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  • 2025/5/1
トランスクリプション
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02:59カトリックでいうと精神女子大とかですね
03:03鹿児島の受験校で有名なラサールとかですね
03:09南山大学とか
03:12あるいは英国教会というアングリカンチャーチ、聖皇会、立教大学がありますでしょう
03:22あるいは上一大学はカトリックですが、それもイエズス会です
03:28プロテスタントの方は関東学院とか、関西学院とか、西南学院とか、東北学院とか、広島城学院とかですね、たくさんあってですね
03:54あるいはミッションではないんですけれども、キリスト教精神で作られた、日本で一番古い大学の一つである、京都の同社大学、病院でいうと、西路下病院とかですね、いろいろありますですね
04:13その割にはですね、信者は6、70万、80万は言ってないんじゃないかと思うんですよ
04:23ずいぶん、まあ、柄の悪い言葉で言いますと、透過した資本に見合うだけの果実は得てない
04:31実に世界のキリスト教に対して申し訳ないというぐらいに少ないんですけれども、なぜ少ないんだろうというのは、これは大きな問題で、今回のテーマとは別です。
04:53ただ、我々にはこのまずい歴史がありました。キリシタンという歴史ですね。キリシタンというのは、悪いイメージ。
05:08これはキリシタン、キリシタンをご金税であると、国家の国宝としてご金税であると。
05:22秀吉の晩年ぐらいに始まって、江戸幕府、これはもう鎖国とキリシタン金税とか、もうガッチリとセットで、これが最高の、つまり金税でした。
05:40江戸270年、キリシタンというのは悪いやつだというようなイメージを、つまりキリシタンになると死刑になるぞ、火破りになるぞ、というような宣伝というのは隅々まで行き届きましたから、
05:58なんとなくキリシタンというのは怖いという、理性以前のイメージがあって、だから少ないというわけではありません。
06:09我々の国は、キリシタ教徒の関係においては、必ずしも幸福ではありません。
06:18日本で最初にキリシタンの処刑が行われたのは、慶長元年1597年に遡る。
06:33豊臣秀吉の金教令によって、長崎西坂の丘で、26人が張り付けの刑に処せられた。
06:42この殉教の光景を後に描いた絵が、今、長崎の大浦天使堂の壁に飾られている。
06:51大浦天使堂は、処刑から268年後、現時2年に建てられた。
07:01日本最初の殉教者を忍ぶ、26世殉教者堂が正式の名であったが、当時の人々は、フランス寺と呼んだ。
07:13長崎在留のフランス人のために、婚留を許された教会だったからである。
07:27しかし、フランス本国から送られてきた美しいステンドグラスに描かれた図。
07:33そして、祭壇のマリアの像の噂は、密かに教えを守っていた人々の間に急速に広まっていった。
07:47大浦天使堂を建てたプチジャン神父。
07:51長崎浦上村から訪ねてきた十数人の農夫による劇的な告白を聞くことになる。
08:03私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。
08:10そして、サンタマリアの御像はどこ?というすがるような問いであった。
08:28神と発見のきっかけとなったマリア像。
08:32サンタマリアの御像はどこの日本語をローマ字で記し、神と発見を報じたプチジャン神父の手紙。
08:46この事件から裏紙だけでなく、長崎全土に信者が潜伏していることが分かった。
08:57260年に及ぶ潜伏は世界史の奇跡とされたが、これは次の悲劇の幕開きでもあったのである。
09:06このキリスタンが村が出てきた長崎の状況のまま、幕府が破壊して、明治政府ができて、
09:21同じ長崎奉行者の場所に、とりあえず明治政府の長崎行政機関ができました。
09:32その状態は同じです。
09:34それで新政府は明治政府というのは、明治維新と共に神経の自由を打ち出さなかったんですよ。
09:43そのぐらいキリスタンが怖かった。
09:45だからキリスタン金税は以前のことし、明治6年に解禁するんです。
09:51だから明治元年から6年の間、実に滑稽なことが起こった。
09:57長崎でその事件がありまして、どんどん隠れキリスタンが太陽の下に出てくるわけですから、
10:07それをついに決断して、長崎の新政府の役者は捉えまして、尋問しまして、
10:17キリスタンをやめろと言いまして、やめろと言ったって聞くもんじゃありません。
10:23そしてついにですね、大体3,000人、約3,000人。
10:28これを各藩の、全国の各藩の牢屋に入れてですね、土地の人民とは接触されない。
10:38なんか補給者みたいにですね、映るんじゃないかと思ってて、接触されない。
