- 2025/6/2
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ニューストランスクリプション
00:00第1回 アメリカの科学雑誌
00:30残り時間は過去最短となった
00:34気候変動の進行
00:37AIのリスク
00:39そして核の脅威が
00:43時計の針を進めた
01:00人類史上初めて原爆が落とされた町
01:09広島
01:10ここに
01:13終末時計の針を押しととめようとする力となった
01:162人の少女がいた
01:182歳で被爆した佐々木貞子と
01:2513歳で被爆した中村節子である
01:30佐々木貞子は
01:34原爆の放射線障害による白血病で
01:3812歳でこの世を去った
01:41佐々木貞子は
01:46最後まで生きる望みを捨てず
01:49鶴を織り続けていた
01:51佐々木の物語は
01:58世界各国で翻訳され
02:00時と場所を越え
02:02語り継がれていく
02:03そして
02:06知られることのなかった
02:08原爆被害の真実を
02:10世界に伝えることとなった
02:12中村節子は
02:19被爆直後生き埋めとなったが
02:21奇跡的に生還した
02:23しかし
02:24大切な姉と老いを亡くした
02:28戦後は
02:32アメリカ・カナダへ移住し
02:34英語で原爆の被害を語った
02:37生々しく力強い言葉は
02:42核の恐怖を
02:44数字や理論ではなく
02:46人間の苦しみとして伝え
02:48世界の人々の心を揺さぶった
02:51二人の願いは
02:58身を結ぶ
03:00世界初の
03:04核兵器禁止条約の制定である
03:06節子は
03:08条約制定に力を尽くした
03:10NGOの一員として
03:12ノーベル平和賞を受賞した
03:14映像の正規
03:36バタフライエフェクト
03:372回シリーズで
03:40核の80年を振り返る
03:42今回は
03:44核廃絶に向けて
03:46大きなうねりを起こした
03:47二人の少女の記録
03:49誰かのささやかな営みが
03:53時空を超え
03:55時に世界を動かすことがある
04:08これは
04:09原爆投下の1ヶ月後に撮影された
04:11広島の映像である
04:13爆心
04:19あいおい橋
04:20敵の投下した爆弾は
04:22地上およそ550メートル
04:25あいおい橋上空付近で炸裂したと言われる
04:28木造家屋は全て押しつぶされ
04:33木を発して後をとどめず
04:35雨のように曲げられた
04:37鉄筋の建物だけが残っている
04:398月6日午前8時15分
04:452歳だった佐々木貞子は
04:48爆心地から1.6キロの自宅で
04:51母たちと朝食をとっていた
04:53爆風で吹き飛ばされたが
04:56奇跡的に無傷だった
04:58火の手が迫り
05:02一家は近くの太田川へ逃げて船に乗った
05:06そこに雨が降ってきた
05:11放射性物質を含んだ黒い雨だった
05:15その後
05:33貞子の両親は広島市内で経営していた
05:38利発店を再開し
05:39生活の再建を図る
05:42貞子も大きな病気をすることなく
05:47小学校へ入学する
05:49しっかりもので運動神経も抜群
05:54体育の先生になることが夢だった
05:57とにかく運動場に出ると
06:02もうすごい活躍をする
06:04飛び箱、鉄棒、ドッジボール
06:08どのスポーツも女の子では
06:12佐田ちゃんがナンバーワンだった
06:13爆心地から1.8キロ
06:23広島駅にほど近い場所にいたのが
06:2613歳の中村節子である
06:29高等女学校に通っていたが
06:33学徒動員のため
06:35陸軍施設で暗号の解読を手伝っていた
06:39その瞬間
06:43建物は爆風で崩れ
06:46節子は下敷きになった
06:53その時、そばで同じく
07:13生き埋めになっていた軍人が
07:14こう励ましてくれた
07:16諦めるな
07:20動いていけ
07:22光が見えるだろう
07:27張っていくんだ
07:30同級生の多くが命を落としていた
07:37節子は軍人の言葉を頼りに
07:42瓦礫の小さな隙間から這い出した
