- 2025/5/16
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00:00:002000年の時を経て向き合ってきた 日本と朝鮮半島
00:00:27私たちはどのような関係を築いてきたのでしょうか
00:00:34そしてどこへ歩もうとしているのでしょうか
00:00:44近年発掘が相次ぐ韓国の古代寺院
00:00:48出土品からは6世紀半ばの仏教伝来の真相が見えてきました
00:00:55仏砂利を納めた1400年前の砂利容器
00:01:00そこに刻まれた文字からは日本最古の寺
00:01:04飛鳥寺とのつながりが浮かび上がってきました
00:01:10そして飛鳥でも新たな遺跡の調査によって
00:01:14朝鮮半島からやってきた古来人の実像が明らかになろうとしています
00:01:21古代日本と朝鮮半島の仏教をめぐる交流を描きます
00:01:37教育テレビ開局50周年を記念して
00:01:40日本と朝鮮半島2000年の歴史を10回のシリーズでお伝えしています
00:01:443回目のきょうは古代の日本に大きな影響を与えたとされる仏教伝来です
00:01:50最近は仏像ブームといわれて
00:01:53若い人たちの間でも仏像やお寺を訪ねる人が増えていますね
00:01:58こうした仏像をはじめ仏教そのものが
00:02:01日本と朝鮮半島の交流の中でもたらされました
00:02:05今回のリポーター日韓両国で活躍をされる女優の笛木優香さんです
00:02:10どうぞよろしくお願いします
00:02:12私の後は最近ね、年のせいでしょ
00:02:14よくお寺をまわったり仏像を見たりするんですけども
00:02:16笛木さんはそういったものについてどんな印象がしますか?
00:02:19はい、私もすごく仏像が好きで
00:02:22見ているだけで安心したりすごく心が落ち着いたりするんですけれども
00:02:26韓国に住んでた頃はソウルに教会が多い印象を受けてたんですけど
00:02:31今回の旅では意外にも古い人員が多いことに気がつきました
00:02:37さあそれではまずこちらの年表からご覧いただきましょうか
00:02:40今日はですね、日本に仏教が伝来したとされる6世紀半ばから
00:02:45聖徳太子の時代を経て仏教が国づくりの中心になっていく
00:02:49およそ100年間を見ていきます
00:02:52まずは仏教がどのようにして日本に伝えられたのかご覧ください
00:03:00長野県にある善光寺です
00:03:03今年4月、7年に一度行われる御開帳が始まりました
00:03:08すごいですね、本当に
00:03:11若い人も多いですし、先輩の方も多いですし
00:03:15すごい行列ですね
00:03:23今年の御開帳には過去最多の673万人が訪れました
00:03:30善光寺には朝鮮半島から日本に最初に伝わったとされる仏像があります
00:03:37御開帳された前田地本尊はその仏像の身代わりとして信仰を集めてきました
00:03:49本尊の一行三尊阿弥陀如来像
00:03:54絶対秘仏とされ、誰も目にすることはできません
00:04:01善光寺の縁起にはこの仏像が日本へ伝わるまでの物語が描かれています
00:04:11もともとインドで始まった仏教は中国大陸を経て朝鮮半島へ伝来
00:04:17その後、朝鮮半島に戻り日本に帰り
00:04:20大陸を経て朝鮮半島へ伝来
00:04:23その後、くだらの生命王が和国に伝えました
00:04:28縁起には杉のように描かれています
00:04:33仏様がわざわざインドの国から朝鮮半島、くだらの国まで空を飛んでいってくれるんですね
00:04:39そしてこの生命王を助けてあげた
00:04:42それからくだらの国をお救いになった
00:04:46その後仏様が日本へ渡りたいというので船を用意してくれというので船を用意した
00:04:53そして船に乗って
00:04:58これが金明天皇13年10月13日という
00:05:02西暦552年という年に仏教が初めて朝鮮半島のくだらから伝わった
00:05:11こうした伝承は8世紀に書かれた日本の歴史書、日本書紀に基づいています
00:05:23日本書紀によると西暦552年にくだらの生命王から和国に釈迦金道仏と経典が贈られたと記されています
00:05:41くだらの生命王はどんな人物だったのでしょうか
00:05:45韓国中西部の町、プヨを訪ねました
00:05:51こういう市場の雰囲気が韓国っぽいですよね
00:06:00あ、往来人じゃなかった
00:06:04王はどんな人物だったのでしょうか
00:06:34発掘調査や資料をもとに再現したくだら時代のプヨの姿です
00:06:54都全体を見渡せる場所に王宮が築かれていました
00:07:09王宮の西には上林寺が建設され国を守る護国仏教の中心となっていました
00:07:18さらに小高い山を隔てた地には生命王の死後、王を祀る領事が建てられました
00:07:28プヨはまさに仏教の都だったのです
00:07:321993年、領事の後からくだら時代の仏教文化を知る貴重な発見がありました
00:07:50くだら近道大航路です
00:08:03高さおよそ60センチ
00:08:06仏教の儀式や祭事に用いられていたと考えられています
00:08:20馬や虎、様々な鳥、仏教思想をもとに多くの生き物が豊かな表情で描かれています
00:08:50くだら時代の仏教芸術が生んだ最高傑作とされています
00:09:06当時のくだらの仏教文化のすべてがここに凝縮されているような感じで
00:09:15本当にこれ一つ見ても分かりますよね
00:09:21くだらに中国南朝から仏教が伝わったのは4世紀末のことです
00:09:27その後、和国に仏教を伝えたくだらは中国南朝との交流も深めました
00:09:35ぷよの西およそ100キロにある蘇山
00:09:46韓国西海岸に近いこの地に中国から海を渡ってきた仏教が最初に伝わったとされています
00:09:58山の中腹にはくだらの微笑みと呼ばれる石物が残されています
00:10:07これがくだらの微笑みですね
00:10:16くだらは中国大陸から仏教を受け入れ長い年月を経て独自の仏教文化を育んできました
00:10:27そのくだらが西名王の時代、なぜ和国に仏教を伝えたのでしょうか
00:10:36当時くだらは存亡の危機を迎えていました
00:10:43黄栗の南下によって領土を奪われ、さらに同盟関係にあった白城からも脅かされます
00:10:51孤立したくだらにとって和国だけが頼りになっていきます
00:10:59この時代のくだらを描いた韓国ドラマです
00:11:04西名王は命を落とします
00:11:09西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:11:17西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:11:23西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:11:29西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:11:34日本初期によれば、この頃くだらは和国に対し頻繁に軍事支援を求めていました
00:12:05西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:12:11西名王の死後、息子の昭王は領地を混流します
00:12:16その軍事的な同盟を強固にするために仏教を使って和国を取り込もうと考えたわけです。
00:12:25くだらの生命王から仏教が伝えられた和国。仏教をどのように受け入れたのでしょうか。
00:12:40奈良県桜井市にある大和川の上流です。かつて港が築かれ、外国の使者が船でやってきました。
