- 一昨日
カテゴリ
📚
教育トランスクリプション
00:00やがていつの日か この国のすべてを
00:11僕らがこの手で 変えてゆくんだったよね
00:19あの時掲げた 僕らの畑が
00:26ひとり揺れている 時の風の中で
00:33おはようございます おはようございます
00:51戦時中招集され 陸軍にいた父の記録
01:06拘束されたという部分 その辺の記載がありまして
01:10それの厚生省の方に紹介をしたというものが 残っておりましたので
01:15父の名は東寺健太郎 働き盛り
01:2232歳からの10年間を過ごした場所は 菅野プリズンだった
01:30先般 戦争犯罪人として囚われた
01:398月30日 金曜 晴れ
01:45午後2時入所
01:48所持品検査 健康診断
01:52予防注射等を済ませ 独房に落ち着く
01:58室内設備の広さ約3畳
02:04机の蓋を取れば洗面台
02:08椅子の下は水洗便所
02:13家族と隔てること300里
02:18ふるさとに同じ虫の音を聞きつつ 第一夜の音につく
02:25父が描いたものはですね この辺りに並べておりました
02:50もっとたくさんあるんです
02:53藤治克也さん70歳父の日記を保管している父の健太郎が菅野プリズンで書いたのは1946年の入所から52年までの6年分
03:17残された人たち 家族も含めてですね
03:20自分 特に子供たちに対して父親がどういう人だったのかと
03:29何をやって 死刑で自分の命が失われるということは覚悟していたので
03:38どうやって死んでいったのかということを伝えたいという気持ちが一つあったと思います
03:44それともう一つはですね 事実何があったのかということを残しておきたいというものがあったんじゃないでしょうかね
03:56健太郎の家は博多商人の町川端の和文具店
04:08母うたにとっては大事な一人っ子だった
04:15母の愛情を一心に受けて育った健太郎は東京商科大学 現在の一橋大学に進学
04:26大学時代は剣道部の首相としてならした
04:32卒業した年に招集され
04:351939年 結婚したばかりの安代を残し 中国へ出征する
04:44途中 陸軍経理学校を挟み 3年を中国で過ごした
04:59福岡城の後に置かれていた西部軍に 主刑中尉として臨時招集されたのは1944年2月
05:13そして 運命の日が訪れる
05:251945年6月19日 深夜11時過ぎ
05:31福岡の町を米軍機が襲う
05:35飛来したB-29爆撃機は221機
05:39投下された焼夷弾 およそ1500トンが 市街地を焼き尽くした
05:47死者 行方不明者 合わせて1000人以上
05:51この中に 当時健太郎の母 宇多がいた
06:01翌日 遺体が安置された小学校で 健太郎は母を見つけた
06:08当時はお母さんとひと言軽く声をかけられ右ひざをついて男泣きに泣き崩れました
06:20西部軍司令部には 九州一円に墜落したB-29の搭乗員たちが集められていた
06:35司令部の大工小屋で 母の棺を作っていた健太郎は
06:40庭の隅が騒がしいことに気づき 様子を見に行くと
06:45そこで搭乗員たちの 処刑が行われていた
06:50私は処刑者として 最もふさわしいものだ
06:57自ら処刑を志願した健太郎は 刀を借り
07:04アメリカ兵一人の首を切った
07:10その後 さらに命令によって 3人の命を奪った
07:21健太郎は敗戦の翌年
07:251946年 戦犯 戦争犯罪員として連行される
07:37私は終戦と同時に 米軍によって囚われることを予想した
07:44ある人は逃亡を進めたし ある人は責任回避的な陳述を進めた
07:51しかし 私は事実をありのままで進むことを決心して
07:59静かに囚われる日を待った
08:04人は私を馬鹿正直と笑い あるいは楽観に過ぎると非難する
08:13しかし 私は真実ということを 唯一の道として選んだ
08:25安代との間には 2人目の息子が生まれていた
08:309月20日
08:35お母さんはよく私に
