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00:00偉人敗北からの教訓
00:30100回目の今回は2時間にわたる歴史旅です
01:00卓越した軍略 精強な騎馬軍団 そして有能な家臣たち
01:09軍勇各拠の乱世において 戦国最強と恐れられながら
01:14可烈な戦乱の渦に飲み込まれて 儚く散った戦国大名家がありました
01:22貝の名門竹田氏です
01:27ノブトラ・シンゲ・カスヨリと 3代にわたって勢力を拡大
01:34一時は天下をも視野に入れながら 滅亡の道へと転がり落ちた理由とは
01:42今回は番組ナビゲーターの伊藤潤さんと 中西雄里さんが
01:48武田三代の足跡を訪ねる 2時間スペシャル
01:53武田家の史跡や遺品が続々登場
01:57結構人間味があるといいますか 悪役という感じには見えないんですよね
02:05現地ならではの貴重な体験も
02:10いい音出ますね
02:12武田氏研究の最前線とは
02:16武田三代にわたる栄光と敗北の舞台となった 山梨の旅
02:26そこから見えてくる教訓とは
02:30偉人・敗北からの教訓 武田三代スペシャル
02:36信虎・信玄・勝頼の足跡を訪ねて
02:43スタジオを飛び出して 甲府にやってきた伊藤さんと中西さん
02:48まずはどちらに向かうのでしょうね
02:52まずはですね 武田神社に行こうと思ってるんですよね
02:57武田家といえばですよね
02:59やはり武田神社からですよね
03:01武田三代の初代は信虎って言うんですよ
03:05あんまり聞いたことないですよね
03:07まあ信虎 信玄のお父さんですよね
03:09そうなんですよね
03:11信虎っていうのはもともとはですね
03:13やっぱり悪逆無道というふうに言われるぐらいですね
03:17悪評が高い人だったんですね
03:19暴君っていうイメージは確かにありますね
03:22ありますよね
03:24そもそも武田信虎とはいかなる人物だったのでしょうか
03:30武田信玄の父として知られる信虎は
03:331498年に 貝の国の守護大名
03:38武田氏14代当主 武田信長の嫡男として生まれたと言われています
03:44当時の貝は祖父信正と父信長が対立して
03:51国中の武士たちを二分する激しい内戦状態となっていました
03:591507年に父を亡くした信虎は
04:0610歳で家徳を継ぐと
04:10多くの家臣を率いて 貝統一を目指します
04:14国内の反対勢力を次々下すと
04:201519年には 本拠地を甲府に移し
04:24家臣や有力国衆を住まわせる 城下町を整備しました
04:28甲府とは貝における政治の中心地
04:34府中を意味する地名です
04:381521年信虎は貝への信仰を図る
04:44駿河の今川氏を撃退し
04:46念願の貝統一を果たしました
04:49そんな信虎について紅葉軍艦などの資料には気になる記述があります
04:59昨日まで褒めていた人物であっても少しでも機嫌を損ねると追放した
05:0517歳の頃から家臣を手打ちにしているが
05:10その数は29年間で93人にもなった
05:15まるで暴君の姿そのものです
05:19その後 相模の北条氏と一心一体の攻防を繰り広げながら
05:26今川氏の家徳争いにも介入し
05:29今川義元の当主就任に力を貸します
05:32その後 今川氏と同盟を結び
05:37さらなる発展を目指しますが
05:40突然思わぬ悲劇に見舞われます
05:44駿河の今川氏を訪ねた信虎は
05:48国境をあっという間に封鎖され
05:51信玄と重臣たちに国外へと追放されたのです
05:55白脈無動と評されたノブトラを追いやるクーデターでしたなぜノブトラは息子信玄に追放されたのかまずはこの敗北からひもといていきましょう
06:13あっ見えてきましたよ
06:17ああ竹田神社ですね
06:20これが竹田神社ですね
06:22ありっぱだなぁ初めてきました
06:241519年ノブトラはこの地に貝武田氏の新たな本拠地を開きました
06:33筒ヶ崎館です
06:36現在は竹田信玄を祀る竹田神社が建っています
06:41まずは番組が100回目を迎えたことに感謝のお参り
06:56戦国最強の大名が祭人とくれば
07:00やっぱりこちらのおみくじですね
07:04久しぶりレースおみくじ私から言っていいですか
07:06大勝利引いてください
07:10勝ちおみくじって言うのかな
07:12勝ちおみくじ
07:14どどどどどどどどどど
07:16じゃあ私も
07:18はい
07:20さーて2人の運勢は
07:27あ、なんか出てきましたね
07:29末吉か
07:31末吉か残念でしたね
07:33いやここからも上がっていくしかない
07:34そっから上がっていくしかない
07:36ここから上がっていきますから
07:38あ、そう
07:40ということで私は勝吉だった
07:42あ、こんなもんでしょ
07:43なんて書いてます?