07:44しかし外は変わり果てていた
07:48親族5人も犠牲となった
07:55大好きな姉と可愛がっていた老いは
07:59肌が焼き落ち、重い火傷を負っていた
08:03節子は2人を懸命に看病したが
08:081週間後、相次いで亡くなった
08:11人々は命を負けた
08:15彼らは強いの人の規模を
08:16知らながら
08:18彼らは2人の規模だ
08:22彼らは2人の規模だ
08:23彼らは1人の規模だ
08:28彼らは2人の規模だ
08:31彼らは3人の規模だ
08:34彼らはデカメラの人の規模だ
08:38彼らは1人の規模だ
08:41インセクト
08:42オーアニモー
08:49広島では
08:511945年の年末までに
08:5414万人が亡くなったと言われる
09:04原爆の被害は
09:06海外はもちろん
09:08日本でも広く知られることはなかった
09:11GHQは
09:16プレスコード・報道統制を敷き
09:19被爆地の様子を伝えることを禁じた
09:27被害を記録したフィルムも
09:29GHQに没収された
09:35このフィルムもその一つ
09:38理科学研究所などの科学者が行った調査を
09:41日本映画社が記録したフィルムである
09:48およそ200人の調査団が
09:50広島と長崎に派遣され
09:53放射線量や爆風の規模などを調べていた
10:05病院では解剖も行われ
10:10人体への被害も記録されていた
10:18だが
10:19映像が日本で公開されたのは
10:22戦後20年以上経ってからだった
10:25異例碑に原爆の言葉を使うこともできなかった
10:38広島市立第一高等女学校の異例碑には
10:42代わりに原爆開発を導いた
10:45アインシュタインの公式が彫られた
10:48正確な実態が伝わらない中
10:55被爆者たちは
10:57差別や偏見に苦しんだ
11:01被爆による病は
11:03伝染病とみなされた
11:06原爆の熱線によってできた
11:10火傷の跡
11:11ケロイドも差別の対象となった
11:14原爆の熱線によってできた
11:16火傷の跡
11:17ケロイドも
11:19差別の対象となった
11:22原爆の熱戦によってできた火傷の跡、ケロイドも差別の対象となった
11:41中でも若い女性の体に残されたケロイドは結婚や就職の壁となった
11:48彼女たちは原爆乙女と呼ばれた
11:53道を歩いていて子供たちにおばけとか鬼ババアとよく言われた
12:09朝目が覚めた時、ひょっとしてケロイドのない元の体に戻っていないものかと
12:17いつも思って暮らしてきた
12:21孤立する原爆乙女を救おうとする人物が現れた
12:32広島流川協会の牧師だった
12:35谷本清である
12:38教会は倒壊したが、谷本は爆心地から3キロのところにいて無傷だった
12:48そのことが、谷本を強い使命感に借り立てた
12:54その後、負傷者の救護に当たったり、水を配ったり
13:01献身的な救援活動を行った
13:04私は、誰の顔も生死できず
13:12弱い弱い、惨めな敗北牧師として逃げた
13:17被爆以来の観難進行を考える時
13:22広島市民のために何かしたいと
13:26祈らずには折れなかった
13:33広島の原爆乙女25人は、ニューヨークの病院で痛ましい傷跡を癒すことになり
13:411955年、谷本は25人の原爆乙女を連れてアメリカに渡る
13:48ケロイドの治療を受けさせるためだった
13:5325人だけではない
13:56谷本は、できるだけ多くの被爆者を救いたかった
13:59資金はいくらあっても足りなかった
14:03谷本は、戦前留学していた頃の人脈を頼り
14:09アメリカで寄付を集めるために、ある行動に出る
14:13有名テレビ番組への出演だった
14:27谷本は、全米4000万人の視聴者に
14:33英語で原爆の被害を訴えた
14:39この野党の居住民を受けた
14:43全国の室に火力を使って、
14:45私は全国の戦闘を生きている
14:48より多くの人が逃げている
14:51都道を逃げている
14:53自分の死亡に撃ている
14:56全国の人に避けた
14:59全国の戦闘を抜き,
15:03当時アメリカでは原爆投下は正しい選択だったと考える人が大多数だった