08:39お前は親思いで高校だから 私は本当にうれしいと言っておられました
08:46それにもかかわらず 親も妻子も不幸のどん底に突き落としてしまいました
08:54お母さん 教えてください
09:00私はどうしたら 憎しんを思うこの苦しさから 救われるのでしょうか
09:07どうしたら 家族は決して苦しんでいないと 信じられるでしょうか
09:13お母さん 教えてください
09:19どうかどうか お導きください
09:23菅野プリズンまで 面会に行った記憶がある
09:31健太郎の次男 信也さん
09:33よくは詳しくは知らなかったから 時々親父ともあんまり会ってないし 小さい頃はですね
09:44だってあの校中にいましたから 死刑囚だった時代なんかね
09:49そういう状況の中で 何か僕を連れてですね 私の母が
09:55私 信也って言うんですけど 信也行こうって言って
09:58親父に会わせたかったんだと思うんですよね 多分
10:03母の気持ちとしては
10:05東京 池袋にあった 菅野プリズン
10:14健太郎のもとへ 安代が1歳の次男を連れ 面会に訪れる
10:20安代、ありがとう 遠い福岡からはるばると子どもを連れ 汽車の混雑に揉まれての旅は どんなにつらかっただろう
10:36私はただ 君の顔を見ただけで ありがたさに涙がこぼれそうになった
10:43君や信也の顔をはっきりと見たかった
10:50しかし 私たちの間に貼られた金網が光って 霞がかけたようだ
11:01健太郎は 先般たちが描いた下絵をもとに 極中で版画を彫っている
11:13夫がいない中 安代は文具店を真相回転し 商売を続ける
11:31安代へ進展書を書く
11:33君との結婚が 私にとって最大の幸福であったのに
11:41君にとっては 最大の悲しみであったかと思うと苦しい
11:47だからといって 思わずにはいられない
11:52私たちには 2人の子どもがある
11:55君と私の愛の結晶であり
12:00私たち2人の 命と精神の延長である
12:07君は私のため
12:10子どものために 必死の戦いをしている
12:14私も戦わねばならぬ
12:17君は世の荒波と戦う
12:22私は静かに自分自身と戦う
12:27いずれもこの運命との闘争である
12:32横浜軍事法廷では 米軍によって捕虜の虐待や殺害が
12:48BC級の戦争犯罪として裁かれた
12:53健太郎がいた西部軍で 殺害された捕虜はおよそ40人
12:58戦争犯罪人として被告となったのは
13:02民間人も含め およそ60人だった
13:09西部軍事件の主任弁護人は
13:12アメリカ人のフランク・サイデル
13:15そして健太郎を担当したのが
13:18横浜弁護士会の 桃井刑事だった
13:25午前中 桃井弁護士と会う
13:28前から横浜裁判の仕事に 携わった人だそうで
13:34中年の働き盛りという感じだ
13:39私の弁護について 非常に困難で
13:43処刑者中最悪の条件にあるという
13:47そのことは十分承知しています
13:54承知しました
13:57志願されたのが 致命的な悪条件になっています
14:02私もそう思います
14:05私は処刑者としての責任は 喜んでおいますが
14:11殺人者としての罪は 来たくありません
14:15ごもっともです
14:18あなたがやらなくても 誰かが処刑したのですから
14:22その点はご希望に沿うよう できるだけの努力はします
14:28承認台に立って 自分の口から真実を述べようとした
14:36健太郎
14:37ももい様 承認台に立ちたく
14:44再度お願い申し上げます
14:47せめて自分の言いたいことを言って 判決を受けたいと思うのです
14:52しかし 健太郎のような処刑の実行者たちは
14:59承認台に立つことがかなわなかった
15:02重い判決を予想した健太郎は
15:08面会に来た安代には あえて楽観的な見通しを伝えた
15:1312月19日
15:20安代よ 私を嘘つきと君は責めるだろうか
15:26どんなに後で責められても