00:12:52仏教を伝えるくだらの使者が降り立ったことから、仏教伝来の地とされています。
00:13:03この場所は仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地です。
00:13:13当時、和国の政治は有力な豪族たちに実権が握られていました。
00:13:24その主導権をめぐって豪族同士の争いが絶えない時代でした。
00:13:31そうした中、くだらから仏像と経典が伝えられたのです。
00:13:37日本書紀によれば仏教の導入をめぐって有力豪族の蘇我氏と物部氏の対立が生じたとされています。
00:13:49大村寺の物部氏は、他国の神々を拝むと和国の神の怒りを受けると反対します。
00:13:59一方、大海の蘇我氏は、西方の国々は皆仏を崇拝していると導入を主張します。
00:14:14仏教の導入をめぐる蘇我氏と物部氏の対立は2代にわたって続きます。
00:14:29蘇我の馬子と物部の森屋の対立は激しい戦いに発展します。
00:14:53工房の末、587年、物部の森屋が命を落とします。
00:15:07その結果、蘇我の馬子が政治の主導権を握り、本格的な仏教の導入を進めていきました。
00:15:17一般的には、蘇我と物部が数仏・廃仏を代表する存在として反省しきちかく争ったと書かれています。
00:15:28本質的には、物部と蘇我の争いは大和政権の主導権を握る政治的な争いであったと受け止めるべきだろうと思います。
00:15:40一つがとても大きい石です。
00:15:50奈良県飛鳥村にある石部太古墳です。
00:15:58仏教の導入を進めていた有力豪族・蘇我の馬子の墓と考えられています。
00:16:05全長19メートル、高さ7.7メートル、日本最大級の石室です。
00:16:14大きい石が…
00:16:18中はこうなっているとは思いませんでしたね。
00:16:23立派ですよね。
00:16:26これだけの古墳を作るにはたくさんの人が関わっていたと思いますので、相当の権力の持ち主じゃないとここまではしてもらえないじゃないですか。
00:16:37蘇我氏の権力は大変なものだったんじゃないかと思います。
00:16:43蘇我氏の絶大な権力を支えていたのは朝鮮半島から渡ってきた寅人でした。
00:16:54寅人たちの多くは飛鳥の一角にある日の熊に暮らしていました。
00:17:03日の熊周辺では寅人の古墳が数多く見つかっています。
00:17:16この古墳は昨年の発掘調査で直径40メートルにも及ぶ塩墳であることが分かりました。
00:17:25真由美勘鈴賀古墳です。
00:17:30こちらはどなたの古墳ですか?
00:17:34寅系の人の墓と大和の綾兎という古代で綾兎とともに最大の勢力を持った
00:17:42大和の綾兎の首長の墓です。
00:17:49大和の綾兎と呼ばれる寅系氏族は蘇我氏の輩下にいながら、
00:17:55大陸の先進文物や技術、さらに仏教の知識を伝えたとされています。
00:18:04寅系の人たちは石を積んで、石を積んで、
00:18:11石を積んだら、石を積んで、石を積んで、石を積んで、石を積んで、
00:18:18石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積
00:18:48んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石を積んだら、石
00:19:18昨年、この日の熊寺跡から、寅人たちの仏教信仰を伝える貴重な遺物が発見されました。
00:19:29いろいろありますね。日の熊寺跡。
00:19:36超混同物園。ものすごく小さいですけど、手ですかね。
00:19:48長さ2センチほどの仏像の手です。
00:19:56こうした形の小さな手を持つ仏像は、朝鮮半島で多く見つかっています。
00:20:186世紀から7世紀のくだらで作られた仏像です。
00:20:28手の形がよく似ています。
00:20:35こちらのは、かなり小さくてかわいい感じがします。
00:20:48くだらの人たちも、あと寅人の人たちも、こういう小さい仏像をすごく大切にしていたんだなということが分かります。
00:20:59仏教伝来。その影には和国に渡った寅人たちがいました。
00:21:10数々の仏像は、その交流の歴史を物語っています。
00:21:18プヨは今回初めて行ったのですが、日本の飛鳥と雰囲気がすごく似ていて、
00:21:26くだら時代の大航路や石物などを見ると、とても繊細でありながらも温かさを感じて、
00:21:33当時の仏教のすごさや親しみやすさを感じることができました。
00:21:38今日は古代史がご専門のお二人にお越しいただきました。
00:21:45まず、国学院大学教授の鈴木康民さんです。
00:21:49古代の東アジアにおける日本と朝鮮半島の関係史について研究されています。
00:21:54そして、もう一方です。
00:21:58韓国トングック大学名誉教授の伊喜頓さんです。
00:22:02くだら史を中心に幅広く朝鮮半島の古代史を研究されています。
00:22:07まず鈴木さん、仏教は誕生から千年以上という時を経て、
00:22:12朝鮮半島から日本に渡ってくるわけですが、
00:22:17その伝わり方というのは一様ではないようですね。
00:22:22伝わり方は一様ではないようですね。
00:22:27紀元前にインドで仏教が始まりますけれども、
00:22:32その後、中国には北方ルート、つまりシルクロードを通って
00:22:37南方ルートがあります。
00:22:42インドから海のシルクロードを通って
00:22:47中国の南の方に伝わるルートがあります。
00:22:525世紀に経典の簡訳が進み、
00:22:57それで中国で仏教が盛んになります。
00:23:02そして朝鮮半島に伝えられる。
00:23:07そしてその後、6世紀の中頃に日本列島に伝わる
00:23:12というふうに考えられています。
00:23:17鈴木さん、この時、くだらはなぜ仏教だったのでしょうか。
00:23:22鈴木さんは「当時、くだらは北から峡谷の小送りの侵略を受けていました。
00:23:27そして、東日本大震災によって
00:23:32東日本大震災によって
00:23:37北朝鮮と東日本大震災が対峙し、争っている状況でした。
00:23:42そうした中で、くだらが助けを求める相手は
00:23:47和国しかありませんでした。
00:23:52ですから、くだらは仏教伝来の以前から
00:23:57例えば、儒教に詳しい五経博士を3年ごとに
00:24:02和国に送っていました。
00:24:07その後、清明王の時代になって仏教を伝えました。
00:24:12仏教伝来はまさに最後の切り札だったのです」と話します。
00:24:17鈴木さんは「仏教伝来の時期ですが、
00:24:22現在使われている教科書の多くは
00:24:27538年説あるいは552年説という2つの説が書かれています。
00:24:32鈴木さんはどんなふうに教わりましたか。
00:24:37538年説と552年説は元になった資料の違いによるものです。
00:24:42538年説は頑豪寺つまりアスカベラの縁起、
00:24:47聖徳太子の伝記などに伝えられた説です。
00:24:52538年説は頑豪寺つまりアスカベラの縁起、
00:24:57聖徳太子の伝記などに伝えられた説です。
00:25:02538年説は頑豪寺つまりアスカベラの縁起、
00:25:07聖徳太子の伝記などに伝えられた説です。
00:25:12552年説は日本書紀の説。
00:25:17552年は日本書紀に書かれた説によるもので
00:25:22くだらの時の声明王の側位からの年盾の違いによるものです。
00:25:27くだらの国際情勢を考えても552年説は正しいのですが、
00:25:32いずれにしても6世紀の半ばのことです。
00:25:37理さんはこの辺はどうお考えですか?