15:18被害についてほとんど何も知らなかった
15:22谷本に内緒でゲストが招かれていた
15:33原爆を投下したB-29エノラゲイ号の副操縦士ロバート・ルイスである
16:03ご視聴ありがとうございました
16:33その時の彼の姿は
16:38実に気の毒なほど痛ましいものであった
16:43このテレビショーによって
16:46治療費の募金運動が始まった
16:54アメリカ中から手紙が届き
16:56寄せられた寄付は5万ドルに上った
17:00原爆乙女25人は
17:051年にわたってケロイド治療の手術を受けた
17:23アメリカで整形手術を受けた原爆乙女は
17:261年ぶりで岩国飛行場に降り立ちました
17:29痛ましかった傷跡もあまり目立たなくなっています
17:34広島で谷本の活動を手伝っていたのが
17:41生き埋めから生還した中村節子だった
17:45姉と老いを亡くした後
17:50節子は谷本の教会に通うようになっていた
17:53節子は谷本の活動を通じ
17:5921歳の時
18:01夫となるカナダ人の宣教師と出会う
18:06谷本は節子の結婚式にも駆けつけてくれた
18:13谷本先生は
18:18アメリカで原爆被害を伝えた先駆者だった
18:23先生の教えを通して
18:26自分にできることを問い続けながら
18:30行動する習慣を身につけていった
18:331954年
18:39節子は社会福祉を学ぶために
18:4322歳でアメリカに留学する
18:45この頃日本では
18:49核兵器への恐怖が広がる事件が
18:52またも起こっていた
18:531954年3月に起こった
19:18第五福祉丸事件である
19:23太平洋ビキニ干渉で行われた
19:28アメリカの水爆実験によって
19:31創業していた日本の漁船
19:34第五福竜丸が
19:35放射性硬化物
19:37死の灰を浴びた
19:3923人の乗組員全員が被爆した
19:44太平洋沖で捕れたマグロからは
19:50放射性物質が検出され
19:52原爆マグロと呼ばれた
19:54放射性物質を含んだ雨が
20:01日本に降った
20:03留学直後の節子は
20:09アメリカの新聞社から
20:11第五福竜丸事件についての意見を問われた
20:14またも日本を襲った核の被害に
20:19節子は正直に
20:21怒りを感じると述べた
20:23すると
20:24避難の手紙が届くようになった
20:27アメリカの核政策への批判と受け取られたからだった
20:32真珠湾攻撃を仕掛けたのはお前たちじゃないか
20:39アメリカが嫌なら日本に帰れ
20:43あっ そうなんだ
20:47私は 切極に入ってるんだと
20:52辛さっていうもの
20:54孤独っていうものを大いに感じました
20:55というものを大いに感じました
20:571952年4月
21:08日本は独立を回復し
21:11プレスコードが解かれた
21:13その年の夏に
21:17雑誌朝日グラフが被爆者の写真を掲載する
21:21日本人の多くが初めて
21:26原爆の被害を知った
21:29原爆を題材に激映画も作られた
21:371953年に制作された広島
21:51被爆者を含め8万人を超える広島市民が出演した
21:58映画の中で被爆者を苦しめていた病が描かれている
22:11放射線障害による急性白血病である
22:23広島では被爆後数年経ったこの頃から
22:29患者数が急激に増えていた
22:322歳で被爆した佐々木貞子
22:42小学6年生
22:4411歳の冬に
22:47異変が現れた
22:48直前の秋の運動会では
22:55リレーの選手として活躍するほど
22:57健康そのものだった
22:59楽しみに待っていた運動会の日
23:07私の一番胸を打っているのは
23:11リレーのこと
23:13お母さんが見ておられると思うと
23:17無我夢中で走りました
23:26その冬
23:27風邪をひいた佐々木は
23:30顎や首がひどく腫れた
23:32検査の結果
23:35急性リンパ性白血病を発症していることが分かり
23:40入院することになった
23:42両親は病名を伝えなかった
23:48だが佐々木は
23:51血液検査の結果を
23:53密かに書き写していた
23:55病室の患者同士の会話で
23:59白血球の数が10万を超えると死ぬらしいという噂を耳にし