15:30私はそうするより仕方がなかったことを わかってほしい
15:34安代 明日法廷では軽い気持ちで別れよう
15:46判決間近 菅野プリズンの若いゼーラー 監視との会話
15:5312月22日
15:59私たちのいる六号棟に来る 十数名のゼーラーの中で
16:06特に私の親しい一人がいる
16:10君の気持ちはよくわかる
16:14君がお母さんを殺されて 怒ったのは当然だ
16:18もし僕がそのような立場に置かれたら 君と同じことをやったに違いない
16:26君もそう思うか
16:29僕にとってあまりに自然で そうするより仕方はなかった
16:36今でも君は 米兵に対して怒りを持っているか
16:41いや 全然持っていない
16:47今は母はアメリカ人に 殺されたのではなく
16:52大きな戦争のために 死んだとしか思っていない
16:554人処刑した時は どんな気持ちだったか
17:03死難するまでは 本当に怒っていたが
17:09処刑の位置に着いた時には ただ立派に処刑を遂行することより
17:15他は考える余地がなかった
17:17後で私の妻に この処刑のことを話したら
17:23妻は
17:25その飛行士たちには 奥さんや子供があったでしょう
17:30と言った
17:32僕は言葉がなかった
17:36しかし これが戦争というものだ と思った
17:41この翌日
17:51永久戦犯7人の死刑が 菅野プリズンで執行される
17:59死への恐れと 緊張が高まっていた
18:04そして
18:0512月29日
18:12遂に来るべき判決の日は来た
18:17公主刑
18:20これが私に与えられた 判決である
18:26健太郎に宣告されたのは 死刑だった
18:30当時健太郎の弁護を担当した桃井弁護士
18:43健太郎の裁判資料を手元にとどめていた
18:48非常に難しい事件ですよね 当時は
19:04処刑者の数が多いわけで
19:09それを何とか弁護したいという 情熱をお持ちだった桃井先生が
19:19こういう弁護方針の 依頼の手紙をもらって
19:25やるぞと思っていて それができなかった
19:29できなくて最悪の判決が出ちゃった
19:35そこの弁護人としての責任感といいますかね
19:41当時の裁判自体
19:44十分な審理が尽くされていなかった ということなんだろうと思いますね
19:49真鍋弁護士は 裁判の審理に不備なところがあったとしても
19:57先般裁判には 異議があったと話す
20:02危ういところで 戦争犯罪人が裁判にかけられないで
20:10処刑されるっていうことがあり得た
20:14裁判があることで 何が裁かれたか
20:18どういう犯罪を この軍人はやったかというのが
20:25記録されることになったんですね
20:28これだけでも非常に歴史的意味はあったと思うんです
20:33つまり検証ができる
20:35何が起きたか どういうひどいことをやったか
20:38死刑の宣告を受けた 藤治健太郎
20:45まだ34歳だった健太郎は 気持ちを切り替え
20:51再審理に原刑の望みをかける
20:54安代も探案書を集め 署名活動に奔走する
21:06そうした中 死刑囚の塔からは
21:10刑を執行される人々が 旅立ってゆく
21:13戦勝国が敗戦国を裁いた 戦犯裁判
21:25そもそも日本を 無差別爆撃していた
21:29米軍機の搭乗員は 戦争犯罪には問われないのか
21:33横浜裁判で それを争った人がいる
21:45岡田タスク中将
21:48名古屋市に置かれた 東海軍の司令官だ
21:54B29爆撃機の搭乗員を 処刑したことについて
21:58岡田中将は
22:01米軍機の無差別爆撃は 国際法違反であり
22:05処刑は正当 と主張する一方で
22:09部下をかばい 一人だけが公主刑となった
22:15日蓮州の信者だった岡田は
22:18死刑囚たちの 心の拠り所となる存在だった
22:21岡田タスク中将の 長男の妻 淳子さん
22:35淳子さんは 横浜裁判の法廷で
22:41岡田に結婚の報告をした
22:43言葉もかけられないので