00:25:39今から40年ほど前、清明王の父、船王の梁が発見されました。
00:25:47その中から王の生涯を記した墓石が出土して、523年に船王が亡くなり、息子の清明王が即位したことが分かりました。
00:26:00これで日本書紀に記されている清明王の即位の年が正しいと証明されました。
00:26:09その結果、日本書紀の552年節が支持されるようになったのです。
00:26:17仏教という全く新しい宗教を和としてはどんなスタンスで迎えるようでしたか?
00:26:27日本には古来の万物に神が宿るという神様を信仰する豪族がいました。
00:26:39それに対して新しい外来の神、つまり仏を信仰するという豪族が出てきたわけです。
00:26:48その代表が蘇我氏でした。
00:26:52蘇我氏というのはどういう豪族だったと考えたらいいですか?
00:26:55蘇我氏は6世紀になって突如台頭してくる信仰豪族です。
00:27:04外国の事情に詳しいということ、それにはおそらく朝鮮半島からやってきた寅人を支配下に置いていたことが、
00:27:17仏教などの新しいものを導入しようとする動機だったと思います。
00:27:27蘇我氏という豪族はどんなふうに捉えていらっしゃいますか?
00:27:32これはあくまでも日本史の問題なので、韓国史の研究者として申し上げることは難しいです。
00:27:44ただ、蘇我氏の家系図を見ますと、祖先にカラコという名前があります。
00:27:55このカラコには、韓半島の女性との間で生まれた子供という意味合いがあります。
00:28:06それにコークリを指すコマという名前もあります。
00:28:13また、クダラの獣神の中にはモクマンチという人物がいますが、蘇我氏の祖先にもソガマンチという名前があります。
00:28:25カラコ、コマ、マンチ、このように韓半島と関連する名前が出てきますので、クダラ系の人ではないかと思います。
00:28:36蘇我氏は当時の和国の有力豪族の中で、海外の事情に詳しく、また先進技術や文字文化の重要性に注目していたとても珍しい豪族だったと思います。
00:28:56仏教が和国に伝来してから、西暦588年、和国に最初の本格的な仏教寺院アスカデラが建立されました。
00:29:06このアスカデラの様式がどこから来たのかを考える上で、重要な発見が韓国でありました。
00:29:16奈良県アスカ村。仏教の導入を進めた蘇我氏の宇治寺があります。
00:29:25日本最初の本格的な仏教寺院、アスカデラです。
00:29:35本尊は通称アスカ大仏として親しまれている釈迦如来像です。
00:29:44仏教寺院アスカデラ。
00:29:51とてもすごく古い感じがするんですけど。
00:29:56日本へ仏教が伝わって最初に作られた仏様がこの姿なんですね。
00:30:06今、アスカはほとんど残らないですけど、この仏様の元の位置で動かれないでじっとお座りになって来られた。
00:30:16これだけでも大変な素晴らしい出来事なんですね。
00:30:22日本最古ということで、すごく嬉しいです。思いにかかる。
00:30:51アスカデラは2度の災害に遭い、現在残されているのは仏像がある近藤だけです。
00:31:03昭和31年と32年、アスカデラの発掘調査が行われ、
00:31:09寺の大きさや建物の配置など、その全貌が明らかになりました。
00:31:18かつてのアスカデラは、大仏が置かれた近藤の前に50の塔がそびえ立っていました。
00:31:28さらに、東西にも近藤が建てられ、50の塔を3つの近藤が囲んでいました。
00:31:371頭3近藤式と呼ばれるがらんの配置です。
00:31:45発掘当時、その源流とされたのが、甲栗の西岸理配寺でした。
00:31:551938年に調査報告が出された西岸理配寺は、
00:32:00アスカデラと同じ1頭3近藤式の寺院と考えられていました。
00:32:082つのがらん配置が似ていることから、
00:32:11アスカデラの建築様式は甲栗から伝わったとされてきました。
00:32:172007年11月、韓国で新たな発見がありました。
00:32:37この川のほとりに、大工寺の発掘現場があります。
00:33:05生命王の息子、小王によって建てられた大工寺は、
00:33:10これまでその実像はほとんど分かっていませんでした。
00:33:15今回の発掘で、6世紀後半に建てられ、
00:33:19そのがらん配置がアスカデラに似ていることが分かり、注目されています。
00:33:35この寺の特徴は、周辺に建物を包む渓谷があり、
00:33:39その北側に広がる大きな建物があります。
00:33:44名前はまだ明らかではありませんが、部属建物と呼ばれています。
00:33:59これまでの調査で、大工寺のがらんは
00:34:03中央の塔の後ろに混同が建てられ、
00:34:07さらに塔の東西にも付属建物が存在していたことが明らかになりました。
00:34:15発掘成果をもとに、大工寺の全貌を再現したものです。
00:34:21長い山道を通って南の門をくぐると、
00:34:2550の塔がその姿を表します。
00:34:36この塔を囲むように、北側には混同があり、
00:34:40東西の回廊にも付属する建物が作られています。
00:34:49こうした大工寺のがらん配置が明らかになると、
00:34:53アスカデラへの影響を指摘する研究者が現れました。
00:34:58大工寺の中央にそびえ立っていたとされる50の塔。
00:35:23この塔の下から砂利容器が発見されました。
00:35:27それを囲むように数々の工芸品が備えられていました。
00:35:34それは、クダラの仏教文化とアスカデラとの関連性を示す貴重な手がかりとなりました。
00:35:46成功に作られた直径6ミリの金の首飾りです。
00:35:53数々の金の装飾具は、クダラ時代の金属工芸技術の高さを忍ばせます。
00:36:051万個以上の色とりどりの玉やガラス。
00:36:10糸を通して飾りとして使われていたものです。
00:36:16玉でできたかんざし。
00:36:20そして、この金の首飾りの一つ。
00:36:25一方、アスカデラからも遺物が発見されています。
00:36:31王公寺と同じように、アスカデラの塔の下にも砂利容器が安置されていました。
00:36:40遺物はその周りに備えられていたものです。
00:36:47出土したのは、金、銀の飾りや曲類などです。
00:36:53王公寺の遺物とも共通する金の首飾りです。
00:37:00さらに、王公寺のものと同じ形をした魔形も見つかっています。
00:37:09石や玉で作られた飾りです。さらに、大工事のものと同じ形をした
00:37:14マガタマも見つかっています。