07:44運勢?
07:46恋愛、恋愛どうなんですか?
07:48え、まあ関係ないもんな
07:50互いに欠点が目について反目しがち
07:53誤解のない言動をとるように
07:55縁談はまとまりにくい
07:57最悪じゃないですか?
07:58ちょっと見なかったことにしようか
07:59え、父さんなんて書いてます?
08:00僕ね仕事はね
08:02今までうまくいかなかったこと柄の道が開けてくる
08:05しかしことを制定はならない
08:08長期の計画を立てると
08:10でもなんか番組の教訓でありそうな
08:13ありそうですね、長期計画で行こうってね
08:15武田神社からの教訓、ちゃんと活かしましょうね
08:19ところで、信虎時代のツツジヶ崎館はどんな場所だったのでしょう?
08:29今日はですね、詳しい方に来ていただいているんですよ
08:33あ、どうですか?
08:34数野先生、どうもこんにちは
08:36どうもこんにちは
08:37よろしくお願いいたします
08:39よろしくお願いいたします
08:41地元山梨の歴史を研究する数野さんです
08:44勝野さんは信虎が本拠地をツツジヶ崎館に移した理由をこう話します
08:54今から506年前に武田信虎がですね
09:00それまで住んでいた高知東部の川田というところから館を移して
09:04新しいですね、貝の国の新府地を造ろうとしたんです
09:09その一番の中心施設として造ったのがこの館なんですね
09:13はい
09:15この本拠地移転から武田家と甲府の繁栄が始まりました
09:23でも信虎はどうしてここに館を移したんですか?
09:26はい、信虎が元住んだ川田というところが甲府盆地の底の部分
09:30土屋部にあったんで水害が起こりやすかったといわれてるんですね
09:35今もう要するに川田館っていうのはそういった水害に直接被害を被ったということで水害のない地に移したということですよね。
09:45信虎は家徳を継いで以来、海統一を目指して戦いに明け暮れていました。
09:53そんな信虎が水害にも戦にも強い本拠地として築いたのがこの館です。
10:00広大な甲府盆地を見渡す場所に築いた辻ヶ崎館は、戦国大名武田家の象徴となりました。
10:15信虎にとってみたら、自分の権力だとか権威を示す一大イベントだったと思うんですね。
10:26信虎が作った新たな城下町は、京都を真似て五番の目のように整備し、
10:33館の周りには国中の家臣たちが住む屋敷を配置し組織力を強化したのです。
10:49絶対的な権力構造を築こうとしたわけですよね。
10:52そのためにも、今まで各地に分散して住んでいた国衆たちを城下に集めて、
10:59人質のような形で取ってですね、それで自分の権威と権力というものを見せつけるという、
11:05まさに江戸時代の城下町というか江戸城の周辺のそういった仕組みというのを先駆けてやっているわけですよね。
11:13そうですね。はい。それは間違いないですね。
11:15信虎は着々と武田王国の基盤を固めていきます。
11:22そんな信虎の人生には大きなピンチもあったようです。
11:34いやー、いいですね。いい眺めですよね。
11:39もう盆地だっていうのが分かりますね。
11:42甲府の町を一望できる高台から、信虎がピンチを救った場所が見えるそうです。
11:49北の方を向きますと、三角に見える山が見えますね。
11:55その一つ手前の半円形に見えるところ。
11:58結構高い山なんですが、あれが要害城です。
12:01敵が集めてきた時に、いざという時に立てこもるための素人として気遣えているんです。
12:07駿河の国から1万5千人ぐらいの軍勢が貝の国に攻め込んできます。
12:14有名な井田河原の戦いというのは行われるんですが、その直前ですね、要害城に避難しているんです。
12:20飯田河原の戦いで、信虎は今川方の大軍にわずか2千の兵で対抗したといいます。
12:32敵がツウジヶ崎館に迫る中、信虎は臨月の妻を要害城に避難させます。
12:41そして、奮起した信虎は奇跡的な勝利をあげました。
12:47この時、生まれたのが嫡男の武田信玄です。
12:52自分の跡を託せる人間がここに誕生するというのは、本当に喜びだったんじゃないかなと思います。
