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ショートトランスクリプション
00:00:002000年の時を経て向き合ってきた 日本と朝鮮半島
00:00:26私たちはどのような関係を築いてきたのでしょうか
00:00:31そしてどこへ歩もうとしているのでしょうか
00:00:4819世紀東アジアに進出した欧米列強
00:00:54その脅威の中で共に近代化を目指し 交流した人々がいます
00:01:01日本の思想家福沢諭吉 朝鮮王朝の官僚 キムオッキュンです
00:01:08しかし二人の取り組みはやがて壁にぶつかり 福沢は脱亜論を発表します
00:01:18明治維新から日清戦争へ
00:01:21二人の模索を通して近代の幕開けを見つめます
00:01:52福沢さんは4回と8回もリポートをしてくださったんですよね
00:01:56古代とそして豊臣秀吉の時代 そして今日は近代の幕開けということで
00:02:02日本と朝鮮半島が大きくまた関係が変わる時代ですね
00:02:06今日は話を進めていく時代を年表でご覧いただきましょう
00:02:10今からおよそ150年前 鎖国を続けていた日本に
00:02:15ペリー率いるところのアメリカ艦隊が来航 日本は開国します
00:02:21日本は明治維新を迎えて近代化をしていきます
00:02:25さあその時の朝鮮半島ですけれども 朝鮮王朝が続いていました
00:02:32そして日本と鎮国が戦う日清戦争までの40年を
00:02:39今日は見つめてまいります
00:02:41まずは欧米列強がアジアに進出してきて
00:02:44日本と朝鮮半島の関係がどのように変わっていくのか
00:02:48そこから見ていきましょう
00:02:5319世紀 欧米の軍艦は朝鮮半島にも迫ります
00:03:02左手に島が見えてきました
00:03:04ずっと繋がった長い島なんですけれども
00:03:08これがカンファドです
00:03:10反対側が朝鮮半島の本土です
00:03:16ここの真ん中のところは海なんですけど
00:03:19ずいぶんと狭いですね
00:03:27朝鮮王朝の都ハンソンに近いカンファド
00:03:321866年フランスの軍艦が侵入します
00:03:38その5年後今度はアメリカ軍艦が侵入
00:03:43アメリカ軍はカンファドの一部を占領します
00:03:51しかし朝鮮王朝から交渉を拒否され退去していました
00:04:01カンファドでは外国船のさらなる来航に備え
00:04:04次々と砲台が築かれました
00:04:08当時の様子が復元されています
00:04:13これずいぶん水平の場所にあるんですね
00:04:18もっと高いところから撃つんだと思ってたんですけど
00:04:23ほとんど海とそのまま水平の仕組みになってますよね
00:04:42通商を求めてやってくる外国船に対し
00:04:51強い拒絶の姿勢を見せていました
00:05:04欧米に対して鎖国を続ける朝鮮王朝
00:05:10当時実権を握っていたのは
00:05:14国王の父大尉君デウォン軍でした
00:05:20デウォン軍が掲げていたのは
00:05:23冷静赤蛇
00:05:26朱子学を生徒しそれ以外を蛇学として排斥する考えです
00:05:33デウォン軍はこの思想を全国隅々にまで徹底させていました
00:05:46関和碑です
00:05:49人目につきやすい港や街中に建てさせました
00:05:54西洋人が審判してきた時に
00:06:02戦わずして和を主張するのは
00:06:07国を売ることである
00:06:25その頃日本はすでに開国し
00:06:30天皇を中心とした新しい国づくり
00:06:33明治維新を進めていました
00:06:38明治政府は朝鮮王朝に対して
00:06:41王政復興を伝える外交文書を送ります
00:06:45そこには天皇を示す文字が記されていました
00:06:51これに対して朝鮮王朝が反発します
00:06:58当時朝鮮王朝は秦に調皇し
00:07:01秦の皇帝から王位を授かる相続関係にありました
00:07:09相続関係では中国の皇帝しか使えないとされる
00:07:13孔の文字
00:07:16それを日本が使ったことを問題視したのです
00:07:47一方、日本は蛮国公法などの国際法による
00:07:51新たな世界に組み込まれていました
00:07:56すでに神との間で対等な条約を結んだ日本は
00:08:00朝鮮王朝の態度に戸惑います
00:08:17朝鮮王朝は日本に対して
00:08:20秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:08:24日本は秦との間で対等な条約を結んだ日本は
00:08:28朝鮮王朝は日本に対して
00:08:31秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:08:35朝鮮王朝は日本に対して
00:08:38秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:08:42朝鮮王朝は日本に対して
00:08:45秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:08:48朝鮮王朝は日本に対して
00:08:51秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:08:54朝鮮王朝は日本に対して
00:08:57秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:00朝鮮王朝は日本に対して
00:09:03秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:06朝鮮王朝は日本に対して
00:09:09朝鮮王朝は日本に対して
00:09:12秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:15朝鮮王朝は日本に対して
00:09:18秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:21朝鮮王朝は日本に対して
00:09:24秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:27朝鮮王朝は日本に対して
00:09:30秦の皇帝から王位を授かる外交文書を送ります
00:09:33朝鮮王朝は日本に対して
00:09:37この動きを知った朝鮮王朝は
00:09:40日本の要求を拒否し続ければ
00:09:43出兵の口実を与えると警戒
00:09:46外交交渉を始めます
00:09:54こうした中1875年明治8年
00:09:57こうした中1875年明治8年
00:10:00日本の軍艦運用が朝鮮半島へと向かいました
00:10:07運用はカンファドに接近します