00:37:19国立区予文化財研究所では
00:37:24大工事のものと同じ形をしたマガタマを
00:37:29見つけています。
00:37:40ここに大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:37:45今回、特別に撮影を許されました。
00:37:50物処理を入れるシャリ容器です。
00:37:55大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:00大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:04大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:09大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:14大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:19大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:24大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:29大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:34大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:39大工事の出土品の中で最も重要な遺物が保管されています。
00:38:44高さ4.6センチ、純度98%を超える金で作られています。
00:38:49こちらは金製の瓶が入っていた純銀の容器です。
00:38:54そして、金・銀の容器が入れ子状に入っていた
00:38:59精銅製の砂利容器です。そこに刻まれた文字から
00:39:04純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の
00:39:08純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:39:38銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:40:08銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:40:38銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:41:08銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:41:38銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純�
00:42:08銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の純銀の
00:42:19純銀の純銀の納豆の紤の納豆の防腐来めぐる
00:42:32国民が
00:42:33どのように
00:42:35義援ww
00:42:362年前に出土したシャリー容器から
00:42:40オーク王寺が創建されたのが
00:42:43577年だと分かりました。
00:42:48この年代は
00:42:50アスカデラの創建より
00:42:5210年ほど早いです。
00:42:56そして
00:42:58このオーク王寺が建てられてから
00:43:01アスカデラが創建されるまでの
00:43:04およそ10年間に
00:43:07クダラから人員建築に関わる
00:43:10多くの技術者が
00:43:13日本に渡ってきたことが
00:43:16日本書紀に詳しく書かれています。
00:43:22今回の発掘調査によって
00:43:25こうした文献上の記録が正しいと
00:43:30証明されたことに意義があると
00:43:34思います。
00:44:00文献でしか知られなかった
00:44:03我国への仏教の伝来の内容が
00:44:07発掘という生の発掘成果によって
00:44:12裏付けられつつあるということです。
00:44:18私も初めて
00:44:20オーク王寺の発見された遺物を見たときに
00:44:24遺物がシャリー容器
00:44:27それからシャリーの小文具
00:44:30つまり飾り立てる宝石だとか
00:44:33金属器の工芸品
00:44:36こういうものも共通性がありますし
00:44:39それから真相につまり組織に穴を開けて
00:44:42そういうものを収めるということも
00:44:45理事しております。
00:44:47そういう意味で
00:44:49クダラと和国の密接な文化の
00:44:53仏教の関係を証明するものだと
00:44:56そういうふうに思います。
00:44:59つまりオーク王寺は
00:45:01アスカデラのモデルであったと考えていいんですか?
00:45:05私は出土品を初めて目にしたときに
00:45:09直感的にそう思いました。
00:45:12研究者としてはそういうのは震えるものですか?
00:45:16もちろん感動してビビッときましたね。
00:45:19それにしても福岳さんね
00:45:221400年以上前のシャリー容器
00:45:25美しいですね。
00:45:28本当に素晴らしいもので
00:45:31作った方々の情熱であったり
00:45:34大事にしている気持ちがすごく伝わって
00:45:37オーク王寺にしてもアスカデラにしても
00:45:40その塔の下にシャリー容器を安置する意味は
00:45:43どういうものなんでしょうか?
00:45:46古代の場合
00:45:49釈迦後に1人だけに限って
00:45:52シャリーという言葉を使っていました。
00:45:55もともと寺院に塔を建てるのは
00:45:58この物シャリーを安置するためでした。
00:46:01物シャリーを法案するのが
00:46:04その寺院の
00:46:07一番の目的だったのです。
00:46:10クダラでは
00:46:13釈迦後にのシャリーを
00:46:16敬うのと同じように
00:46:19国王や国家を敬うことが
00:46:22求められました。
00:46:25つまり
00:46:28クダラの国王は
00:46:31釈迦文と同じ存在であると
00:46:34していたのです。
00:46:37そうした仏教を受ける時には
00:46:40当然鈴木さんは
00:46:43この物シャリー容器は
00:46:46手順に扱ったのでしょうか?