12:59まさに戦勝をして、そしてそのタイミングで長男が生まれて、自分に幸いなことがどんどん続いたということで、信虎としては人生の頂点だったんですね。
13:11釈南の誕生を喜んだ信虎はこの勝利にちなんで信玄に勝千代という陽明をつけたのですこの年信虎は館の近くに自らの菩提寺を建てましたそれがこちらの大仙寺です
13:38このお寺では、ぜひお二人に見ていただきたいものがあるんですよ、楽しみにしていてください、いやいや、じゃあ、楽しみにしておきます。
13:46信虎ゆかりのものです。そうですね。一体何があるんでしょうね。はあ。
13:56竹田三代の足跡をめぐるたび、甲府の歴史を研究する数のさんが、信虎の菩提寺、大仙寺に連れてきてくれました。
14:14今回は特別に貴重なものを見せてもらえるそうです。
14:35はあ。これは。これが有名な竹田信虎の画像なんです。はあ。どんな感じを受けます?いやもうかなりおじいさんになった時ですよね。そうですね。亡くなったのが77歳ですから。ですからもう晩年の信虎を描いているということですね。
14:57国の重要文化財にも指定されている実の息子武田信門が描いたことから実像に近い姿だと考えられています伊藤さんが気になる点を見つけました。
15:22一つ私常に思っているんですが、目なんですよね。黒くしなかったという点はすごく関心がありましてね。息子が描いているというのも一つのキーになっていると思うんですけど。
15:32画量転生を描くという言葉がありますけれど。
15:35なぜ黒く描かなかったのかなっていう。やはり何か一つ信虎が願っていたことが叶わなかったのかなというふうに考えています。
15:45面白い方ですね。もう晩年なのに遥か向こうを見ている。まだまだ自分には先があるとみたいな。こう目つきのようにも見えるんですけど。それ何を見てたかなんです。私はそれは天下だと思うんですけど。はい。
16:02追放されて年老いた父の姿を息子の信門はどんな思いで描いたのでしょうね。
16:17大戦時には他にも貴重な資料が残されています。
16:24こちらは父信虎、息子信玄、そして最後の当主となった孫の勝頼、武田三代の木造です。
16:36いつ誰が作ったのかは謎ですが江戸時代中頃には既に存在していたといいます。
16:48中央が信虎右側が信玄そして左側が勝頼といわれていますそれぞれ個性ありますよねそうですね何か信虎の表情を見てると結構穏やかな感じでこう何か目もキラキラっとしていて何か希望に満ちた感じでこの貝の国を何か見てるような何かそんな気もするんですよね。
17:14横田信玄は全然表情が違って歯を食いしばっているような激しい表情で勝頼は本当に若者っていう感じでちょっと表情だけ見てると不満あり得ないように見えますね。
17:31ストレスが溜まっていた。
17:32そうかもしれないですね。
17:34勝頼はねやっぱり37歳で討死にという形で武田家を滅ぼしてしまったということなんで当然人生に満足はいってないと思うんですよね。
17:44ですからそういったものも多分作者は表してるんじゃないかなと気がしますよね。
17:49あの3人のですね木造が並んでる状況を見ますと何となくこう和やかというんでしょうかね親子さんだに仲が良かったようにも見えるんですよ。
18:003人はそれぞれどんな未来を見つめていたのでしょうか。
18:11信虎、信虎、信虎、勝頼、3人の武田家当主は低さで無類の強さを発揮しました。
18:22合戦の際、武将たちの身を守った甲冑。
18:28甲府には今もその伝統と技術が受け継がれています。
18:36二人は戦国時代から続く未成。
18:42因伝や上原雄七は武田家が滅亡した1582年創業の老舗です。
18:52甲州因伝とは鹿川に漆漬けや藁の煙でいぶし模様付けした山梨の伝統工芸品。
19:032階の印伝博物館には鹿の皮を使った昔の工芸品などが展示されています。
19:43鹿川の特徴が丈夫で軽い。
19:53加工がしやすいということでこういう武具などの装飾に重たいものではなく軽い鹿川を使ったんだと思います。
20:03じゃあもう戦場に出るのにもぴったりなわけですね。
20:07同服というのが武将が羽織る上着になります。
20:14主に袖のないタイプになりましてこちらは武士が鎮中用に着用しておりました。
