めてくれてはるんですけども
01:07:04正直申し上げて
01:07:06本命を名乗るっていうのは
01:07:07そういったネガティブな
01:07:08なんていうんですか
01:07:10世界に自分自身が自分であえて
01:07:12踏み込んでいこうとする
01:07:14そんな
01:07:15そういう感じ
01:07:17ではありましたね
01:07:21なんかまあ隠そうとかいう
01:07:22明確な
01:07:23はっきりとした目的しかなかったとは思うんですけどもね
01:07:28あえて本命を名乗らんでも
01:07:29金を殺したかで
01:07:30全然いいじゃないっていうような
01:07:33それでも子どもたちは
01:07:39民族学級の中では
01:07:40本命を名乗り始めました
01:07:43しかし子どもたちの親が
01:07:46数名を希望するという現実に突き当たります
01:07:50子どもは先生の話を聞いて
01:07:55本命を名乗るって言ったら
01:07:57今度は親がプレッチをかけるんです
01:07:59その親が
01:08:00
01:08:02戦前生まれの親の場合は
01:08:05いろんな差別を受けて
01:08:07学校に行ってるから
01:08:09なかなか子どもにね
01:08:11本命を名乗るって言いにくい
01:08:13言えない
01:08:14それで今度は仕方ないから
01:08:16親の教育が大事だということで
01:08:19そして
01:08:20当時の過去の校長と
01:08:24私が家庭訪問をしながら
01:08:27親にね
01:08:27理解を求める
01:08:30そういうね
01:08:31またよくもしたわけです
01:08:35キム・ヨンヘさんと同じ学校に勤めていた
01:08:43日本人教師の岡本稔さん
01:08:46在日の親をキムさんとともに訪ね
01:08:51本名を名乗るよう説得に当たりました
01:08:54やっぱり先生
01:08:59商売でけんようになるからな
01:09:01あんまり言わんといてくれ
01:09:03言うようなことを言われましたな
01:09:04それでもなと
01:09:07言うでしょ
01:09:08そんなによく分かっていると言います
01:09:11大事なこともよく分かっていると
01:09:14そうやけど生きていくには
01:09:16そうしかないね
01:09:17そんなにもう言いようがないです
01:09:20女の人が
01:09:23金先生にな
01:09:24日本人なんかに分かるはずがない
01:09:28金先生で叱られていまして
01:09:30そんなに民族教育みたいなの
01:09:34分かるはずがない
01:09:35私の苦しみが
01:09:37それは僕答えましたけどな
01:09:41児童が本名を名乗れないのは
01:09:45本名で呼ばない
01:09:47日本人の問題でもあるのではないか
01:09:49岡本さんは同僚に
01:09:53本名で呼ぼうと働きかけますが
01:09:56反応は冷ややかでした
01:09:58教師でもね
01:10:01教師でもそれは
01:10:03はっきりしたことを言うのもおりますしね
01:10:06本名みたいな
01:10:08別に名乗らせても
01:10:09不自由してへんから
01:10:10言いますわな
01:10:12なかなかそれ遊んでもね
01:10:15なかなかそんな言うたぐらいで
01:10:19簡単にいきませんで
01:10:21それは本名を名乗らせたけれども
01:10:25親も反対するしね
01:10:27本人も嫌がるし
01:10:29それを無理やりやらしてね
01:10:31学校そのものを否定するようなね
01:10:33発想が生まれても
01:10:34困りますからね
01:10:36学校って面白いって楽しいっていうように
01:10:40子供をね
01:10:41持っていかないといけませんから
01:10:42そこが一番困りましたな
01:10:47同じ頃大阪の中学校で
01:10:56ザーニチコリアンの教育に向き合っていた人がいました
01:10:59稲富進さん80歳
01:11:04今も多くのザーニチコリアンが学ぶ
01:11:10式辞教室でボランティアとして教えています
01:11:14ちゃんと意味を考えながらね
01:11:17読むと
01:11:18自然に生きるところが分かってくる
01:11:23稲富さんは当時
01:11:27日本の学校に在籍する
01:11:29朝鮮人児童生徒の教育を考える会を立ち上げ
01:11:34その代表となります
01:11:35そこで取り組んだのが
01:11:39日本人として
01:11:40ザーニチの子供たちの名前を
01:11:42どう呼ぶかという課題でした