00:46:49このシャリー信仰は
00:46:52クダラが和国に
00:46:55シャリーを送ってきたことが
00:46:58きっかけになります。
00:47:01もう一つ大事なことは
00:47:04安川寺の縁起が伝えていることです。
00:47:07それを見ますと
00:47:10塔を建てる儀式の時に
00:47:13総合寺など100人以上が
00:47:16大規模なのぼりを建てたり
00:47:19旗を立てたり
00:47:22出しのようなものを出したり
00:47:25そしてしかもクダラの服を着て
00:47:28それから髪型
00:47:31ヘアスタイルも
00:47:34クダラのヘアスタイルであったと
00:47:37言われておりまして
00:47:40このような形に表すときに
00:47:43やり方がクダラを模倣したものである
00:47:46ということを物語っているのではないかと
00:47:49思います。
00:47:52大工事にしても安川寺にしても
00:47:55今の時代に生きる私たちが思い浮かべるような
00:47:58お寺の以外の
00:48:01機能や役割が期待されているようですね。
00:48:04安川寺には
00:48:07クダラの有名なお坊さんなどが来ますし
00:48:10その他の朝鮮半島の国々のお坊さんも住みます。
00:48:13お坊さんの持っている
00:48:16身につけているものは
00:48:19儒教であるとか
00:48:22小読みの知識であるとか
00:48:25天文だとか
00:48:28先世人とかですね。
00:48:31そういう多様な当時最先端の
00:48:34思想・信仰・学問
00:48:37今風に言うと芸術・芸能
00:48:40に近いもの
00:48:43そういうものがこの安川寺で繰り広げられる。
00:48:46学問、今風に言うと芸術・芸能
00:48:49に近いもの
00:48:52そういうものがこの安川寺で
00:48:55繰り広げられる。いわば国際的な
00:48:58文化交流の場
00:49:01文化交流の場
00:49:04文化交流の場
00:49:07文化交流の場
00:49:10文化交流の場
00:49:13文化交流の場
00:49:16文化交流の場
00:49:19文化交流の場
00:49:22文化交流の場
00:49:25文化交流の場
00:49:28文化交流の場
00:49:31文化交流の場
00:49:58文化交流の場
00:50:01文化交流の場
00:50:04文化交流の場
00:50:07文化交流の場
00:50:10文化交流の場
00:50:13文化交流の場
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00:50:19文化交流の場
00:50:22文化交流の場
00:50:25文化交流の場
00:50:28文化交流の場
00:50:31文化交流の場
00:50:34文化交流の場
00:50:37これが憲法17条でございます。聖徳太子がですね
00:50:42政治を行うものの心得と言いますか
00:50:47そういうものを決めた憲法になっていますね
00:50:52まず第1条にこちらに1に曰くと書いてありますが
00:50:57和をもってたとしとなすと
00:51:00その和というのが一番重要なことだということが書かれております
00:51:06その第2条2に曰く
00:51:09徳敬三方
00:51:11三方とは仏法相なりと出てきますね
00:51:14これは三法
00:51:16つまり仏教を厚くおやまいなさい
00:51:20そういうことが大事なんですよということが2条に書かれています
00:51:24そのほかにも仏教的な内容というのは結構各条に渡っておりますね
00:51:31例えばここは欲望というものですね
00:51:34立ちなさいと出てきますね
00:51:36これはなぜかというと訴訟
00:51:39裁判とかそういうものを公平にするためには
00:51:42そういう賄賂をもらったらいけないということなんですけど
00:51:45その裏にはそういう欲望と執着と
00:51:50そういうものは立ちなさいよという考え方ですね
00:51:541400年前に作られたものですけど
00:51:58すごく今の現代の日本人にも
00:52:01すごい精神とか思想が合っているなって思いました
00:52:11聖徳太子の時代
00:52:13和国は朝鮮半島の久太らだけではなく
00:52:16黄栗や白城とも仏教を通じた交流を進めます
00:52:27581年
00:52:29中国大陸では統一王朝の随が出現
00:52:34脅威を感じた黄栗や白城は和国との外交を求めるようになります
00:52:43日本書紀によると
00:52:45この時期黄栗から僧侶江次が和国に囚い
00:52:50聖徳太子の死となったと記されています
00:52:58白にも和国に死者を派遣し外交を進めます
00:53:05さらに聖徳太子は随との直接外交を目指し
00:53:10県随使を派遣します
00:53:14607年
00:53:15聖徳太子が随へ送ったとされる国書です
00:53:21非依ずるところの天使
00:53:24将非没するところの天使に至す
00:53:30筒がなき矢
00:53:34随との対等な外交を求めたのです
00:53:41618年随が滅亡
00:53:45代わって塔が起こり
00:53:47強大な帝国はアジアに大きな影響を及ぼすようになります
00:53:57塔の都の長安です
00:54:00その中心には世界一大きな仏教寺院がそびえていました
00:54:08このころ東アジアの国々では
00:54:11巨大な寺院の建設が進められるようになります
00:54:20朝鮮半島の九田羅でも
00:54:227世紀半ば巨大寺院が出現します
00:54:29寺院は古都ぷよから車でおよそ1時間のところにある
00:54:33三六寺です
00:54:38これがお寺の敷地みたいですけど
00:54:42本当に広いですね
00:54:47九田羅最大の寺院
00:54:49三六寺
00:54:51東京ドーム7個分に相当する広さに
00:54:5490の塔がそびえ立っていました
00:55:24九田羅はなぜこのような巨大寺院を建設したのでしょうか
00:55:55三六寺の西側にある石塔は
00:55:581997年から修復作業が進められています
00:56:252014年まで17年間の修復作業が進められています
00:56:51今年1月
00:56:53解体中の塔の真鍮石から
00:56:55予想もしなかった発見がありました
00:57:07およそ1400年前に安置された
00:57:10砂利容器が見つかったのです
00:57:18混同製の砂利容器
00:57:22その中から
00:57:24宝珠や物処理とされる遺物が発見されました
00:57:36さらに
00:57:37黄金の述べ板に書かれた記録も見つかりました
00:57:44これによって
00:57:46西暦639年に
00:57:48三六寺が混流されたことが初めて確認されました
00:57:56日本書紀によると
00:57:58同じ年
00:57:59和国でも
00:58:00除名天皇が巨大寺院を混流したとされています
00:58:07その大寺が建てられた場所は
00:58:10飛鳥周辺にあった
00:58:12九太良川のほとりだと記されています
00:58:23しかし
00:58:24九太良大寺と呼ばれるこの寺院は
00:58:27その場所が特定できず
00:58:29長く幻の大寺とされてきました
00:58:35奈良県桜井市で
00:58:36飛鳥時代前半としては
00:58:38最も大きい寺院の混同跡が見つかりました
00:58:41仏教が伝来して以来
00:58:43天皇が初めて混流した