20:22鹿川ですから結構丈夫なんでもし矢が飛んできてもそんなに損傷ないとこれだけ着てる時でもね。
20:31そして目を引くのが鹿川に施された美しい装飾です。
20:38こちらが天表側といいましてシシですねシシにボタンお花のボタンそして不動物の模様がついてます。
20:53実用性があるけれどもこういうこうなんかおしゃれな部分美しさとかを追求しているそういう部分もあってそういう意味でも本当になんか貴重なものなんだなというのが伝わってきました。
21:05そうですね。
21:06でもこれどうに着るっていうことはこのサイズ感だったってことですか当時は。
21:11当時の人小さいんだよね。
21:12そうか小柄だからいいとこないよね。
21:15男性ですよね。
21:16そうこれ着ちゃうんだ僕なんかちょっと無理ですな倍ぐらいないと。
21:20こちらは鹿川製の湯掛け弓を引く時の手袋ですこの装飾にも深い意味が込められているそうです本物模様は勇敢に獲物を捕らえる強さと俊敏にまっすぐ飛ぶということから勝つ虫と呼ばれて武将に好まれた模様になります。
21:49桜の模様は日本の国家にも指定されておりまして花の散る散り際のおもむぎがですね好まれましてたくさん模様に使われております。いわゆる潔さですね。
21:54武士の美学みたいなものと桜が通じているということなんですね。
22:01命を守る文部。そこには武将それぞれに思いが込められていたんですね。
22:08武士の美学みたいなものと桜が通じているということなんですね。
22:15命を守る文部。そこには武将それぞれに思いが込められていたんですね。
22:21この後は暴君と呼ばれた信空の意外な素顔が明らかに。
22:28武田三代の足跡をめぐる旅。さてお次はどちらへ。
22:35武田三代の足跡をめぐる旅。さてお次はどちらへ。
22:42次はですね、当時の貝の国を知る貴重な資料をお見せしたいなと思ってるんですよ。
22:49ただですね、これは個人の持ち物なんで、なかなかですね、そのどこにあるということを明かせないんですよ。
22:58ああ、そうですか。でも見せていただけるんですか。
23:01見せていただけるということで。じゃあ行ってみましょうか。
23:04はい、楽しみですね。
23:09今回特別に見せてもらったのが、こちらの古文書勝山記。
23:15川口湖周辺の僧侶らによって書き継がれてきた、戦国時代の貝の歴史を伝える貴重な資料です。
23:32伊藤さんは、この中のある記述に、信虎の意外な一面が見えるといいます。
23:39生活に苦しむ寮民たちの借金を消消しにする特製例です。
23:46このときの特製例の内容は、3年以上前の債務はすべて破棄し、それ以後の債務には利子をつけず、監禁の返済のみとするものだったようです。
24:08ですから信虎って暴君って言われてますけど、実際はそういう農民に優しい、そういう政策を信玄たちと同じようにやっていたわけですね。
24:18そうだったんですね。
24:20彼の統治期間のうちの半分ぐらいがですね、飢饉とか疫病とか、あと風水害というのがありまして、それでもう物なり、つまり作物が十分にならなくて、もう上陣する人が続出したんですね。
24:34確かにそうだ、筒子ヶ崎に移ったことの理由自体も水害でしたよね。
24:40そうなんですよ。
24:41そうですか。
24:42だから統治者としてね、運がない人。
24:44あー。
24:45信虎が追放された年の記載には、あまりに悪行をなされ候。すなわし、国外追放もやむを得なかったとしています。
25:01非常に暴君ということで記録が残っているんですけど、おかしいなと思うのはですね、やはりこれ、信虎を追放した後に信玄やそのスタッフが流した、そういう情報なんじゃないかと言われているんですね。
25:16ある意味、キャンペーンを張ったということですね。
25:18そうです。それで信玄の行為を正当化したということになるわけですね。
25:23その数行前にはこんな一文も。
25:30百年のうちにも御座なしと人々申し来たり候。
25:37戦死一生と申し候。
25:39つまり、この年には百年に一度と言われる大起禁が起こり、多くの人が亡くなっていたのです。
25:53本当に月がないというか、運のない統治者だったんですけど、それがですね、積もり積もって最後のダメ押しで、100年に一度の奴が襲ってきちゃった。