01:11:44本名を知りながら本名で呼ばない
01:11:51日本人というのはね
01:11:53それが当たり前みたいになっていたのは
01:11:56何が問題かといえば
01:11:59この子供さん
01:12:02この子供さんが
01:12:04日本民族とは異なる
01:12:07朝鮮民族につながる子供さんだという
01:12:11自覚を持って対するということは
01:12:18当たり前なのに
01:12:19日本名で呼んだり
01:12:22日本人と同じようにして
01:12:25取り扱ったりすることが
01:12:28いびつさを感じない
01:12:32そのいびつさを感じないところに
01:12:36日本人の課題があると思うんです
01:12:41こうした取り組みは
01:12:43大阪市の教育指針に影響を与えました
01:12:471974年
01:12:50本名を使用する指導を徹底することが
01:12:54初めて打ち出されました
01:12:55当初は
01:13:04金四平さんたち教師の熱意で
01:13:06多くの子供が本名を名乗りました
01:13:09しかし小学校を卒業後
01:13:14進学するにつれて
01:13:15次第に通名に戻っていくのが現実でした
01:13:19本名を名乗れないということが
01:13:25これほど頑固に生き残るのかと
01:13:28なんで理解してくれないのかと
01:13:31本名とは生きていけないような社会やから
01:13:35本名を名乗って生きられるような社会でないと
01:13:41これは社会が
01:13:42日本の社会がそうならないと
01:13:44どうにもならないんです
01:13:45キム・ヨンヘさんの教え子
01:13:52キム・テソンさんも
01:13:54大学生になると通名に戻していました
01:13:57しかし22歳の時
01:14:01本名を名乗ります
01:14:03そのきっかけは
01:14:05中学校の教師になろうと
01:14:07教育実習で母校を訪れた時の体験でした
01:14:11やっぱり教育実習で感じた空気っていうものが
01:14:20自分たちが小学校・中学校の時と
01:14:23そんなに変わらない状況が
01:14:25まだ今の学校現場でね
01:14:27そのまま続いてるんやと
01:14:30やっぱりその同胞の子供が
01:14:33脳がパッと上を向いてね
01:14:37その韓国人、朝鮮人っていう民族的なものが
01:14:41パッと目の前に示された時に
01:14:45思わず人を向いてしまうので
01:14:47ところがパッと自分自身がやっぱり前を向くことができるような
01:14:52そういう実践を自分が本名を名乗ることによって
01:14:56自分自身がね
01:14:57できるじゃないかと
01:14:59教団に立つ時に
01:15:00その時にも自分の中で
01:15:03そういったそのオドオドした自分自身
01:15:05民族に対してね
01:15:06オドオドした自信のない自分から
01:15:09パッと切り替えて
01:15:11やっぱりこう
01:15:12在日韓国人として生きていくんやと
01:15:15それは自分のためだけではなくて
01:15:18そういうクラスの子供たちに
01:15:22やっぱりこう
01:15:23きちっと自分の姿を示していく
01:15:26こうやって君の先生に
01:15:28やってこられたことなんだよなという
01:15:31そういうやっぱり思いでしたね
01:15:351983年から始まった
01:15:43生野民族文化祭
01:15:45在日2世たちは呼びかけました
01:15:52一つになって育てよう
01:15:54民族の心を
01:15:56魂を
01:15:57文化祭の中心メンバーとなり
01:16:04本名で生きていくことを決意した
01:16:06キムテソンさん
01:16:08中学校の講師として
01:16:11民族学級で子供たちに
01:16:13その思いを伝えていきました
01:16:1590年代になると
01:16:24イカイノは在日コリアンの町として
01:16:27その個性を打ち出していきます
01:16:29商店街には日本人も訪れるようになりました
01:16:34在日2世の甲ヨンチョルさんです
01:16:46通名を名乗ってきましたが
01:16:4842歳から本名を名乗りました
01:16:51そのきっかけは
01:17:04一冊の本との出会いでした
01:17:06本名は民族の誇り
01:17:10キムヨンヒさんの著書でした
01:17:13これを読んだ時はちょっと
01:17:15体が震えましたね
01:17:18こうヨンチョルさんは
01:17:26外国人登録書に
01:17:28それまで記していた通名を抹消します
01:17:31息子のヒョゲさんも