00:10:14その時島の砲台から発砲されます
00:10:21日本軍がこれに応戦し戦闘が始まります
00:10:24日本軍がこれに応戦し戦闘が始まります
00:10:30日本軍は周辺の島にも上陸し砲台を占拠しました
00:10:33日本軍は周辺の島にも上陸し砲台を占拠しました
00:10:43戦闘があったチョジジンの見張り台の跡です
00:11:04戦闘があったチョジジンの見張り台の跡です
00:11:16運用はなぜカンファドで戦闘に及んだのか
00:11:21日本政府が発表したおよそ1500字の公式の報告書です
00:11:28それによれば目的は航海研究でした
00:11:33それによれば目的は航海研究でした
00:11:37運用は水を補給するためカンファドに近づいたと繰り返し記しています
00:11:40運用は水を補給するためカンファドに近づいたと繰り返し記しています
00:11:49さらに国旗を掲げたにもかかわらず撃ってきたこと
00:11:56そして戦闘の規模は小さかったことが報告されています
00:11:59そして戦闘の規模は小さかったことが報告されています
00:12:04ところがこの公式報告とは別の記録があることが近年明らかになりました
00:12:07ところがこの公式報告とは別の記録があることが近年明らかになりました
00:12:12運用が朝鮮半島での活動を海軍に伝えた報告集
00:12:18その中に事件の詳細な記録が閉じられていました
00:12:26記したのは運用の艦長井上義海海軍少佐です
00:12:29記したのは運用の艦長井上義海海軍少佐です
00:12:33記したのは運用の艦長井上海軍少佐です
00:12:36記したのは運用の艦長井上海軍少佐です
00:12:39記したのは運用の艦長井上海軍少佐です
00:12:428時2分とか10時42分
00:12:49井上官庁の内部報告は公式報告書のほぼ2倍
00:12:543000字を超える詳細なものでした
00:13:02東京大学準教授の鈴木潤さんは
00:13:05井上官庁の内部報告と公式報告書との違いを分析しています
00:13:12水を実際に積んでいたんだと思うんですけど
00:13:17そのことが大きな論点にはこれではなっていないということです
00:13:22この測量および諸事献葬
00:13:26全然違うんですね
00:13:29測量が中心で諸事献葬
00:13:32いろんなものを探そうと
00:13:34その目的がまず違っています
00:13:37本日戦争を起こす
00:13:41戦争を起こす諸余は一度承知の通り
00:13:45先生ちょっと聞いていいですか
00:13:46みんなが知っているという
00:13:48一度承知の通りですね
00:13:49ということはどういうことになるんですか
00:13:51だからみんなが知っているように
00:13:53昨日冒頭出していったら
00:13:56何も言うことなく向こうから発砲してきたと
00:14:00いかに大きく戦って解消したかと
00:14:06立って戦って大勝利することによって
00:14:09その刻意を輝かせたんだと
00:14:12そういうニュアンスのことが書いてありますね
00:14:20この内部報告によれば
00:14:22運用は1875年9月20日の朝
00:14:26カンファドへ向かいました
00:14:30島の様子を探るため
00:14:31ボートで諸事人に近づいたその時
00:14:35突然大小砲が乱射されます
00:14:41日本軍は小銃で応戦しますが
00:14:44さらに激しく攻撃され
00:14:46運用へと引き返します
00:14:50翌21日
00:14:52運用はここで初めて国旗を掲げます
00:14:56井上艦長は
00:14:58本日戦争を起こすと乗組員に告げます
00:15:05再び諸事人に近づき運用から砲撃を開始
00:15:10それより戦争が始まり
00:15:12互いに攻撃し合います
00:15:19午後になると近くの島に上陸し
00:15:22砲台を焼き払います
00:15:25この上陸は公式報告書には記されていません
00:15:31翌22日
00:15:33カンファドの南のヨンジョンドへ向かいました
00:15:41ヨンジョンドには侵入を防ぐため
00:15:44奴隷や砲台が築かれていました
00:15:51戦争が終わると井上艦長も上陸
00:16:14大砲36門をはじめ
00:16:16小銃、弾薬、そして太鼓やドラに至るまで応集しました
00:16:23戦闘は3日間にわたっていました
00:16:29その後長崎へ帰還した井上は
00:16:32すぐに事件の詳細を海軍へ報告します
00:16:39井上は状況を命じられ
00:16:41海軍内部で記録が訂正されたと考えられます
00:16:47日本政府は海軍が訂正した記録を公式報告書として承認
00:16:55それが欧米に向けて公表されました
00:16:59朝鮮に対して国際的なルールに反することをやったら
00:17:03やっぱり欧米諸国の反発を買うし
00:17:06当時の日本には欧米諸国と戦う力はもちろんないですし
00:17:10どちらかというと彼らにとって文明国と認めてもらいたいという姿勢ですから
00:17:17そういう野蛮なことをしたということはできないわけです
00:17:22だから井上報告書そのまま出すことはできない
00:17:27一つの国家の意思に従って計画的に行われていたという話ではなくて
00:17:33当時の政府としてちょっと危ない橋を渡っているというか
00:17:39それぞれのセクション海軍の独断も含めて
00:17:44やってそれをやっちまったかということで何とか収集する中で
00:17:50一番いいオチにそれを無理にでも持っていく
00:17:54そういう過程だと思っています
00:17:59一方韓国側では運用の行動が日本政府の意図によるものだとする見方が提示されています
00:18:09保護者が2つあるという事実だけで
00:18:14日本側が何かを意図的に隠したのではないか
00:18:21その部分です
00:18:23何か事件を起こして
00:18:27今までの日本と韓国の間に沈黙の状態がありました
00:18:32それを破ってみましょう
00:18:34日本は朝鮮王朝に開国を迫ります
00:19:03事前に真の了承を求め
00:19:05アメリカからも了解を取り付けていました
00:19:13事件から5ヶ月後
00:19:15日本政府は6隻の軍艦と兵260人をカンファドに派遣します
00:19:27開戦を恐れた朝鮮王朝は
00:19:30日本の要求に応じざるを得ませんでした
00:19:391876年2月
00:19:42日朝宗皇上記が結ばれます
00:19:46その第一条で
00:19:48朝鮮国は自主の国とされ
00:19:51日本と平等の権利を持つことが明示されました
00:19:57東アジアの伝統的な国際秩序の中で
00:20:00それを日本は朝鮮を自主独立の国として扱うことで