26:05でも確か当時のその民たちって、そういう天才とかをその時の犠牲者のせいだ、悪性のせいだってこう言うって言いますよね。
26:15そうなんです。非常にそういった意味で、宗教とか天とか神とか神物というものがですね、もう政治と一体化していたわけなんですね。
26:22悪性をしていることを神が怒って天才をもたらす、危機になりですね、疫病なり風水害をもたらすという、そういうことがもうまことしやかというか、真実として取り扱われたんですね。
26:37一方、信虎の追放は、どのように決断されたのでしょうか。
26:47武田家には代々の当主に守られてきた神聖な家宝があります。
26:55開源寺の祖、源義光から受け継ぐ日の丸の旗、御旗と、たてなしと呼ばれる鎧です。
27:07源氏の血統の証であるこの2つの家宝は、家臣たちにとっても信仰の対象でした。
27:17武田家では、重大な決定を下すときには、必ずこの家宝にうかがいを立てたといいます。
27:27重臣たちは、戦災の続く信虎政権に不安を抱き、追放の是非を家宝を前にして占っています。
27:38御旗、たてなしも御承らんあれ。
27:43すると、信虎を追放しても、安泰という結果が出たといいます。
27:51こうして信虎は、家臣や領民たちの不満を背負い、国を追われたのです。
28:02追放後に駿河、京都などを転々とした信虎は、二度と甲府に帰れず、1574年、信濃の高島で亡くなります。
28:16去年77期待の名称としては寂しい晩年でした2人は信虎が開いた甲府を一望する和田峠を訪れましたまあでも信虎って結局追放されてからこの景色を見られなかった見られなかったんですよええやっぱりもう一度見たかったですからいやあ
28:46まあでも信虎が追放されてしまった理由というのもいろいろあったんですねまあ信玄自身が一番苦しんだんじゃないですかねもう追放せざるを終えなかったとしかも父子の関係はそんなに悪くなかったというふうに言われてるんでどうしてもねこうせざるを終えないというのが人生にありますけど信玄にとってそれがずっと多い目になってしまったんではないかなと思いますよね
29:09武田三代の足跡をたどる旅続いては泣く泣く父を追放した武田信玄の偉業をひもときます
29:20武田信玄は1521年貝の国の守護武田信玄の着難として生まれました
29:331541年に父信玄を追放して家徳を継ぐと10年がかりでシュナノをほぼ平定し戦国の世に名乗りをあげます
29:47駿河の今川市相模の北条氏と同盟を結び上杉謙信と川中島で激戦を繰り広げながら勢力を拡大します
30:02戦に敗れたのはわずか2度だけと言われ
30:08風鈴火山の旗印は人々に威風され
30:13信玄は戦国最強の存在となったのです
30:17しかし信玄が家徳を継いだ頃の貝は
30:22度重なる天才と戦で疲弊しきっていました
30:28困窮にあえぬ国を建て直すために
30:31信玄が目をつけたのは金山です
30:36この頃各地で鉱山開発が始まっていました
30:42信玄は貝を中心に30以上の金山を開発しています
30:49中でも有数の規模を誇ったのが湯の奥金山です
30:56こちらの金山博物館では当時の様子を展示再現しています
31:02案内してくれるのは金山研究の第一人者
31:08まずは信玄時代の採掘方法を教えていただきました
31:17金山というと穴の中に入って石を掘る
31:21そんなイメージがあるんじゃないかと思います
31:22山の表面に露出している金鉱石を採掘する
31:26その掘り方は露頭掘りといいます
31:29この段階では金が含まれているかどうかは分からないそうです
31:361トンの石の中に1gとか2gそういったレベルですので
31:42そんなに少ないんですか
31:44表面に金が露出しているなんていうことはなかなかないということなんですね
31:48戦国時代の武田家にはこの鉱石から金を取り出す技術がありました
31:56まずは鉱石を細かく砕き
32:01さらに石薄で引いて粉末状にします
32:07そこから揺り分けという作業で金だけを選別するのです
32:19実は小松さんはこの揺り分け技術で
32:22砂金取りの世界チャンピオンに輝きました
32:26まずは1回お手本を見ていただきたいと思います
32:30お願いします