01:17:33本名を名乗るようになりました
01:17:35最初は結構変な名前とか
01:17:39言われたんですけど
01:17:40でもこういう名前やから
01:17:42って言うしかないからね
01:17:44高校からの友達はみんな
01:17:46ヒョゲしか知らんのね
01:17:47そうです
01:17:47小中の子はコウスケを知ってるから
01:17:50きっと友達らは
01:17:51コウスケコウスケとか
01:17:52ゆう子もおるな
01:17:53なんかもう慣れてくると
01:17:56友達もコウスケって読むと
01:17:57ヒョゲの子呼びやすいとか
01:17:59慣れてきたらみんなで思うみたいで
01:18:01ヒョゲヒョゲって言って
01:18:03チェジュ島からやってきた母親
01:18:09その末っ子として
01:18:12大阪で生まれた
01:18:13コウヨンチョルさん
01:18:14母のキムスニさんとともに
01:18:21ふるさとチェジュ島を訪れ
01:18:23息子のヒョゲさんにも
01:18:26そのルーツを伝えました
01:18:27民族学級で学ぶヒョゲさんを
01:18:37積極的に支えたヨンチョルさん
01:18:39息子が大池中学校に進学すると
01:18:45PTAの会長に立候補します
01:18:47それまでこの学校で
01:18:50在日のPTAの役員はいませんでした
01:18:53大池は
01:18:59会長ももちろん
01:19:01会長、会長、会計、初期
01:19:02監査かな
01:19:05そこには在日はいなかったと
01:19:07僕らは保護者としてね
01:19:09子どもを大池中学に通う保護者として
01:19:13同じように支えていかなあかんわけやから
01:19:16だからこういうのもやっぱり
01:19:20打開して直せがなあかんわけやなと
01:19:22当時PTAの会長だった坂本昭さん
01:19:30在日が会長になるのは前例がない
01:19:34こうヨンチョルさんに
01:19:37立候補を辞退するよう求める声が
01:19:39日本人の保護者から吹き出したといいます
01:19:42僕らの何代か前になろうというのもあったんですけど
01:19:47それも止められて
01:19:50それがうまいこといかへんかった
01:19:52結局は話し合いもしてなかったし
01:19:54そういう思いがある人もあって
01:19:56反発もありますやん
01:19:57お互い
01:19:57ここは日本の学校やから
01:19:59日本の人がなるのが当たり前というのは
01:20:00やっぱりニュアンスで思っていますでしょ
01:20:03それがどんな人も頭に入っているから
01:20:06なかなかそういう意味に入ってこられるんですわ
01:20:08降りたらいいんちゃうのみたいな
01:20:11簡単に言うたらね
01:20:12何を踏んで思いましたけどね
01:20:15そりゃ腹立たしいというか
01:20:18情けないなと思いましたね
01:20:21差別の構造というかね
01:20:28まだまだ根強く地域にね
01:20:34残っているなということが
01:20:38よう分かりましたね
01:20:42こうヨンチョルさんたち
01:20:45在日の保護者は
01:20:46坂本さんたちと何度も話し合いを持ちました
01:20:50やっぱりいろんな人と話し合いを持って
01:20:57最初はやっぱり嫌な部分もありましたよ
01:21:01嫌なことも言われたこともあるし
01:21:03決意ことも言われたこともあるけど
01:21:04それはなんでやっぱり理解してないから
01:21:07お互いが
01:21:08本名の話とか言うか
01:21:10自分の体験を言ったし
01:21:15民族学級の話とかね
01:21:19何しか僕が関わってきたこと
01:21:22ずっとずっとこう
01:21:23差別の話をね
01:21:25結構こうしましたね
01:21:27これ理解したらやっぱりだんだん変わりますしね
01:21:30やっぱり話の持っていき方も変わるし
01:21:33接するのも違うしね
01:21:36今まで避けとったところも
01:21:38避けないようになって
01:21:39やっぱり自然的に話が入っていけるような形になるね
01:21:43そういうあれです
01:21:44この時は坂本さんが会長に留任し
01:21:51甲ヨンチョルさんが副会長になることで
01:21:54折り合います
01:21:55これがきっかけとなり
01:21:57間もなく在日コリアンの会長が誕生しました
01:22:01以来交流を深めてきた
01:22:10在日コリアンと日本人の保護者たち
01:22:136年前にバンドを結成しました
01:22:16大池中学校PTA親父バンド