00:20:05切り離していくと考えたんだと思います
00:20:10そうすることによって中国の影響力が排除できるだろう
00:20:13もしかして中国が何らかの答えで出ることは否定はできないけれども
00:20:18多分ないだろう
00:20:20関係を前提にして交渉すると
00:20:23中国がそういう資格であることを認めてしまうことになるわけですから
00:20:26日本はそこを切り離したい
00:20:28自主独立の国として朝鮮を扱うことで
00:20:32日本との関係だけで
00:20:34日本が影響力を強化する方向でいこうと考えたと思います
00:20:43この条約によって朝鮮王朝は開国へと向かいます
00:21:01しかし
00:21:02関税の自主権が朝鮮側にはないなど
00:21:05不平等条約でした
00:21:14朝鮮王朝は
00:21:17民族の試練の場所となり
00:21:21侵略が始まった場所というふうに
00:21:25朝鮮半島では捉えられているということですね
00:21:34中国を中心にした相続関係にあった朝鮮王朝
00:21:41降下島事件をきっかけに
00:21:43欧米を中心とした世界に向き合うことになります
00:21:50さあその降下島事件
00:21:52日韓の双方の最新の高校の教科書ではどのように書かれているのでしょうか
00:21:58まず日本の教科書です
00:22:01降下島事件を機に
00:22:03日本は朝鮮に迫って
00:22:05翌1876年に日朝宗皇条旗を結び
00:22:10朝鮮を開国させたと記されています
00:22:14韓国の教科書ではどうでしょうか
00:22:17日本は韓半島侵略を伺い
00:22:21運用豪事件を引き起こした
00:22:23これをきっかけに朝鮮は日本と降下島条約を結んで
00:22:27国の門を開いた
00:22:29こう記されています
00:22:31文字は少ししか違わないんですけど
00:22:33印象はずいぶん違いますね
00:22:35今日は日本と韓国から専門家の方を2人をお招きしています
00:22:40ご紹介します
00:22:41東京大学名誉教授のバンノジュンジさん
00:22:45日本の近代史がご専門です
00:22:47どうぞよろしくお願いします
00:22:49韓国からはソウル大学名誉教授のキムヨンドクさんです
00:22:53日本の明治維新を研究され
00:22:55近代の東アジアの国際関係についても調べておられます
00:22:59ようこそ
00:23:00お目にかかれて光栄です
00:23:02よろしくお願いします
00:23:03さあ早速ですけど
00:23:05日本が朝鮮王朝に外交文書を出した
00:23:09そこから対立が始まるんですけれど
00:23:12朝鮮王朝は反発をしますよね
00:23:15これはどういう理由からだったんでしょうか
00:23:19政治的な世界観から見ると
00:23:23朝鮮王朝は中華的な秩序の中で
00:23:27近代国家の一員として進んでいこうとしたのに対し
00:23:31日本は朝鮮を近代国家として早く開交させようとしました
00:23:38そこに両国の政治的な見解の差があると見ることができます
00:23:44朝鮮王朝としては
00:23:46日本の立場は受け入れがたいものであったと見ることができます
00:23:52その背景には価値観
00:23:55新しい世界観との違いがあったということですね
00:24:00万能さんこの対立の背景をどうご覧になっていますか
00:24:04地図できます
00:24:06当時の地図ですね
00:24:08赤いところとオレンジ色のところがありました
00:24:11あの違いは
00:24:12創出国と続国なんだと思う
00:24:15赤いのが新朝中国ですね
00:24:19新朝中国がその間にベトナムに至る中華文化園があった
00:24:25本来ならば日本もあの場所から言えば地理的に言えば
00:24:29そこにあってもよかった
00:24:31地図で日本は白くなってます
00:24:34もしあれが赤とか
00:24:36種であればフェリーが来た時に
00:24:39中華地図と欧米的価値観との衝突があったんです
00:24:44ところが210年にわたって日本は鎖国してますから
00:24:48欧米的な世界秩序を受け入れられた
00:24:53もし日本が210年間中華地図にあれば
00:24:57この天皇を使ったら朝鮮が反発するとか
00:25:01中国はどう反応するだとか分かったはずなんですけど
00:25:04こちらは欧米と鎖国しただけじゃなくて
00:25:08基本的には東アジアの秩序からも鎖国してたわけですから
00:25:12だから日本は割と平気でそういうことをやっていく
00:25:17やがてそれが先頭に結びついていくということですね
00:25:22国家統治権なんですけれども
00:25:242つの報告書があったということですが
00:25:26これはどういうふうに見ることができるんでしょうか
00:25:311つは正式な報告書であり
00:25:33もう1つは内部の報告書であると見るのが良いのでしょう
00:25:39内部の報告書が確実なものであって
00:25:42その状況をはっきりと伝えているのだと見ることができますし
00:25:46正式な報告書は外国に対して
00:25:49日本の立場を説明するためのものであると考えられます
00:25:55朝鮮王朝が適切に対応できなかった場合には
00:25:59強制的に開講させるべきである
00:26:02という日本の意図がはっきりと見られるわけです
00:26:09だから日本側の意図っていうのをどう見るか
00:26:12ということが1つのポイントだと思うんですが
00:26:15日本側は幕末の海軍奉行のかつ改修の頃から
00:26:21正観論っていうのはものすごく海軍の間で強いんです
00:26:26そしてその前年1874年明治7年に台湾出兵の時に
00:26:32日本の海軍は新朝中国、中国と一戦やるつもりで
00:26:37全部体制を整えた
00:26:39だから海軍は明治8年高架島事件の時の海軍は
00:26:44戦争をやりたくてしょうがなかった
00:26:47それで井上運用官がやった場合に海軍は準備ができて
00:26:52ただそこからじゃあ日本政府、明治政府全部が
00:26:57という話にはならないんだ
00:27:00例えば軌道工員って参議トップですけど
00:27:03上に行けば行くほど耳が悪くなんですね
00:27:06こういうもの伝わってこないんですよね
00:27:09だから彼は本当に怒っちゃうわけです
00:27:11でも多分シナリオっていうのはそういうもんで
00:27:14本気に全部こういうことでありますよって陰謀をやると
00:27:17本気で怒ってくれる人いないですよね
00:27:20知らないからこそ本気に怒って
00:27:23高架島条約を結びに六層の軍艦を出すわけですね
00:27:27そこらへんはやっぱりギャップがあるんじゃないか