24:05自分の命が長くないと思っていた
24:09肌寒い日
24:16突然佐々木ちゃんが
24:19うちもああして死ぬんじゃろうかと言った
24:23その時
24:26ああ
24:28この子は自分の病気を知っているんだと思った
24:32病室での日々が続いていた
24:38被爆10年の夏
24:41名古屋の高校から
24:47原爆症患者のためにと
24:50佐々木の病院へ
24:52センバズルが送られてきた
24:54それを見た佐々木は
24:58病気が治ると信じ
25:01薬を包んだ紙や
25:03お見舞い品の包装紙を使って
25:06自分でも鶴を織り始めた
25:08誰かが手伝おうとしても
25:17佐々木は自分で鶴を織ると言って
25:19聞き入れなかった
25:21病状が悪化するとともに
25:26織鶴は次第に小さくなった
25:30それでも
25:32佐々木は織ることをやめず
25:35枕元に飾り続けた
25:38真心を込めておるわけですよ
25:48綺麗なのですね
25:50ああこんにちはできた
25:51いうような喜びですね
25:52ああやっぱり
25:54こんつけたらだめよ
25:55何回言ってもいいから
25:57いいから
25:58考えがあるんだから
25:59言わなかったんですよ
26:01織鶴はセンバを超えた
26:05だが願いは叶わなかった
26:11貞子は8ヶ月の糖病の末
26:15亡くなった
26:1612歳だった
26:19貞子の死後
26:28同級生たちは
26:30貞子をはじめ
26:32原爆症で亡くなった子供のために
26:35原爆の子の像を建てようと
26:37募金活動を始めた
26:381957年
26:43広島を訪れた外国人ジャーナリストが
26:46貞子と織鶴の物語
26:49そして同級生の募金活動を知る
26:52ドイツ出身のユダヤ人
26:58ロベルト・ユンクである
27:00ユンクは
27:05ホロコーストで
27:08親族十数人を失っていた
27:10広島は
27:16ホロコーストの惨劇から偶然
27:19免れた私自身と結びついている
27:23言葉を持たない
27:27罪なき多くの戦争犠牲者のために
27:30私は声を張り上げようと思ったし
27:34また
27:35そうしなければならないと思った
27:381958年5月
27:44原爆の子の像が完成
27:47全国3000以上の学校が
27:50募金に参加していた
27:51広島の少年少女が
27:54全国の友達に呼びかけて
27:56今年の5月建てた
27:58原爆の子の像の前では
27:59平和を祈る青少年の集いが開かれ
28:03児童や生徒およそ3000人が
28:05美しい花束と織鶴を捧げ
28:08原爆で亡くなった友達の霊を弔いました
28:11翌年
28:18ユンクは
28:20広島の被爆者を描いたルポルタージュ
28:23廃墟の光を出版する
28:26貞子と織鶴の物語が
28:30初めて世界へ伝えられ
28:32ヨーロッパ各国で翻訳される
28:34ベストセラーとなった
28:36その2年後
28:40核兵器を使用した国
28:43アメリカの中からも
28:45被爆者の声を伝えようとする人が
28:47現れた
28:48バーバラ・レイノルズ
28:52原爆被害の調査のため
28:55派遣された夫について
28:57広島に移住していた
28:59多くの被爆者が次々亡くなっていることを知り
29:05原爆のこの像の下で
29:08核廃絶を求める署名活動を始めた
29:10広島の人々には
29:16今でも放射能による死が続いていることを知った
29:21私の心は重く沈んだ
29:26と同時に
29:28私に何ができるだろうかと考えた
29:32そして
29:36バーバラは死罪を投じ
29:39被爆者の声を世界に直接届ける
29:42証言の旅に出る
29:45被爆者たち25人とともに
29:52アメリカ、イギリス、ソ連など
29:56核保有国などの150都市を回った
30:00加外国であるアメリカの市民が
30:03被害者の声を直に伝えるという
30:05画期的な試みだった
30:121964年には
30:15原爆の投下を決断した
30:17当時の大統領トルーマンと
30:19被爆者たちとの面会を実現させた