00:58:45最初の大寺院の
00:58:47九太良の大寺跡ではないかとみられて
00:58:49注目を集めています
00:58:51大規模な寺院の混同跡が見つかったのは
00:58:54奈良県桜井市の
00:58:55木陽池廃寺跡で
00:58:57奈良国立文化財研究所が発掘調査していました
00:59:01この調査で
00:59:02土を固めた建物の基礎が
00:59:04南北24.6メートル
00:59:07東西36.2メートルにわたって見つかりました
00:59:111997年の発掘調査により
00:59:14それまで木陽池廃寺跡とされていた場所が
00:59:18九太良大寺の跡だとわかったのです
00:59:23九太良大寺の規模は
00:59:25大きな木陽池廃寺跡となっています
00:59:29大きな木陽池廃寺跡は
00:59:33九太良大寺の中央には
00:59:36和国では初めてとなる
00:59:38九十の塔がそびえ立っていたと考えられています
00:59:42九太良大寺の中央には
00:59:45和国では初めてとなる
00:59:48九十の塔がそびえ立っていたと考えられています
00:59:51九太良大寺の中央には
00:59:54和国では初めてとなる
00:59:57九十の塔がそびえ立っていたと考えられています
01:00:01日本初期によれば
01:00:04除名天皇は九太良大寺とともに
01:00:07王宮も建設したとされています
01:00:10日本初期によれば
01:00:13日本初期には九十の塔を建てたと書いてある
01:00:16日本初期には九十の塔を建てたと書いてある
01:00:19当時の東アジアの諸国では
01:00:22当時の東アジアの諸国では
01:00:25九十の塔が国際標準
01:00:29天皇家は古くから神様を中心とした信仰を守ってきた
01:00:32天皇家は古くから神様を中心とした信仰を守ってきた
01:00:37なかなか仏教の授業に踏み切れなかった
01:00:43東アジアの情勢を見ていると
01:00:46日本だけがそういう状態では立ち遅れる
01:00:49日本だけがそういう状態では立ち遅れる
01:00:52日本だけがそういう状態では立ち遅れる
01:00:55神秘的なお寺ですね
01:00:58ちょっと疑問なんですけど
01:01:00天皇が婚留したお寺なのに
01:01:03普通だったら自分の名前だったり
01:01:05日本に関連した名前を付けるかなと思うんですけど
01:01:09なぜくだらお寺っていう名前を付けたんでしょうね
01:01:13それはもうすごく難しい問題なんですけど
01:01:17当時のお寺は地名プラス寺っていうのが基本なんですよね
01:01:22アスカにあるお寺だからアスカ寺
01:01:25ですからこの辺りがくだらという地名だったんでしょうね
01:01:28そこにあるお寺だからくだらのお寺
01:01:32ただなぜここがくだらといったのか
01:01:35外国の名前ですよね
01:01:38これも想像ですけど
01:01:39多分この辺りにくだら出身の人たくさん住んでいた
01:01:43それでくだらという地名も付いて
01:01:48くだらお寺が婚留されてから6年後
01:01:53古代史を揺るがす大事件が起こります
01:01:58645年6月12日
01:02:08ソナのイルカが中野大江の王子と中富の鎌倉によって
01:02:15暗殺されたのです
01:02:27仏教を導入してきたソナ一族の本家は滅亡しました
01:02:36豪族が主導してきた仏教は天皇による巨大寺院の建設とともに
01:02:41国家仏教への道を歩み出したのです
01:02:48聖徳太子というのは積極的にしかも多元的に
01:02:52この仏教を導入しようとしていることがよくわかりますね
01:02:56中国を統一した隋との交流が600年607年と始まって
01:03:04仏教も変容し始めます
01:03:08国では皇帝が菩薩天使と呼ばれたり
01:03:12それから舎利を各地に送って塔を建てさせたり
01:03:16それから周りの国々と仏像だとか経典を送るという
01:03:22仏教外交を行うようになります
01:03:25それによって諸国に留学生留学僧を派遣して
01:03:32多元的な多角的な国際環境を結ぶようになります
01:03:37そして東アジアの国際秩序の維持に努めるようになります
01:03:41こうして仏教は東アジアの共通文法という風になってきます
01:03:49共通の文法それを自分たちも取り込んで
01:03:53その東アジア世界の中に溶き込んでいこうと
01:03:57例えば県随使の派遣なんてのはまさにその一つの表れです
01:04:02やはり中国に行かなければ他の国々に遅れをとってしまう
01:04:09朝鮮半島の国々との交流はもとよりですけれども
01:04:15そういう風にやはりアジア世界が
01:04:18わりにとって変わってきた 広がってきたんだろうという風に思います
01:04:23今の話にありました随帝国の出現ですけれども
01:04:27これの朝鮮半島に与える影響も大きかったんでしょうね
01:04:31中国大陸に強大な統一王朝が現れると
01:04:38最も脅威を感じたのがコークリでした
01:04:44ですからコークリは随が出現する直前から
01:04:48和国と外交関係を結ぼうと試みます
01:04:54その結果聖徳太子の周りには
01:04:58コークリから来た僧侶がたくさんいました
01:05:04聖徳太子の時代外交政策は
01:05:08それまでのくだら一変党から脱皮しました
01:05:15韓半島の国々やさらに中国大陸の国とも
01:05:22多様な外交関係を結ぶようになったのです
01:05:29さらに中国大陸の国とも
01:05:33多様な外交関係を結ぶようになったのです
01:05:39そんな時代に次々と巨大人員が出現するわけですけれども
01:05:43ミロクジも実に立派だったでしょう
01:05:46ミロクジは本当に大きかったですし
01:05:49今年もシャリ王家がまた出土したということで本当に驚きました
01:05:54それから同時期に建てられた日本のくだらお寺という名前が
01:05:58その当時外国名だったということで
01:06:01今の日韓関係では考えられないほど
01:06:04和国とくだらがすごくオープンな関係だったんじゃないかなと思いました
01:06:11こうした巨大人員の建築ですけれども
01:06:14当時の人たちは驚いたでしょうね
01:06:18日本列島も朝鮮半島も各地にそういう巨大な人員が作られますね
01:06:25そして天をつくような人員は見る人を圧倒して
01:06:30それを建てた人たち国王たちの権威に関わる
01:06:35そういうものだったと考えられます
01:06:37力を誇示するためのものでもあったということですね
01:06:40いわば東アジアのグローバルスタンダード
01:06:44文明国家の象徴を意味するものだったと思います
01:06:50美禄寺と和国日本のくだらお寺ともに
01:06:58王の妃それから国王が建てた国家的な寺院だったわけです
01:07:06ですからくだらと和国の両国は
01:07:10この頃似たような文化政治の歴史を歩んでいたんだなと
01:07:16こういうことを考えさせますね
01:07:19考えてみますと6世紀の半ば過ぎに
01:07:24くだらから伝えられた和国の仏教が
01:07:28かなり速いスピードでくだらに追いつこうとしている
01:07:33そういう感がありますね
01:07:35こうした巨大寺院に異性者が込められた思いですね
01:07:40どんなふうにお考えになりますか
01:07:43当時韓半島では党の侵略に対する危機感が最高潮に達していました