00:27:34高架島条約は日本が勢力を拡張しようとした
00:27:39第一段階だと見ることができます
00:27:43その後日本は寒半島に対する立場を
00:27:47次第にエスカレートさせていったと見ているわけです
00:27:54事件を受けて高架島条約が結まれるわけですけど
00:27:58これは朝鮮は自主の国って歌ってるわけですよね
00:28:04これでどういう関係を築いていこうとしたのか
00:28:08だいたい日本と朝鮮王朝の間で条約で
00:28:13朝鮮が自主の国なんて文章おかしいじゃないですか
00:28:16条約ってのは自主の国同士がやるものでしょう
00:28:19それをわざわざ書いたのは
00:28:22新国の続国ではないぞということを認めさせたわけです
00:28:28朝鮮政府に
00:28:29そのために六層の軍艦が必要だったわけですね
00:28:34だから新国に対して少し距離を置くと
00:28:38ということを言わせたわけですね
00:28:41朝鮮王朝はどう受け止めて条約を結んだのでしょうか
00:28:48朝鮮王朝としては
00:28:50中華帝国秩序の中での朝鮮の地位を守りながら
00:28:55日本との近代的条約体系を受け入れるという
00:29:00ダブルスタンダードを持っていたわけです
00:29:05そうしたダブルスタンダードの中で
00:29:08日本と高下等条約を結んだと見ることができます
00:29:17なかなか大きな溝のようなものをはらみながら
00:29:21朝鮮王朝は開国をするということになるわけですけど
00:29:24さあこの高下等事件の後
00:29:28日本と朝鮮王朝の関係はどうなっていくのか
00:29:31見ていくことにしましょう
00:29:35日朝宗皇上記以降
00:29:37朝鮮王朝では近代化へ向けた模索が始まります
00:29:45レウォン郡に代わり国王の古城が中心となった朝鮮王朝は
00:29:501876年
00:29:52終身寺と呼ばれる施設を日本へ派遣します
00:29:59終身寺は産業施設などを訪ね
00:30:02日本の文明開化を目の当たりにします
00:30:10道は清潔かつきれいで
00:30:13ひどくみすぼらしい人を見かけることはなかった
00:30:22横浜から新橋まで汽車に乗った
00:30:25駅の外から廊下を歩いた
00:30:28どこに車両があるのかと聞くと
00:30:31今歩いてきたここが車両だと言われた
00:30:38朝鮮でも日本の文物を学ぶ人々が現れます
00:30:43抹茶を吸った人を魔術師だと驚いたといいます
00:30:51本は歴史、智力、物理、科学などあり
00:30:56漢字を拾い読みして意味はわかった
00:31:00我が国も人民の権利を打ち立ててみようという考えが生まれた
00:31:10近代化を目指す朝鮮に対し
00:31:12日本でいち早く関心を寄せた人がいました
00:31:20明治の啓蒙思想家、福沢諭吉です
00:31:24福沢は終身紙を見たときの思いを書にしたためていました
00:31:55幕末、福沢は施設の一員として欧米を訪れました
00:32:00西洋文明に衝撃を受けた自らの姿を
00:32:04朝鮮の施設に重ねた
00:32:25幕門の進めで近代思想を広く国民に伝えました
00:32:31天は人の上に人を作らず
00:32:35一心独立して一国独立す
00:32:43福沢は自ら創設した慶應義塾に朝鮮からの留学生を受け入れました
00:32:54福沢諭吉は
00:32:59「朝鮮の方たちの写真ですよね。おそらく慶應に入ったときに
00:33:04福沢に送った写真と思われまして
00:33:09裏側には福沢への献辞といいますか
00:33:14福沢諭吉はこの時には朝鮮の人たちを見て
00:33:19どんなふうに思っていたのでしょうか
00:33:24そういう希望を持っていたと思います」
00:33:31朝鮮王朝では近代化へ向けた改革が始まりました
00:33:41それを伺わせる施設の跡が去年ソウルで発掘されました
00:33:46武器の保管庫や火薬庫、兵舎など軍事施設の跡です
00:34:17日本の陸軍将校を教官に招いて訓練を行った
00:34:22朝鮮最初の洋式軍隊、別に軍です
00:34:27旧式軍隊とは別に
00:34:32日本に習った軍政改革も進められました
00:34:37日本の文明開化に関心を寄せた古城は
00:34:41日本に詳しい人材を求めます
00:34:46その一人に金玉琴、金億均がいました
00:34:51後に改革派といわれる官僚です
00:34:561882年、金億均は福沢諭吉の元を訪ねました
00:35:0131歳の時です
00:35:06日本の文明改革に関心を寄せた
00:35:11日本の文明改革に関心を寄せた
00:35:16金億均の文化が見つかりました
00:35:211923年、日本の文化が見つかる
00:35:261923年、日本の文化が見つかる
00:35:311924年、日本の文化が見つかる
00:35:361927年、日本の文化が見つかる
00:35:411948年、日本の文化が見つかる
00:35:461949年、日本の文化が見つかる
00:35:511951年、日本の文化が見つかる
00:35:561952年、日本の文化が見つかる
00:36:011953年、日本の文化が見つかる
00:36:061954年、日本の文化が見つかる
00:36:111957年、日本の文化が見つかる
00:36:161958年、日本の文化が見つかる
00:36:211959年、日本の文化が見つかる
00:36:261960年、日本の文化が見つかる
00:36:311961年、日本の文化が見つかる
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00:37:411975年、日本の文化が見つかる
00:37:461976年、日本の文化が見つかる
00:37:511987年 slipping into anticlimax
00:38:11日本は朝鮮を独立国とみなし、私たちをとても手厚くもてなした。
00:38:19私は日本の本音がどこにあるのかを探った。
00:38:25そして信じてもいいと考え、日本に頼ることにした。
00:38:32日本は朝鮮を拡大させるために日本の力を利用した。
00:38:38日本の良い気持ちを持っている解放派を利用した。
00:38:43岸本君はそれを知っていたが、
00:38:47当時、朝鮮の独立を助ける国は相対的に少なかった。
00:38:55しかし日本は積極的に助ける意欲を持っていた。
00:38:58日本の力を利用したとしても、
00:39:02まずは朝鮮を除いて、私たち自身で現代化を進めるとしたら、
00:39:08後で日本の影響力を阻止して、
00:39:12朝鮮が自主独立国として固まることができるという計画を立てた。
00:39:22岸本君が日本に接近した背景には、真の対等がありました。