32:311、2、3とつまり表面の砂を落としているんですね
32:35金は沈ませて表面の砂を流す
32:39揺り分けは鉱石の質量の違いを生かした科学的な選別方法
32:48質量の軽い鉱石を水で流し
32:51重い金を皿の底に沈ませるのです
32:55水から出さずに降り続ける
32:59はい
32:59そうです
33:00あるかな
33:01はい
33:02どうだ
33:03あ
33:04あった
33:05ない
33:05残念なかった
33:07なかった
33:07いやー残念
33:11伊藤さんは
33:14あった
33:16先生あります
33:17え
33:17ありますよ
33:18ここに
33:18めちゃくちゃありました
33:20めちゃくちゃ
33:20めちゃくちゃ
33:21大勝利
33:22伊藤さん
33:24お見事ですね
33:26ふーん
33:28こうして地道に取り出された金は公衆金となって武田家の財政を支えました公衆金の中で最も価値の高いつゆ一両金を見せてもらいました
33:48手に取ってみてください
33:52手に取っていいんですか
33:54じゃあちょっと失礼します
33:55確かに重たい
33:56わあきれい
33:59これで金15g
34:02これ実際に大昔に使われていたものなんですよね
34:08500年以上昔に貝の中で流通して誰かの手に渡りつつ現在に残った公衆金ですね
34:15黄金というのはね本当に一粒に数十万円分の金が使われているつゆ一両金歴史的価値を加味するとかなりの金額になるのだといいます
34:35ちょっとこんな手のひらに乗せていいのかどうかっていうような本日は特別でございますありがとうございます
34:43信玄はこの金の力を時には豪快に活用したそうです
34:52一応紅葉軍艦ではねこういうつぼの中に金を入れて手づかみでつかんだものをあげてたっていうんですよ
34:59そんだけ持ってたということですよねやっぱり信玄はさらに金山開発のプロ金山衆は戦場でも活躍していました
35:13この金山衆たちの技術を持ってその敵の城の水を抜いてしまってとかそういった戦い方をしているんですね
35:26金山衆は土を掘る能力だけでなく地中の水の流れをも熟知していたといいます
35:35竹だけの強さを地面の下からも支えていたのです
35:40深沢城の戦いでは敵の城に大ダメージを与えています
35:47この時に信玄が金山衆に与えた書状が残されています
35:57褒美の内容はもみ150票とありますけれども当時としては妨害な英語褒美が与えられているわけです
36:07その武田の一つの戦術として組み込まれていったんじゃないかというふうに言われています
36:13信玄は金山開発で国力を高めるだけでなくその技術を戦にも活用していったんですね
36:24湯の奥金山の近くにはその名の通り温泉もあります
36:33信玄の各州で知られる下辺温泉には戦国時代の貴重な資料も残されているそうです
36:4558代にわたって守り継がれる小湯坊厳選官の与田さんが迎えてくれました
36:56こちらにちょっと珍しいものが残されているんですけれども土地浴場免許状なんですけれどもこれは温泉を守り整備するようにと信玄が発行した免許状です
37:14ご覧いただくと日付まで入っているようなんですがA64年9月28日という日付には何かピンとくるものがございますか伊藤さん
37:28これあれですね川中島合戦第4次合戦の直後という感じですよね
37:34その通りですね
37:35第4次川中島合戦が終わった後ですね激闘だったということもあってですね免許状を信玄が出すことによってですね家臣とかですね足軽に至るまでこちらで当事ができるようにしたということですよね
37:50武将たちの傷も癒したというこの温泉はかつて日本温泉協会の調査で
37:59全6項目オール5の最高評価を獲得したこともあるという 全国でも指折りの名刀なのです
38:09下々の人たちまでいわゆる今でいう福利厚生みたいな感じなんじゃないでしょうか
38:19武田家臣たちはここで傷を癒してまた戦で頑張ることができたわけですよね
38:26家臣思いの信玄らしいですよね
38:28信玄は寮内の温泉を整備することで家臣の症病回復と健康増進に力を尽くしていたのですこの後は信玄が行った筒ヶ崎館の大改修その意外な狙いとは?