01:07:55半島では三国の争いが最後のピークを迎えて
01:08:01激しい戦いが続く動乱の時期でした
01:08:08ですから犠牲者は戦乱の中で疲弊した民衆の心を
01:08:15慰める必要がありました
01:08:21また敵との戦いで必ず勝たなければならないという
01:08:29勝利への執念を示す必要がありました
01:08:37そこで五国の象徴として巨大な寺院を建てるようになったのです
01:08:46つまり五国仏教の集大成だったのです
01:08:52政治理念としての仏教を和国としては
01:08:56どんなふうに取り入れていこうと思ったのですか
01:09:00君主と親家の間の統合であるとか
01:09:03あるいは秩序化のためにこの秩序として活用されると考えられます
01:09:10それから和国の国家の確立につれまして
01:09:14朝鮮半島の国の寺院や仏教に倣って
01:09:21和国当時の日本でも仏教の教えが国を守る
01:09:26つまり五国思想が形成されるようになっていく
01:09:31そういうふうに思われます
01:09:33さてこうして国家仏教への道を歩み出したわけですが
01:09:37仏教が日本に定着するまでに大きな影響を与えたのが
01:09:41朝鮮半島からの虎井人たちでした
01:09:46奈良県にある法隆寺です
01:09:51聖徳太子が混流した寺院として知られています
01:10:00法隆寺の近道釈迦三尊像
01:10:06飛鳥文化を代表する仏像です
01:10:16仏像の広範囲の裏側には
01:10:21聖徳太子の死の翌年に完成したことが記されています
01:10:28作者の名は鳥仏師 虎井人でした
01:10:36鳥仏師の祖父柴太都は
01:10:39九太羅からの虎井人だとされています
01:10:43鳥仏師はもともとは鞍作りの鳥と呼ばれ
01:10:48馬の鞍を作る職人でした
01:10:51仏教伝来とともに仏像を手掛けるようになったといいます
01:10:58日本で初めて作られた仏像 飛鳥大仏も鳥仏師の作品です
01:11:05九太羅の鳥井人というのでしょうかね
01:11:11鳥仏師が手掛けた仏像の様式は
01:11:16多くの仏師に受け継がれ
01:11:19鳥様式と呼ばれるようになりました
01:11:25鳥仏師が手掛けた仏像の様式は
01:11:29多くの仏師に受け継がれ
01:11:32鳥様式と呼ばれるようになりました
01:11:36鳥様式の仏像は奥行きより正面の姿が重視され
01:11:41服飾なども左右対称に作られています
01:11:47また尾長で微笑みを浮かべている顔が特徴です
01:11:54鳥様式の仏像は
01:11:56尾長で微笑みを浮かべている顔が特徴です
01:12:01鳥仏師の釈迦三尊像
01:12:06その台座からは仏教が果たした重要な役割を示す発見がありました
01:12:141990年台座の内側から
01:12:18日本最古の牧書が見つかったのです
01:12:24620年代に
01:12:27また個人的な落書きも見つかりました
01:12:31文字が官僚の組織だけでなく
01:12:34個人レベルにまで普及していたことがうかがえます
01:12:40日本最古の牧書
01:12:43日本最古の牧書
01:12:46日本最古の牧書
01:12:49日本最古の牧書
01:12:52日本最古の牧書
01:12:55日本最古の牧書
01:13:00このように文字の普及と
01:13:02仏教の関連性に注目している研究者がいます
01:13:08奈良大学教授の棟野春幸さん
01:13:13棟野さんは
01:13:17武教が入ってきたことによってお経が輸入されて
01:13:22お経を勉強するということが始まるわけですけれども、
01:13:27これは漢字の文化を学ぶということですよね。
01:13:32漢字の文化が日本に定着する一つの大きなファクターになったんだと思います。
01:13:47大阪府はびきの市です。
01:13:52不人と呼ばれた都内人の多くが、この周辺を本拠地としていました。
01:13:57その中心となったのが川地の不人です。
01:14:02不人と呼ばれた都内人の多くが、この周辺を本拠地としていました。
01:14:07不人と呼ばれた都内人の多くが、この周辺を本拠地としていました。
01:14:12その中心となったのが川地の不人です。
01:14:17これは西霖寺という渦世寺を拠点に活躍していました。
01:14:22日本古代史が専門で、都内人の歴史に詳しい加藤健吉さんです。
01:14:27加藤健吉さんは「朝鮮半島諸国です。
01:14:32だから古代に限らず、朝鮮、後栗、白城、
01:14:37それから恐らくは後代や後栗からやってきた人たちだと思う。
01:14:42そういう人たちがもちろん来ている。
01:14:47中国系の人々ですね
01:14:49こういうその人々が一つの
01:14:52不人と呼ばれる組織に所属 して
01:14:54そういう人たちがその
01:14:56律令制のそういう主要な そういう役所のそういったその
01:15:00文書を担当するような
01:15:02官僚としてその多くの分野で 持って大きな力を発揮していくと
01:15:07だからそういった日本の 律令国家の基礎づくりを行った
01:15:11人々は
01:15:11もう彼らであるしそして 彼らが最初そういう
01:15:15ところで主導的な役割を 果たしていましたのでその日本の
01:15:18律令国家のいわば一つの大きな
01:15:20枠組みみたいなものが 出来上がって
01:15:23いったんではないかという ふうに考えられますね
01:15:27聖徳太子が創建したとされる 四天王寺
01:15:34この寺の近くに
01:15:36世界で最も古い歴史を誇る 建設会社があります
01:15:44会社の相談役を務める
01:15:48金剛俊隆さん
01:15:5085歳です
01:15:57金剛さんが
01:15:58朝鮮半島との関わりを示す 金剛家の家計図を見せて
01:16:03くれました
01:16:05これが私の家の計図なんです
01:16:10金剛さんが
01:16:11天皇32代陽明天皇の
01:16:14御弟子というのは聖徳太子なんですね
01:16:17我乱五魂流の時節
01:16:20といったような
01:16:22御弟子の家計図を見せてくれました
01:16:25この家の家計図は
01:16:28私の家の家計図を見せてくれました
01:16:31私の家の家計図は
01:16:34私の家の家計図を見せてくれました
01:16:37私の家の家計図は
01:16:40時節
01:16:42九太郎の国から三人代と呼ばれたんですけどね
01:16:45その時の
01:16:47一人が金剛重光
01:16:50初代の金剛重光は
01:16:53およそ1400年前九太郎から渡来し
01:16:56四天王寺を建設した後人の一人だとされています
01:17:00金剛重光は
01:17:04およそ1400年前九太郎から渡来し
01:17:08四天王寺を建設した後人の一人だとされています
01:17:13私の代はおよそ39代ですね
01:17:16こちらですね
01:17:19金剛敏孝さんはその末裔です
01:17:22今までされたもの全部書いてあるんですね
01:17:25江戸時代に四天王寺を再建した際の設計図です
01:17:28江戸時代に四天王寺を再建した際の設計図です
01:17:31金剛組は聖徳太子の時代から