30:26The objective, yes, that you're interested in
30:30was to end a war
30:32in such a way that there would not be
30:36half a million people killed on each side
30:40and that many agents
30:41from then on
30:43and that's all it was
30:44You know when you're running a war
30:48Yes
30:48The objective is to win it
30:50Mm-hmm
30:51And you didn't win it
30:53Well, it was necessary
30:55面会はわずか3分ほどだった
31:03私たちが望んだ謝罪は一言もなかった
31:09幼い命のたくさんがあることを
31:11考えなかったのか
31:13カナダ、トロント
31:20留学を終えたセツコは
31:25カナダ人の夫とともにこの地に移り住み
31:29二児の母となっていた
31:351970年
31:38子育てが一段落し
31:40セツコは
31:41トロント市の教育委員会に
31:43ソーシャルワーカーとして就職する
31:46移民の子どもたちへの学習支援や
31:49いじめの対応に苦慮する教師と関わる中で
31:53セツコは
31:54被爆体験を子どもたちに語るようになった
31:59関心を寄せる教師から
32:03我が校で被爆体験を語ってほしい
32:07と声がかかり始めた
32:10就職するまでは子育てに必死
32:14もっと果たすべき責務が
32:17私にはあるのではないか
32:19いてもたってもいられなくなった
32:23セツコは
32:28被爆30年となった1975年
32:31トロント市庁舎で原爆展を開く
32:35地元の教育関係者や作家が賛同し
32:41セツコは市民団体を結成した
32:44社会福祉の仕事を続ける中で
32:48自分が果たすべき役割を知ったのだった
32:51この頃
33:02貞子と売り鶴の物語は
33:06世界中で知られるようになっていった
33:08その力となったのは
33:12自動小説
33:14貞子とセンバズルだった
33:16作者のエレノア・コアは
33:29広島を訪れた時に原爆の子の像を見て
33:33死に立ち向かいながら鶴を織り続けた
33:37貞子のことを知った
33:39貞子は家族に向かって
33:46痛くてたまらないとか
33:48そんなことは決して言わなかった
33:51彼女は強い子だった
33:55何よりも貞子の勇気を伝えたいと考えた
34:01著作は海外の学校教育にも取り入れられるようになる
34:19十数カ国で翻訳され
34:22アメリカをはじめ世界中の子供たちに
34:26広く読まれるようになった
34:27これはサンフランシスコで行われた
34:48被爆者を追悼する催し
34:50小学生が数百羽の鶴を追って展示した
34:56織り鶴は核廃絶と平和を願う人々の象徴となっていく
35:041982年6月
35:10ニューヨークでは国連の軍縮総会に合わせ
35:14核廃絶を求め100万人が集まった
35:18当時ソ連のアフガニスタン侵攻を機に
35:24米ソ間の軍閣競争が激しさを増していた
35:27デモ行進にはセツコもカナダから参加していた
35:32日本の鶴を持っていた
35:361万人の人が来た
35:39ニューヨーク
35:40We walked together
35:42通り街の街を街に走っていた
35:45マンガタンに関していた
35:46Central Park
35:48We couldn't even get in
35:50It was so packed
35:51That was an amazing experience
36:022012年8月
36:05広島の平和記念式典に
36:08一人のアメリカ人の姿があった
36:11原爆投下を決断したトルーマン大統領の孫
36:16ダニエルである
36:18彼もまたエレノアコアの小説
36:22サダコとセンバズルを知り
36:24心を動かされた一人だった