22:49ニコニコして ちゃんとこうやって
22:54うなずいてくだすって
22:56嬉しそうにしてくだすった
22:58ちゃんと座ってらして きちんと
23:05いろいろ聞かれても ちゃんと堂々と
23:11言ってらっしゃいます 立派でした
23:1420日後 淳子さんは 死刑の判決を法廷で聞いた
23:24ちょうどその日はね
23:28もうこっちは緊張してるだけで
23:33それでもうお父さんは お部屋を出られたけど
23:39見送るだけで もう言葉も出ないです
23:46本当に緊張して
23:49ああ 何ていうのかしら
23:52そんな判決が出るってね
23:56ならないようにって ずっと思ってたのにね
24:01やっぱり ちょっとショックでした
24:09やっぱり 誰か処刑されるようですよ
24:15足音は一人のようです
24:18棒を一つ一つ音ない 挨拶するらしく
24:22下駄の音が近づいてきた
24:25誰だろう 声が低くてわからない
24:29私たちの部屋の前に来た人を見て
24:32思わず あっと言ってしまった
24:35岡田閣下である
24:37君たちは来なさんな
24:43閣下は水のごとき静けさで そう言われた
24:48閣下 私たちのことはご心配なく
24:53うんと頷いて そのまま廊下を消えていかれた
24:58間もなく各棒から 正台の声が聞こえ
25:04それが次第に大きくなった
25:07私も立ったまま 大きな声で唱える
25:12閣下の声が 一際高く 開花から聞こえる
25:18間もなく大廊下との境の 鉄の扉が閉まる音が響いた
25:23とうとう 閣下は去られた
25:32アメリカの国立公文書館が所蔵する 写真の人物を特定するために
25:44大分県在住の男性を訪ねた
25:47沖縄の石垣島で アメリカ兵の捕虜を殺害したとして
25:52死刑になった 貸し官 成迫忠邦邦
26:02武田浩さん 成迫は戦死した武田さんの兄の友人だった
26:08武田さんは死刑の判決後 探願書を持って菅野プリズンを訪れたという
26:17しかし近親者しか会えないと言われた
26:36これはただくるさい これはただくるさいの間違いない
26:432、3歩入りやしたら3歩ち割れて
26:50花瓶中で押し返されたんですよ
26:54ああしてもどうしてもああいうのこのこの兵の向こう側におるのにああしてくれたりとかするのにああいうのって言ってもう情けのうでワンが鳴いたんですよ
27:15もう背中にあの女名店が村城の署名部を担いでてきたら行ったんですけど美男子で優しい人だったんやから
27:30石垣島事件では3人の米軍機搭乗員が殺害された
27:472人は首を切られ1人は縛られた上 大勢から銃剣で刺された
27:59死刑になったのは全部で7人
28:05健太郎は7人が別れの挨拶に来たのを日記に書き留めていた
28:134人目はなりさこくん これもニコニコと笑っている
28:22やあお世話になりました いよいよ行きますよ
28:27残念だが仕方がない すっきり死んでください
28:33ええ
28:35私もすぐ追っかけますからね
28:38いやあまりいいところじゃありませんからね 形状へ行くことだけはやめてください
28:46そう言ってもどうせ行かなくてはならんでしょう
28:51しかし変ですね なんともありませんよ
28:56そうですか 結構です
28:59じゃあ 行ってらっしゃい
29:02さよなら 行ってきます
29:101950年4月7日
29:147人の死刑執行
29:1813と書かれた扉の奥に 公主台があったという
29:24その後 スガモプリズンの状況が変わる
29:346月25日 朝鮮戦争勃発
29:39北朝鮮の軍隊が北緯38度線を超え 南部への進撃を開始
29:50アメリカとソ連の冷戦構造の下 米軍を中心とした国連軍が韓国を支援する
29:577月11日 西武軍全員原刑の方
30:08臨室より 西武軍事件7名向きに原刑の方あり
30:15おめでとう 都市編が来た
30:18あまり突然なので信じられず そのまま仕事をしていると
30:25海下の一般帰結のリーダーが