01:22:27異界の舞台に日本と在日の架け橋となりたい
01:22:31講演は150回を数えました
01:22:34歴代のPTA会長たち
01:22:42在日として会長となった人も参加しています
01:22:45お仕事を持っています
01:22:46在日として初めてPTAの会長になりました
01:22:51ご協力ありがとうございました
01:22:52親父バンドが公演の旅に歌う
01:23:03イムジン川
01:23:04南北に分断された朝鮮半島の
01:23:09悲哀を歌っています
01:23:11それぞれの言葉で歌い
01:23:30互いの壁を乗り越えようとしています
01:23:33この差別というものはやっぱり
01:23:50してもあかんしされてもあかんと
01:23:52知らんからしてるやつもやっぱりあかんと
01:23:56そうやったらやっぱり知ることが大事
01:23:58知ってダメならなくしていかない
01:24:00外国人差別をまた子供にも受け継いでいくのかと
01:24:03また子供を差別者にするのかという話だと思うんですね
01:24:07だからそういうのをやっぱり僕らの代でね
01:24:10切っていきたいというように思いになりましたね
01:24:14かつてイカイノと呼ばれた町
01:24:19今ではコリアタウンとして知られるようになりました
01:24:29韓流ブームの中で各地から多くの日本人女性客も
01:24:45訪れるようになりました
01:24:46甲ヨンチョルさんの息子
01:24:55在日三世のヒョゲさん
01:24:57小学校からずっと日本の学校で学んできました
01:25:01ヒョゲさんは去年1年間韓国に留学しました
01:25:18その中で韓国の方はやっぱり
01:25:25向こうでもちろん去っているから
01:25:26国が違うからやっぱりきっと
01:25:27韓国のものの考え方で
01:25:31韓国の接し方をするんですよね
01:25:32その時にこう
01:25:34自分が今までしてきた考え方ややり方と
01:25:37全然違うから
01:25:38そこでこう
01:25:40やっぱり自分は日本人なのかなって
01:25:46思ったところがありましたね
01:25:48でもその中でこう
01:25:50自分の血がこう
01:25:53全部韓国人じゃないですか
01:25:55もう両親もおじいちゃんもおばあちゃんも
01:25:57みんな韓国人だからね
01:25:59在日僕の中では
01:26:01常にこう日本も好きやし
01:26:04韓国の自身の心を持っているかなと思っているんです
01:26:09祖母の金鎮さん
01:26:13貧しさから逃れようと
01:26:16たった一人で海を渡りました
01:26:18それから73年
01:26:22子供と孫は8人になりました
01:26:25おばあちゃんが結局
01:26:29昔戦争があった時に
01:26:32日本に来たやん
01:26:34日本に来て
01:26:35僕のおじいちゃんのこと分からへんけど
01:26:38おじいちゃんと結婚して
01:26:39お父ちゃんが生まれて
01:26:40ヒョゲさんは
01:26:45この街で在日一世のお年寄りの介護を仕事にしていこうと考えています
01:26:51やっぱりここにはまだね
01:26:56この地域に来日の方たち多いんで
01:27:01その方たちをこう
01:27:04もっとこうね
01:27:07いわゆるケアだけでもなくて
01:27:12自分が韓国に行って住んで分かったことを
01:27:15より身近になって接することができると思うんですね
01:27:19ちょっとでもね
01:27:21ここで地域でやることに意味があるんじゃないかなって
01:27:25自分がすごい在日っていうことはこれからもね
01:27:30たとえ聞かせたとしてもなくならない事実だと思うんで
01:27:33それを受け入れて
01:27:35ずっとやっていきたいなと思います
01:27:38戦後日本で生きてきた在日コリアン
01:27:46自らの言葉を学ぼうとして始めた民族教育は
01:27:57様々な障害と向き合ってきました
01:28:00今朝鮮学校で学ぶ子どもたち
01:28:05朝鮮籍や韓国籍、日本籍まで多様化しています
01:28:10今では日本の歴史や俳句など
01:28:26日本文化の教育にも力を入れています
01:28:30互いの文化や民族の違いを認め合い
01:28:44共に生きていくことができるのか
01:28:47イカイノの歩みは日本の在り方を問い続けています
01:29:17ご視聴ありがとうございました
01:29:29ご視聴ありがとうございました

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