36:32アメリカ人の生命を削減するために
36:39全て変わりました
36:41私はアトミックボンバーの被害を
36:45最初に学びました
36:51祖父が決断した原爆投下が
36:54この町に何をもたらしたのかを
36:56初めて知った
37:02サダコの兄
37:03マサヒロとも会った
37:10過去の戦争について
37:12色々意見
37:13様々な違いがありますけども
37:15それを乗り越える心がけ
37:18それが思いやり
37:20それがサダコの
37:22オリズムに込めた思いですから
37:26ダニエルは
37:28核廃絶運動に身を投じていく
37:31一人の少女が
37:33オリズルに託した願いは
37:35数十年の時を経て
37:37人々を突き動かしていく
37:442017年3月
37:4885歳になった
37:49セツコは
37:50ニューヨークの国連本部を訪れた
37:53この日
37:58歴史的な会議が開かれる
38:01核兵器そのものを禁止するという
38:03国際条約制定に向けた会議だった
38:10セツコは2007年から
38:12核廃絶を目指す国際NGO
38:14ICANの活動に加わっていた
38:19そこで英語による被爆証言を10年間続け
38:23各国の政府関係者やメディアに
38:26核廃絶を直接訴えかけてきた
38:30そして
38:31この日を迎えたのだった
38:34セツコは
38:37各国の政府関係者に向けたスピーチを任された
38:42語ったのは
38:4472年前に見た
38:47幼い老いの
38:48最後の姿だった
38:53マイフォーイルオーネフュー
38:57フォアツチャンスフォームディ
38:59インツーアンアンベクナイザボー
39:03ブラックンデスウォーロン
39:06メルテッチャンクフレス
39:09ダブラックフォームディ
39:39ご視聴ありがとうございました
40:09この使用などが全面的に禁止された
40:12だがこの会議に核保有国は参加していなかった
40:21日本も欠席した
40:25日本代表の席にはメッセージ付きの織鶴があった
40:39翌年に発表された終末時計
40:45針は終末に向け30秒進んだ
40:51世界の指導者が核戦争や気候変動の脅威に対応しなかったというのが理由だった
41:00セツコが参加したNGOICANは核兵器禁止条約への貢献が称えられ
41:25ノーベル平和賞を受賞した
41:27セツコはアイキャンを代表してスピーチを行った
41:35語ったのは
41:38あの日
41:40生き埋めになった自分を励ましてくれた軍人の
41:44あの言葉だった
41:45ご視聴ありがとうございました
42:15受賞式の日
42:24節子のもとには広島の学生たちからたくさんの織鶴が届いていた
42:38あの日から80年
42:40貞子の同級生は数少なくなった
42:446年竹組の時親友だった河野富子さん
42:50今も貞子のことを次の世代に向け語り継いでいる
42:57貞子さんがかわいそうという気持ちと
43:01貞子さんでなくもし私だったら
43:04という恐怖に襲われ
43:06何とも言えないのはあの気持ちにありました
43:10世代の大切さ命の尊さを伝えるのが私の役割だ
43:15貞子が亡くなった翌年
43:20同級生たちは追悼文集を出している
43:24一人の男子生徒がこう綴っていた
43:29君を殺したのは誰だ
43:35憎い憎い原爆だ
43:38君を慰める唯一の道は
43:42原爆をこの地上からなくすことだ
43:46君よ安心したまえ
43:51きっときっと僕らの手で
43:54世界に呼びかけてなくしてみせる
43:57原爆の使われることを
44:01世界の平和の来る日まで
44:05世界の平和の来る
44:35人知を超えた巨大災害
44:50計らずもその後の世界を変えた
44:53破壊と変革の記録
44:56世代の整理を破壊
44:58そして今は世界の平和の来る
44:59日本の大切なソフトの発売
45:01世界の平和高に
45:03世界の平和の家
45:03世界の平和の国の
45:06日本の国の平和の国の
45:20世界の平和な国の
45:23平和の国の国を
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