00:39:29この頃建造された新国海軍の主力艦、庭園です。
00:39:38排水量およそ7200トン。
00:39:42当時の日本の主力艦のほぼ倍の大きさです。
00:39:50真もまた、欧米の技術を取り入れ、
00:39:54軍の近代化と拡大に努めていました。
00:39:59それを押し進めたのが、北洋大臣の李光昌です。
00:40:08李光昌は、相続関係にある周辺諸国に、
00:40:13欧米から真を守る役割を期待していました。
00:40:18しかし、日本の台湾出兵や高架島事件、
00:40:23琉球処分を受け、危機感を抱きます。
00:40:29少しずつ中国の周りの辺境が失われていくわけですね。
00:40:34辺境が失われていくということは、
00:40:37中国が直接欧米とか他の国と接触することになるわけです。
00:40:42そうすると、今まで存在していた総種の辺境が失われることになれば、
00:40:48それは安全保障にとっても危険ですし、
00:40:51特に朝鮮は中国東北部と接していますから、
00:40:54そこは清朝の墓地ですから、そこに日本の影響力が及ぶことは、
00:40:59清朝にとっては好ましくない。
00:41:01中国はできるだけ朝鮮の上位に行って、
00:41:05朝鮮に何でもある程度できる状態にしておく。
00:41:08それには相続関係という従来のやり方が望ましい。
00:41:13日本だけが朝鮮に独占的な影響力を持たないようにしていく。
00:41:19これが李光昌の政策だと思いますね。
00:41:25清の軍事拡大に対し、陸軍参謀本部長の山形有朋は、
00:41:32軍閣の必要性を明治天皇に上奏します。
00:41:36連邦の兵備いよいよ固ければ、
00:41:41本邦の兵備もまた揺るがせにすべからず。
00:41:45朝鮮王朝では日本だけでなく、清へも施設を多く派遣します。
00:41:56日本に接近する勢力に対して、清に頼る勢力が依然として強い力を持っていました。
00:42:07開港後の朝鮮では、
00:42:13米が外国へ輸出されたため、
00:42:16米貨が荒唐し、民衆を苦しめていました。
00:42:24中には、六本格子に向かって石を投げつける人も現れます。
00:42:31民衆の不満は日本へと向かっていました。
00:42:381882年、朝鮮の軍隊で暴動が起きます。
00:42:47神戸軍団です。
00:42:51近代の朝鮮王朝を舞台にした韓国ドラマです。
00:43:07新式軍隊を指導していた日本人将校が、旧式軍隊の兵士に殺害されます。
00:43:17その後、暴動は民衆にも広がり、日本公使館が包囲されます。
00:43:25孤立した日本公使館員は、自ら火を放ち脱出します。
00:43:35外国の廃籍を主張してきたデウォン軍は、暴動を利用して権力を奪い返そうとします。
00:43:45これに対して朝鮮王朝は、真に援軍を要請します。
00:43:55李公章は直ちに千人の軍を送り、暴動を鎮圧。デウォン軍を真に連行しました。
00:44:08日本にいた金岡軍は急遽帰国します。そこで目にしたのは、駐留する真の大軍でした。
00:44:19軍乱を知った福沢諭吉は、こう述べています。
00:44:24日本人を殺傷横断して赤城の実を行わんとする者は、皆農商民なり。
00:44:33赤執、日本の上位論は政府の説なり。
00:44:37今日、朝鮮の赤城論は人民の説なり。
00:44:42政府の説はこれを改むることやすし、人民の説はこれを改むることかたし。
00:44:52問題は政府が抑えられないわけですよね。
00:44:57政府が抑えられないことは、新国から新国に対する出兵要請で抑えていくという、ちょっと信じられない状況が起きてくる。
00:45:11これを民衆が支持しているということですから、今そこにも人心法に向かえている。
00:45:21政府というのは要するに大軍は大軍をどこか連れて行けば、政府は変えることができますから、それは簡単なんですね。
00:45:29しかしその民衆というのはまだずっとそこに生活していくわけですから、その民衆をどのように変えていくのかということは、
00:45:37これは大問題だというふうに福沢は考えたんじゃないでしょうかね。
00:45:48真の軍事介入を招いた人後軍乱。
00:45:53これを機に日本と朝鮮半島との関係は大きな転機を迎えたのです。
00:46:00取材で訪れて福沢諭吉が朝鮮の留学生たちと毎日寝泊まりをしたり話をしたりということで、朝鮮にこれほどまでに関心を持っていたということを私は初めて知ったんですけれども、
00:46:15福沢諭吉はこの朝鮮の留学生たちに何を期待していたんでしょうか。
00:46:20彼はヨーロッパがどうか文明論の概略だという欧米文化をずっと関心を持っていたんです。
00:46:26ですから、そこへ突然自分たちが幕末に欧米に惚れ込んだと同じような気持ちで、朝鮮王朝の若い人たちが2人だけじゃなくて60人も何人もやってくるわけですね。
00:46:41それにやっぱり自分たちの幕末の欧米と初めて接した時の自分たちを思い出した。
00:46:49何とかしてあげなければいけない。
00:46:52反対に、金王宮なんですけれども、日本に福沢諭吉に期待したことというのはどんなことだったんでしょうか。
00:46:59日本をモデルにした朝鮮の近代化を考えていたのでしょう。
00:47:07日本から近代化の過程を学ぼうとしました。
00:47:12究極的には日本と朝鮮が近代化された2つの国として協力関係を結ぶことが恐らく金王君たちの夢であったのでしょう。
00:47:28実際には日本を利用して朝鮮の近代化を図ろうとしたと考えられます。
00:47:36そういう中で朝鮮で暴動が起きるんですよね。人口混乱。これはどうして起きたんでしょうか。
00:47:48日本でも同じだと思いますが、開港後に生活が苦しくなったことが民衆たちの不満を引き起こしたように朝鮮でも民衆の不満が高まりました。
00:48:02それが旧式軍隊の不満へとつながり、それがまさに日本人が教育していた新式軍隊に対する不満として爆発したのです。
00:48:16朝鮮の民衆たちが感じていた生活と政治に対する不満、これが爆発のきっかけになったんでしょう。
00:48:25その爆発力は非常に大きかった。そういう事件であると見ることができます。
00:48:32日本にとってもこの事件は初期のりですよね。
00:48:39やっぱり日本の方は高下等条約が実施に移されて留学生も来る、視察団も来る、いけいけどんどんの時だったんですよ。朝鮮の日本への関心がどんどん高まってきている。
00:48:52だからかなり右頂点になっていて、その時に新朝中国が介入するというか帝国主義的になっていくとします。
00:49:02そうしたらこれは非常にぶつかる。新朝中国が警戒するのは当たり前の状態。
00:49:11ただそれにもかかわらず日本は警戒していなかったですよね。
00:49:14その新国の介入の意図というのは、日本と戦うということも考えたということですか?