01:17:34聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:17:39今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:17:43聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:17:48今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:17:53聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:17:58今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:18:03聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:18:08今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:18:13聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:18:18今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:18:23聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:18:28今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:18:33聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:18:38今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:18:43聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:18:48今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:19:13聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:19:18今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:19:23聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:19:28今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:19:33聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:19:38今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:19:43聖徳太子の時代から始天皇寺の補修や再建を専門に任されたことで、
01:19:48今日まで伝統を守ることができたといいます。
01:20:13こうした昔ながらの技法は1400年間守られてきました
01:20:22古代、海峡を越えた虎井人たち
01:20:27その伝統が今も受け継がれています
01:20:34これだけ朝鮮半島から海を渡ってきた人たちが
01:20:39日本で活躍していることを初めて知りましたし
01:20:43子孫の方たちが今でも同じ仕事をして
01:20:48伝統を守っていることは素晴らしいなと思いました
01:20:53本当に虎井人たちが和国に与えた影響は大きいですね
01:20:58そういって言えば、日本の和国の国づくり、古代国家の形成、古代文化の発展にとって
01:21:09実務的な役割が大変大きいと思います
01:21:15特に文字を書いたり計算をするという文字技術を聞けば文字文化ですけども
01:21:24不人のような、こういう人たちはほとんど虎井人の独占的な特技だったんですね
01:21:34いさはこの虎井人の活躍、存在をどんなふうにご覧になっていますか
01:21:40韓半島が平和で安定していれば
01:21:45わざわざ海を渡って日本列島まで行く必要はなかったでしょう
01:21:52韓半島内の急激な政治情勢の変動が多くの虎井人を生み出したと思います
01:22:04例えば、475年に小栗によって九太良の首都半村、現在のソウルが陥落し
01:22:18多くの難民が生まれました
01:22:21日本書紀によれば、この5世紀後半
01:22:28植産に関する様々な技術集団が和国に到来しています
01:22:37例えば、鉄器を作る人、土木技術者、それから家畜を育てる専門家、衣服を作る人などです
01:22:54このような人たちを和国の朝廷では食農別に編成して社会に組み込むわけです
01:23:05それによって日本列島に経済力が生まれてきたと思います
01:23:12経済面だけではなく、仏教が生えることによって和国にとっては大きな衝撃であったということですね
01:23:226から7世紀、飛鳥時代に和国に仏教が導入されて飛鳥寺が建てられた
01:23:34この時が日本の歴史で文明の式をまたえた時だと言えると思います
01:23:41この仏教をルーズにして、王権あるいは国家としての和国の文明開化につながるような
01:23:54多彩なチャンネルを手に入れることができた、持つことになったと評していいと思います
01:24:02日本の形や基礎を成したということですね
01:24:06李さんはどんなふうにお考えになりますか
01:24:12考えてみると、九太郎は滅びるまでの100年、日本の飛鳥文化の形成に直接的な影響を及ぼしたと思います
01:24:29この時代、九太郎は和国と仏教を軸にした交流を続けていたのです
01:24:38もちろん九太郎の仏教といっても、もともとは中国の仏教を授業したものです
01:24:49しかしそこには九太郎特有の個性がありました
01:24:55そうした意味で、飛鳥文化を考える際に、九太郎の影響を無視することはできないと思います
01:25:05石井さんはどうでしょうか
01:25:07九世紀の九太郎と和国には、いろいろ論じられたように
01:25:14仏教の授業や仏教の導入という一方的な感じもしますけれども
01:25:22その面重要ですけれども、それとともに東アジアの諸国間の外交や
01:25:30それから兵士を派遣するという軍事を含むような活動であるとか
01:25:37それから和国から九太郎などに僧侶や天を留学させるとか
01:25:47こういう双方向的な面もあるということが大事だと思います
01:25:53そして和国にこのアジアの世界を理解して仏教文化を熱望するような
01:26:04そういう人たちがいたことも見逃すことができないというふうに思います
01:26:09非常にインターナショナルな輝きのある時代という印象を受けるのですが
01:26:14今回リポートをされた八木さんはどんな印象を持ちましたか
01:26:18仏像や漢字などの文化の歴史をたどると
01:26:21朝鮮半島だけではなくてアジアの人たちと一緒に共感できる部分が広がると思うので
01:26:31私も今回の旅で学んだことをこれからの仕事に生かせたらなと思いました
01:26:37どうも皆さんありがとうございました
01:26:52韓国では今相次ぐ発掘によりくだらの文化が見直されています
01:27:00清明王によって伝えられた仏教
01:27:09仏教とともに多くの都内人たちが海峡を渡りました
01:27:15区奈良から贈られた最初の仏像は
01:27:19露天の末長野県全高寺にたどり着いたといわれています
01:27:29五海鳥に合わせて建てられた栄光柱です
01:27:36栄光柱の先端に結ばれた紐
01:27:39この紐は本尊の中指につながっています
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