38:52父信虎から受け継いだ筒ヶ崎館を信玄は生涯にわたって本拠地としました
39:06近年の発掘調査では信玄時代の大改修の様子が明らかになっています
39:16小さな館だったと言われてきた筒ヶ崎館に信玄はどんな手を加えたのでしょう
39:25どうもはじめまして今日はよろしくお願いします
39:34こんにちはよろしくお願いします
39:35今日はよろしくお願いいたします
39:37案内してくれるのは長年筒ヶ崎館の発掘を手掛ける佐々木さんです
39:46こちらの場所では長年にわたって甲府市の教育委員会の方で発掘の調査をしてきたんですけれども
39:53その中で大きな成果としまして今前にありますこの馬出しの部分
39:59こちらの方で三日月堀という堀の跡が見つかっています
40:04ちょうど半月型をしたものでこの奥にあります橋ですね
40:10これを丸く囲い込むような形で築かれています
40:13三日月堀は独特な形の防御施設で
40:19竹田家の城に多く見られる構造です
40:24佐々木さんは信玄がここに三日月堀を設けたのには
40:32防御とは別の狙いもあったといいます
40:36この貝の国というのは信玄の時代に
40:41外からあまり攻められるということはなかったはずなんですけれども
40:45なのにこの場所に三日月堀が築かれたという意味を考えますと
40:51防御ということではなくて
40:54やはりシンボリックにこういったものを
40:57わざと見せるために作ったというふうに考えられます
41:00見せる城というと天守とかそういうイメージがあったんですけれども
41:03丸馬出しとか堀の形でそういうのをシンボルにするというのもあるんですね
41:09さらに中心部の調査でも大きな発見がありました
41:15開けた
41:18そうですねちょっと開けた
41:19今芝のお庭になってますけれども
41:22ちょうど今建っているこの辺りですね
41:25今地続きでずっと比較的平坦に来てますけれども
41:30遺跡を掘ってみましたら実はこの地面からですね
41:33戦国時代のものが見つかったのは1メートルぐらい下
41:37あちらに行くとさらに深くて2.5メートルぐらい
41:40そんなに行っちゃいます
41:41こう3段の段々になってたみたいなんです
41:45そうなんですか
41:47長年にわたる調査の結果
41:50つづじヶ崎館の全容が明らかになってきたのです
41:55もともと戦場地の斜面だった地形を生かし
42:00震源は全体を大規模な3段構造に改修しました
42:05そしてそれぞれの段に明確な役割を持たせたのです
42:13北側の上の段は奥型の館などのプライベートな空間に
42:23真ん中の段は政務などを行う公的な空間に
42:29そして下の段には庭園を作り
42:33みやびな芸品空間としてデザインしています
42:37結構そういった意味で戦国時代の大名とか
42:42晴れ時けっていうのをかなり意識して作りますよね
42:46そうですね
42:46ですから公的スペースとプライベートスペースを区分けして
42:50ここまでここから入っちゃいけないよみたいな形でやったんですよね
42:53そうなんですね
42:53そういった区分も明確に段差があることによってできたんじゃないかなと
42:59へー面白
42:59竹田家が大きくなるにつれ
43:04辻ヶ崎館にも単なる館以上の役割が求められるようになります
43:11格式としてですね
43:13竹田はやはり源氏の一族であり
43:16貝の守護という名門の自負がありますので
43:19それにふさわしい邸宅を持って
43:22対外的な相手に対してですね
43:24建物の構造見た目からも権威を見せつけると
43:29そういうためにこれだけ大きな館をやはり持つ必要があったという風に
43:34考えられます
43:35竹田家を戦国屈指の大名に成長させた信玄は
43:42その本拠地も着々と進化させていったのです
43:46ここまでは会を統一しながらも
43:53当主の座を追われた信虎の苦悩と
43:56国を立て直した信玄の手腕を見てきました
44:00後半は信玄がなぜ戦国最強と呼ばれたのか
44:07その理由を歴史作家の伊藤潤さんと
44:12竹田主研究の第一人者平山優さんがディスカッション
44:17自分自身をカリスマにすることによって
44:19無敵軍団
44:20信玄が動いた瞬間
44:22身も受け取れない状況になる
44:24川中島の戦いで信玄が手に入れた重要なものとは
44:29この山梨を日本の中心中枢にしたかったんじゃないかと
44:34そして信玄の後を継ぎ
44:38竹田家を滅亡させた勝頼の苦難と不運に満ちた人生をひもときます
44:45何か結果違ったんじゃないかなって何かそういう切なさもあるようなそうですね竹田三代の足跡をたどる旅続きは後半へ
45:03ご視聴ありがとうございました
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