00:49:23いや、日本の方は何かやらないとカッコつかないですよね。
00:49:29全員が公使館を放棄して、公使館というのは日本の領土なんですよ、国際法で。そこから追い出されて日本は帰ってくるわけですね。
00:49:40これに対して朝鮮に対して抗議の兵隊を出しますね。このままだと日本に後日があります。
00:49:49それを無くすために大陸を介入してきて連れて行ってしまって、日本の後日を無くさせているんじゃないかと。
00:49:58万能先生の説明にもう一つ付け加えると、朝鮮において民衆の反乱がとても危険な水準にまで達していました。
00:50:09そのため早く朝鮮国王の故障の体制を安定させて、朝鮮王朝の内政を真の影響下で安定させる必要がありました。
00:50:21それが、真が介入してデボン軍を連行した重要な理由の一つだと見ることができます。
00:50:30福沢はこの状況を見て、人民の説は改めることが難しいというようなことを言っています。
00:50:41実際、大陸の軍隊、旧式軍が攻ったならば、プレッシャーをかけて政権を変えればいいわけですね。
00:50:52ところが取り巻いたのは朝鮮の民衆なんです。
00:50:57だからそこは福沢としては困る。一生懸命やっているのは、若きエリートの教育をやっているわけじゃないですか。
00:51:04民衆がその反対だったらどうするんだという、これは大変な話だと思います。
00:51:09キム・オッキュンはこの状況をどう受け止めたでしょうか。
00:51:14キム・オッキュンは真に対して大きな厳密を感じていました。
00:51:22ですから、いかなる方法を使っても真との関係を断ち切るべきであるという確信を持つようになったと考えられます。
00:51:34そうしたことから、朝鮮内部で真と親しくしていこうとする新進派と新日派の対立が次第に表面化したと見ることができます。
00:51:46今、キム先生のおっしゃった話のように、新共中国の影響力が拡大します。
00:51:53でも、新日派の影響力も朝鮮政府内でぐんぐん大きくなってきますね。
00:51:58日本の方は財務法条約で公使館の守備隊を持てる。
00:52:05民衆に囲まれて公使館が潰れないようにそれを持てるようになった。
00:52:11だから日本の地位も減ってないですよ。
00:52:14中国の影響力も拡大し、日本の影響力も拡大し、朝鮮国内の反日派の影響力も拡大し、
00:52:26新日派改革派の勢力も拡大する。
00:52:31そう見てもいいと思いますよ。
00:52:36人五軍乱後、日本と朝鮮王朝の関係はどうなっていくのでしょうか。
00:52:56その古文として再び日本へ向かいます。
00:53:00一行は神戸港に近い旅館に滞在しました。
00:53:09そこで朝鮮王朝独自の旗を初めて外国の地に掲げます。
00:53:18その時の旗のスケッチが残されていました。
00:53:24このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:53:35これはスケッチです。
00:53:41デザインですね。
00:53:43デザインです。
00:53:44このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:53:49日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:53:54このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:53:59このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:54:04このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:54:08このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
00:54:13このスケッチは日本に行ったときに作られたスケッチです。
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00:57:34欧米列強に分割される真の姿を予測しています
00:57:45キムオッキュンによればこの頃
00:57:48日本公使会員は態度を一変させ
00:57:51次のように語ったといいます
00:57:57今や新国とフランスの関係は急変し危うい
00:58:05あなたたちがもし国のために改革の巨に出るならば
00:58:11我が政府もこれを不可とはしない
00:58:23キムオッキュンは日本の外交方針が変わったと判断し
00:58:28故郷に告げます
00:58:31故郷も朝鮮の独立を図ろうと考えていたといいます
00:58:54近代的な郵政事業を始めるために作られた郵政総局
00:59:00開局を記念する祝賀パーティーの場で政変が起きます
00:59:061884年明治17年
00:59:09甲寿寺変です
00:59:17原石には朝鮮王朝の公館をはじめ
00:59:20各国の公使会員たちも招かれていました
00:59:23キムオッキュンたちは真に頼る勢力を実力で排除する
00:59:27クーデターの計画を立てていました
00:59:53しばらくして外で火の手が上がります
01:00:00その後混乱の中で真に頼る官僚たちが殺害されます
01:00:09キムオッキュンは故郷に日本へ出兵を求めるよう説得します
01:00:24故郷は日本公使が来て守るよう証書を発しました
01:00:34要請を受けた日本公使竹添慎一郎
01:00:38およそ140人の日本兵と共に王宮に入ります
01:00:45キムオッキュンたちの新政権が発足しました
01:00:54新政権が発した十四カ条の政令です
01:01:01その第一条は
01:01:03秦へ連行されたデウォン軍の帰還でした
01:01:09秦への調降を廃止し
01:01:12秦からの独立を最優先に掲げます
01:01:18さらに問罰を廃止し
01:01:21身分の分け隔てなく人材を投与すること
01:01:26税制の改革
01:01:29巡査をおいて窃盗を防ぐことなど
01:01:32日本に習った制度改革も謳っていました
01:01:40しかし秦は中流軍およそ1500人を出動し
01:01:45王宮を包囲します
01:01:52政変から三日目
01:01:55新軍が王宮を攻撃します
01:02:03日本軍は防戦しきれず
01:02:05開化派が殺害されます
01:02:11キムオッキュンは日本に亡命
01:02:14クーデターはわずか三日で失敗に終わりました
01:02:44秦は王宮を攻撃するのに時間がかかり
01:02:47当時はそれが不可能だと考えました
01:02:50その方法よりは
01:02:53王宮は全ての力を持っているので
01:02:56王宮を説得し
01:02:58王宮を支援し
01:03:00改革を進める条件を作れば
01:03:02自然に改革が正しく進められると
01:03:05民衆も理解し
01:03:07応えられると考えました
01:03:09今言ったように
01:03:11改革は自然に改革を進められると考えました
01:03:17福沢諭吉は後に
01:03:20後進事変への関与を否定しています
01:03:23しかし
01:03:25政変の失敗に衝撃を受けた福沢は
01:03:28時事新報の写説にその思いをつづります
01:03:32脱亜論です
01:03:42我が国は隣国の解明を待ちて
01:03:45共にアジアを起こすの猶予あるべからず
01:03:50その死な朝鮮に接するの法も
01:03:53隣国なるがゆえにとて特別の餌食に及ばず
01:03:58まさに西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ
01:04:05我は心において
01:04:07アジア東方の悪有を遮蔑するものなり
01:04:13あの脱亜の亜というのは
01:04:16朝鮮が新国と書いていますけど
01:04:19基本的に言えば
01:04:21相続関係下の東アジアに負けたという
01:04:25福沢諭吉は朝鮮の民衆の自立とか
01:04:30そういうものを非常に期待していて
01:04:32問題点はそこにあるというのを少し把握はしたんだけど
01:04:36それに失敗したということじゃないですか