30:28皆さんに申し上げます
30:31今朝のラジオニュースによれば
30:34西武軍事件7名向きに原刑の旨 発表されましたとアナウンスし
30:40それに応じて 大勢の拍手が聞こえた
30:487月11日 健太郎は終身刑に原刑された
30:58その3日後
31:037月14日 米兵出発
31:09艦首から近日中に ここは日本政府の管理に移され
31:17米兵は全部朝鮮へ出動すること
31:20すでに一部は出発したことを聞いた
31:24当初に艦首として勤務しているのは
31:28大部分が20歳前後の若い兵で
31:31米国から渡ってきて間もない 未教育の者もだいぶいる
31:36これらの兵が 北朝鮮軍の銃貨にバタバタと死ぬのか
31:44と思うと 私は可哀想でならない
31:48彼らもすっかり憂鬱な顔をしている
31:53戦争は 嫌だ
31:57健太郎が 菅野プリズンで見送った死刑囚は
32:0826人を数える
32:13健太郎は 処刑された戦犯たちが残した遺書を
32:18まとめることを思いつき 発起人となった
32:21遺書 返産多忙につき 日記 囲碁付けず
32:35翌年
32:371953年に刊行された 正規の遺書
32:41菅野プリズンだけでなく アジア太平洋で
32:47戦犯として命を断たれた およそ700人の遺書が収録された
32:52お母さん
33:02叩くには 死ぬるということを 知らないものになったということです
33:08だから 永遠に生きているということになります
33:13お母さん おやすみなさい
33:16子供は 軍人にはなすな
33:22時勢が変わってもだ
33:25これは ししそんそんに伝えよ
33:29戦争がいかに 残酷なものであるかということは
33:34みな よく知ったと思う
33:36いかなることがあっても
33:42戦争は絶対反対
33:46を 命のある限り
33:50子にも 孫にも叫んでいただくとともに
33:55世界永遠の平和のために
34:00貢献していただきたいことであります
34:061956年
34:1010年の月日を 菅野プリズンで過ごした 健太郎は
34:14仮出所し 福岡へ帰る
34:19そして 妻が守ってきた文具店を 手伝い始める
34:28健太郎は 海が見える高台に
34:31対の住処を構えた
34:33三男の勝也さんが 中学生になるころだ
34:40ここの通営の次男 信也さんは 大学生で東京にいた
34:47菅野プリズンがなくなる際の式典の映像が残っていた。
34:53菅野プリズンがなくなる際の式典の映像が残っていた。
34:59控えめに橋に座る44歳の健太郎。
35:09おやじやん。
35:191958年
35:36最後の18人の出所式
35:39これ面会室って書いてあって ここ行ったんやね
35:45行ったよ 面会室行ったよ
35:49嬉しそうだね
35:51嬉しそうだね
35:52嬉しそうだね
35:53本当嬉しそうだね
35:54こんな顔
35:55死ぬことを覚悟したはずだもんね
36:09だから
36:12やっぱり経験ないことよね
36:15覚悟したはずだもん
36:18だから僕を連れて行ったよ
36:20うん
36:25やっぱり命が流れて
36:31流れたために精一杯やらなくてはいけないというところもあったんじゃないでしょうかね
36:37亡くなった方々のためにもですね
36:41自分たちが精一杯やらなくてはいけないという思いはあったと思いますよ
36:45勝也さんは家業の文具店を継いでいる
37:00ありがとうございます
37:02ありがとうございました
37:08菅野プリズンから帰ってきた健太郎は思い切って福岡の一等地に店を構え
37:15飽きないを大きくした
37:17まだまだカードなんてなじみがない頃にですね
37:24グリーティングカードの専門店を作りまして
37:28でも時代が早すぎてですね
37:31なかなか売り上げ的には厳しいものがあったようでございます
37:34健太郎が地元のテレビ番組に出演したときの映像があった
37:42日本が