01:04:40撤退宣言ですよね
01:04:42言えば福沢の責任になると思うんですけど
01:04:44福沢が後進戦へのリーダーたちを育てきれなかったということじゃないでしょうか
01:04:53朝鮮の近代化を目指した福沢諭吉と金岡君
01:04:59後進事変によってその試みは挫折したのです
01:05:07それにしてもどうして金岡君はクーデターを起こしたのでしょうか
01:05:15金岡君は朝鮮が真から完全に独立するために
01:05:22そして近代国家になるためには
01:05:26このクーデターは避けられない段階であると考えていたのでしょう
01:05:33もう一つはクーデターが成功するだろうという期待を
01:05:38日本にかけていたと見ることができます
01:05:43日本から何らかの支援の約束のようなものを受けていたと考えられます
01:05:51ですから金岡君はこのクーデターが成功すれば
01:05:56その後いわゆる開化派勢力が
01:05:59より積極的に朝鮮を近代化させていくことができる
01:06:05金岡君はそのように予想していたのでしょう
01:06:10日本の関与があったのではないかと
01:06:14竹添信一郎皇帝自体は約束を果たしたんですよ
01:06:18だって守備隊を連れて王宮に入ったわけですから
01:06:22だから竹添はそれだけのことをやるためには
01:06:26本国政府から何らかの出兵の話を見てなきゃ
01:06:30140人で勝てるわけないわけですから
01:06:33日本政府の方から言えばせめて1週間は持ってくれよなと
01:06:38軍艦で兵隊を送るんだって時間かかるんだから
01:06:42ところが3日で三日殿下だったということです
01:06:45この甲信事変について福沢雄吉の関与はあったんでしょうか
01:06:50そこが非常に微妙なところでして
01:06:53竹添公子が守備兵隊を率いて王宮に攻める
01:06:58それを福沢が知っていて
01:07:00サジェッションというか示唆したわけではないと思うんですよね
01:07:04ただもう片方である程度ちょっと強く言いたいのは
01:07:08福沢の一番弟子の金岡君がフルデータをやっているので
01:07:13これは福沢が全く知らなかったというのも
01:07:16僕は無理な話じゃないかなと
01:07:18そういうふうに思うんですけども
01:07:20だから歴史はこう白か黒か全く知らなかったのかという
01:07:24大抵こういう話は漫画家なんじゃないだろうかと思うんですけども
01:07:29結局でも明治維新に習ってやろうとした朝鮮の近代化というのは
01:07:36この甲信事変で挫折をしていくわけですけど
01:07:40なぜ挫折をしたというふうに今お考えになりますか
01:07:47当時朝鮮には様々な外国からの圧力が加わっていました
01:07:56中国と日本以外にイギリスやロシア
01:08:01アメリカなども朝鮮に関心を持っていました
01:08:06一つ例を挙げますと
01:08:08イギリスはロシアの勢力を防ぐために
01:08:12韓半島の南にある古文堂を一時期占領したことがあります
01:08:18それぐらい外国の勢力が朝鮮を巡って互いに争っていたので
01:08:24安定した状況で改革勢力
01:08:27つまり改革派が形成されるのが難しかったことが
01:08:31もう一つの要因と見ることができます
01:08:38でも朝鮮の人たちをあれだけ助けようとしていた福沢が
01:08:45脱波という言葉を使うとなかなかショッキングというか
01:08:50え?という思いが
01:08:52でもずっとやってきた人たちがみんな処刑されたり
01:08:57亡命したり負けちゃうわけですね
01:09:00それはやっぱりかわいさ余って憎さ100倍になると思うんですよ
01:09:06でもそれを朝鮮について怒っているわけじゃなくて
01:09:11もう介入しないよっていう
01:09:15アジアから手を引くよっていう宣言だ
01:09:20だから入はしない
01:09:22入はしないのが脱はでしょ
01:09:26その脱っていう言葉
01:09:29これをどういうふうに受け止めたらいいんですか
01:09:32脱っていうのが必ずしも戦後の学者が言っているほどに
01:09:37帝国主義になるんじゃなくて
01:09:40もう介入はやめるよっていう
01:09:43福沢の言ったことを英語で論文を書くときに
01:09:46それが根拠になる逆ですから根拠にはなりませんけど
01:09:50でも普通エスケープフロムエイシアって
01:09:53エスケープフロムエイシア脱はでしょ
01:09:57エスケープって逃げるとかそういう意味に取りますよね
01:10:02脱走ってもいいですか
01:10:05おそらく福沢諭吉が脱亜論を書いたときに
01:10:13まずは中国に対する怒り
01:10:18そして朝鮮王室に対する厳烈
01:10:23このようなものが複合的にあったとみられます
01:10:29しかしながら脱亜論はその後
01:10:33日本が西洋の列強のように帝国主義化していく
01:10:39一つの帝国へと変わっていくきっかけとなりました
01:10:45その後朝鮮を侵略していく一つの理論的な根拠になったと
01:10:51韓国では見ています
01:10:56それはおそらく戦後の日本の研究
01:11:01韓国の学者がそういう風に受け
01:11:08同時代に脱亜をそういう風に取ったかどうかは分からない
01:11:13戦後の研究で日本の進歩的な学者は脱亜帝国主義化
01:11:19それを韓国の学者は読んで福沢家しか読めない
01:11:24これで日清戦争から韓国併合までいくのは脱亜論のおかげだとなる
01:11:29書いた人がどういう意図で書いたかは私は分析しますが
01:11:34読んだ人がどう読むかは全然違う話ですからね
01:11:38福沢はそう書いていることは間違いないから
01:11:41僕みたいに好意的な解釈ばかりが起こるわけではない
01:11:44むしろ学名通りに読めば韓国の歴史学者が言っている通りのことが書いてある
01:11:51これはそう信じるのは無理ない
01:11:54ただずっと見てきますと人口事件の前の関わり
01:11:58朝鮮の留学生の面倒を見てその全部を見てくると
01:12:02僕みたいな好意的な解釈をしたくなるということですね
01:12:08さあその後進事変の後ですが脱亜論も出てまいりまして
01:12:1310年後日清戦争に至ります
01:12:17その時代を見ていきます
01:12:24後進事変の後朝鮮半島における日本の影響力は大きく後退し
01:12:30清が力を増します
01:12:35日清両国は軍隊を朝鮮から撤兵し
01:12:39出兵する場合は互いに事前通告することとなりました
01:12:48キムオッキュンたち開化派は福沢諭吉の下に身を寄せます
01:12:56彼らは朝鮮王朝から身柄の引渡しを求められ
01:13:00亡命生活を余儀なくされます
01:13:04その後キムオッキュンは小笠原諸島や北海道など
01:13:08日本各地を転々とします
01:13:33各地の資産家の支援を受けながら朝鮮独立に向けた活動を続けていました
01:13:54支援者に送った書にその思いが記されています
01:14:03天の道というものは余分に持つものから取り上げて
01:14:08足りないものに補っていくものである
01:14:12人の道は違っていて足りないものから取り上げて
01:14:17余裕のあるものへ差し出しているようだ
01:14:33いろんなことを考えながらこの書に
01:14:35日本各地を転々としていたわけですけれど
01:14:39いつかは朝鮮に戻って自分の運動を
01:14:44すごく救いたいという意思がこの書から感じられるんじゃないかと思います
01:14:57日本で再起きしていたキムオッキュン
01:15:01しかし日本では神と朝鮮に対する世論が悪化していきます
01:15:121890年第一回帝国議会が開かれます
01:15:18時の首相山形有朋は施政方針演説で軍閣を主張
01:15:26日本の防衛は本国だけでなく利益戦にも及ぼすべきだとしています
01:15:33利益戦とは朝鮮半島のことでした
01:15:41行きずわったキムオッキュンは真の立候補書に手紙を送っていました