37:44いや私はね
37:46いかに戦時中であると言っても
37:51無抵抗な人間をね自ら志願して
37:544人も来るなんていうこと言語道断だと
37:57日本国民はね被害者意識が非常に
38:00それを世界中に訴えようとしておりますけど
38:03加害者としての反省が国民的な反省がないと思います
38:05実は本当の愛国心というものは
38:10自分の国が周囲の国々から愛される国にすることだと
38:16だから我々が持っておったかつての愛国心というのは
38:20間違ってたんだと
38:2260歳を過ぎた頃から
38:26健太郎はアジアからの留学生の支援に力を注いだ
38:30自宅に招き留学生たちをもてなす健太郎
38:37留学生たちからも慕われていた
38:41いつも当日さんはお世話になっています
38:48優しい人ですね
38:51軍人として大東亜戦争に参加した一人ですけれども
38:54その当時日本の軍隊はアジア諸国に大変な迷惑をかけてますよ
39:00やはりおじさんたちがおじさんが日本の軍隊に殺されたという人がありましたし
39:06自分の昔の家、うちの昔の家は日本の軍隊に焼かれたという人もおります
39:11僕が問いかけたらそういう答えが出てきた
39:14そういう答えは決して言いません
39:16優しい答えは何にも言いません
39:18そういうことを考えますと
39:19私は日本人として個人的にアジアの人々に対してやはり責めを感じますね
39:291983年、健太郎は自宅で倒れた
39:43心不全で68歳の生涯を閉じた
39:47健太郎は高台に作った自宅の庭に
40:00アメリカ兵のための地蔵を建立していた
40:04自分が手にかけた人数と同じ
40:084体の地蔵には小さな子供の地蔵も添えられている
40:15健太郎が菅野プリズンで読んだ歌
40:19我が子らと我が処刑せし米兵の子が相合わんこともあらんか
40:31健太郎の死後、地蔵は福岡市の油山観音に託された
40:45西部軍の事件で処刑されたアメリカ兵を慰霊する法要が営まれた
41:03アメリカから関係者もウェブ上で参加した
41:07ヘザー・ブキャナンさんの祖父は処刑された一人
41:14チャールズ・アップルビー
41:16健太郎が手をかけた可能性があるアメリカ兵たち
41:37国民と国民の間には、人と人との間には何の恨みもないんですよね
41:45そこを無理やり恨みを持たされて戦わされるという
41:48そういう矛盾が戦争にはあると思います
41:52そういうものを私たち一人一人が感じ取って
41:59戦争を回避していくというものが必要なんじゃないかなと思います
42:05健太郎らが編纂し出版された
42:25正規の遺書は話題となり、その収益金で記念の像が作られた
42:31両手を挙げて東京駅に何かを語りかけている
42:39そこには何の説明もなく、ギリシャ語でアガペ、愛とだけ刻まれている
42:48史上の愛という意味でしょうかね
42:54戦争というものに対してですね、愛というもので応えていくということを、この女王を作った人たちを持ったんでしょうね
43:08でも愛というのはね、世界共通の大事なテーマであって、誰とでもその愛については語れる、どこの国の人とでも語れる、そういう意味合いがあるんじゃないですかね
43:24当時健太郎は自分が行くべき道を見つけ、その道をまっすぐに歩んだ
43:32親父、父親は、父は真実に生きたんでしょうね、自分の真実に生きたんだと思いました
43:45ゾウの由来を知らない若い人たちが、記念撮影をしていた
44:01死に向かった刻々の行が、永遠の命を形成していく
44:20私は常に最善に生きねばならない
44:25いかに、それは他の一切の命へ、何らかの形で貢献することより他にはない
44:35そのためには、残る人生を、私はどれほど忙しく、また苦しく過ごすことであろう
44:45しかし、その生き方の中にこそ、私の安心も救いもあるのだ
お勧め
50:11
43:31
23:59
55:13
1:06
44:13
27:57
21:44
53:31
15:32