01:15:48求めたのは朝鮮の中立です
01:15:53朝鮮と真日本の三国の連携三和を唱えます
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01:18:36朝鮮と真日本の三国の連携三和を唱えます
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01:18:42朝鮮と真日本の三国の連携三和を唱えます
01:18:46朝鮮王朝は農民戦争を鎮壓するため
01:18:49朝鮮王朝は農民戦争を鎮壓するため
01:18:52新に出兵を要請します
01:18:591894年6月
01:19:02新軍が朝鮮半島に出動
01:19:05事前に通告を受けた日本もこれに対抗します
01:19:08事前に通告を受けた日本もこれに対抗します
01:19:11農民軍は朝鮮王朝と和睦しますが
01:19:15日清領軍は撤退しませんでした
01:19:25この時福沢諭吉は
01:19:28あくまで朝鮮内部の改革を重視すべきだと主張します
01:19:31あくまで朝鮮内部の改革を重視すべきだと主張します
01:19:37朝鮮の国土はこれを壁断して 事実に益なく
01:19:40朝鮮の国土はこれを壁断して 事実に益なく
01:19:43かえって東洋全体の安寧を害するの恐れある
01:19:52日清両国は朝鮮の内政改革をめぐって対立
01:19:58日本軍は朝鮮王宮を占領します
01:20:051894年明治27年8月
01:20:10日本は真に戦線を布告
01:20:13日清戦争です
01:20:19福沢は戦争が始まると
01:20:21戦費の拒出を民間に呼びかけます
01:20:25自らも1万円を拒出しました
01:20:33日清戦争は日本の勝利に終わり
01:20:36講和条約が結ばれます
01:20:40その第一条では
01:20:42朝鮮が完全無欠な独立自主の国であると確認されました
01:20:54日清戦争後も福沢は
01:20:56朝鮮から多くの留学生を慶応義塾に受け入れ支援しました
01:21:06そして1901年
01:21:09福沢は66歳で世を去りました
01:21:17福沢の死から3年後
01:21:20日露戦争が勃発
01:21:23その後韓国併合によって
01:21:25朝鮮半島は日本の植民地となります
01:21:39この近代化を果たすことはできなかったけれども
01:21:42それを一緒に目指した
01:21:44福沢との出会いというのもすごく大きかったんじゃないかな
01:21:48というふうに思うんですけれども
01:21:50先生いかがですか
01:21:52この過渡から脱波論につなげて
01:21:55日清戦争につなげて
01:21:57韓国併合につなげると
01:21:59歴史は短線的には日本の侵略の話になるじゃないですか
01:22:04僕はそれに対して
01:22:06韓国併合1910年から
01:22:08その原因を探って
01:22:10短線的に戻っていくという歴史観に
01:22:12半分反対で
01:22:15和をその時その時
01:22:19レモンの輪切りみたいに見ていくと
01:22:22そういう短線でいかないところがあるんじゃないか
01:22:25それが今日皆さんでやった
01:22:27人口供給の時期
01:22:30全然違う和ですよね
01:22:32この4年間ぐらいを輪切りにしてみると
01:22:35日本と韓国が1945年までの中で
01:22:39一番干渉はしましたよ
01:22:43武力は使いましたよ
01:22:45だけど一番接近した4年間は見えてくると思う
01:22:49要するに福沢のほうが
01:22:51自分が学んだものを
01:22:53朝鮮王朝の若きリーダーに伝える
01:22:57だから自分の弟子のように思っていると思いますね
01:23:01その意味での彼の感動は
01:23:04これはもう推測になりますけど
01:23:06慶応義塾で勉強している
01:23:08福沢の弟子さん以上に
01:23:10思い出があったんじゃないかな
01:23:12というふうに思いますね
01:23:192人とも近代的な国民国家を作るべきである
01:23:24という点において
01:23:26一致する意見を持っていて
01:23:29そのような面では
01:23:32互いに深い人間関係を結んでいたと思います
01:23:38もちろん慶応義塾は
01:23:41開化派の勢力を強くしようとしましたが
01:23:45西洋列強が圧迫しつつあり
01:23:48日本の侵略の意図が
01:23:50次第に強まりつつあった中で
01:23:53結局朝鮮王朝で開化派の勢力を
01:23:58十分に形成することができませんでした
01:24:04それが慶応義塾の悲劇だった
01:24:07と見ることができます
01:24:28朝鮮王朝としては
01:24:49自らの力で自らが計画を立てて
01:24:54改革をしようとしていました
01:24:57伝統的な秩序が急激に壊れることを防ぎながら
01:25:02少しずつ自らの力で改革をしようとしていたのです
01:25:10これに対して日本の立場は
01:25:13急激に西洋の文物を受け入れて
01:25:16西洋的な価値観に基づいて
01:25:20朝鮮と交流をしていこうとしていました
01:25:24ですから2つの国の間の差
01:25:27そしてその差が
01:25:29葛藤につながっていったと見ることができます
01:25:35そうした中で開化派
01:25:38つまりキム・ウォッキンを中心とした開化派の活動が
01:25:42重要な意味を持っていることは事実です
01:25:48しかし結果論になるかもしれませんが
01:25:51その開化派の存在が
01:25:54日本が韓国を侵略する論理として
01:25:58日本に利用されることもあったということも
01:26:01申し上げておきたいと思います
01:26:05日本の側にも朝鮮を
01:26:08押しつけんじゃなくて改革を援助したいという人が
01:26:13副財金のようにいたし
01:26:15朝鮮王朝の中でも若きキム・ウォッキンみたいなリーダーがいて
01:26:19自分なりに朝鮮王朝を近代化
01:26:24民主化していこうという人がいた
01:26:26こういう4年間があったんだということは
01:26:29やはり知っておかなきゃいけない
01:26:31それにこうする格好で
01:26:33日本の朝鮮政策ができた時には
01:26:36かなり良くなっていくんですけど
01:26:38日本が欧米から学んだ新しい使い手を
01:26:41朝鮮王朝に教えてやって
01:26:4320年経って
01:26:45言えば日本には有利だけど
01:26:47それほどの博というんですか
01:26:52欧米文化についての博
01:26:54欧米の新型秩序
01:26:56国際法秩序と言ってもいいですけど
01:26:58そういうものを日本から
01:27:01言われるほどのものではないということは
01:27:04やっぱり言いたいですね
01:27:06間違えてはいけないというのかな
01:27:08野郎時代になっていいことはない
01:27:13実際に現地に訪れた大桃さんは
01:27:16どんなことを感じましたか
01:27:18これからの関係をどう築いていくかというときに
01:27:22相手の立場から見た
01:27:24自分たちの姿というのを知らないと
01:27:26お互いに近づいていくということが
01:27:29なかなか難しいのではないだろうか
01:27:31と思ったんです
01:27:33お互いから見たときにどうだろうという
01:27:35意識を持つだけで
01:27:37次に一歩踏み出すときに
01:27:39変わってくるんじゃないかなと思いました
01:27:43今日はありがとうございました
01:27:45ありがとうございました
01:27:49日本と朝鮮半島2000年
01:27:5110回にわたって
01:27:53古代から日清戦争まで見てきました
01:27:55この後の動き
01:27:57韓国併合から戦後の日韓国交正常化に至る
01:28:00近現代の歩みは
01:28:02NHKスペシャルで詳しくお伝えしてまいります
01:28:05ぜひご覧ください
01:28:35ご視聴ありがとうございました