10:44ここまでキリスタンというのは恐ろしいもんだという伝説があって、明治革命政府でさえそう思ってた。
10:53長崎市内、深堀から山道をやや登ったところに、全長谷という20数個の小さな集落がある。
11:07迫害を逃れててんてんと移住した隠れ切りした7家族が、文政6年に開いた土地だという。
11:16この全長谷というのは、長崎で26年もタクシーの運転をしている人でも来たことがない。
11:31やっぱり随分、今でも隠れ里という感じがしますね。
11:40ロレンシアという先例名の人。
11:59死を永遠の安息を彼に与えたまえ。
12:14つまり、墓を作ったロレンシアのために墓を作った人が、ちゃんと母姫でなくて、
12:26木に黒ペンキで描いています。
12:32こういう乾燥さがいいですね。
12:38ささやかですけど、この人たちがこの谷を開いて、
12:43ほとんど古代と同じような自給自足経済を営んで、
12:47一生懸命生きてきた人の眠る場所ですね。
12:54眠っている場所ですね。
12:56ここから、遥から海が見えて、しばしばが見えて、
13:01海の向こうに天が見えますから。
13:08天国に一番近い場所、この辺りとしては一番近い場所に、
13:16彼らを埋めたんですね。
13:20長崎の市内からここ40分、タクシーで40分なんですけども、
13:27こんな市内に近いところで隠れキリシタンの里が、隠れ里があるというのは、
13:34ちょっとした奇跡でして、もっと遠いんです。
13:38同じ長崎県でも、島々にあったりするんですけども。
13:45相当珍しいですね。
13:49いい感じですね。
13:52長崎や大村藩、佐賀藩の厳しいキリシタン吟味を逃れようと、
14:10西の五島列島へ渡った人々にも、明治になってから恐ろしい迫害の嵐が襲った。
14:18例えば、日坂島。明治元年、神徒200人が捕らえられ、
14:24全員がわずか6坪の牢に8ヶ月間も押し込められ、
14:2942人の殉教者を出した島である。
14:37その大迫害を生き延びた信者が、キリスト教金勢が解かれてから、
14:42やっと作ったザザレ教会。
14:45今、廃墟となっている。
14:48五金勢の宗教信者として、明治政府から迫害を受けた人々が、
15:04五島椿を愛らしくデザイン化して、壁や船底天井に散りばめた、
15:11小さな白塗りのこの天守堂を混流できたのは、大正10年のことだった。
15:17二百六十年間潜伏して信仰を守り続けた力も、
15:34それからも、人口流出という現代の現実には立ち打ちできなかった。
15:41無惨で、物悲しい天守堂の死である。
15:45アイルランドに行きました。
16:00アイルランドに行きました。
16:10アイルランドは、8世紀の頃からカトリックの国になりました。
16:16実に古めかしいほどのカトリックの国ですけれども、
16:19その間、いろいろなややこしいことがありました。
16:22イギリスが神教になってきました。
16:24イギリス人が、アイルランドを侵略、制服しました。
16:31ですから、アイルランド人にとっては、プロテスタントというのは、
16:36敵だと思っているわけですね。
16:38カトリックというのは、オーラカですから、
16:48お金がなくなったら、物悪い。
16:51つまり、お金をくれと。
16:55おこじきさんをしてもいいんですね。
16:58プロテスタントは、それを望みません。
17:01自分の力で一生懸命働けと。
17:03働いたお金で、飯を食えと。
17:06カトリックは、持てるものからいただくのは、たりまえだと。
17:13というところが、ちょっとありましてですね。
17:16これは、世界中のカトリックは、そうだといいんじゃないんですよ。
17:21古典的なカトリックですね。
17:24プロテスタント、北の方に行くと、プロテスタントの衆がいっぱいいると。
17:29その連中は、朝から晩まで一生懸命働いていると。
17:32バカみたいに働いている。
17:34ピカピカ家を掃除している。
17:36しまいに、磨くものがなければ、ドアのノブまで磨いているよ。
17:41というのは、カトリックのプロテスタントへの悪口です。
17:45アイリッシュのプロテスタントは、カトリックの人は、あの連中は、いい加減で仕事をしたって、その日の道具は、みんな散らかしか入ってしまう。
17:58アプリに行った時、道具を揃えることから始めなければいけないし、他の人がその道具を使う場合は、どこに行ったかわからない。
18:06あの連中には、ビジネスというものができないんだと。
18:09それまでプロテスタントの連中を悪口に行っています。
18:12これがちょうど概念的に、この2つの特徴を、特徴といったって、カトリックの人がきちっとしている人は、無数人いますから、こういうのはおとぎ話だと思って聞いてください。
18:25ところが、この16世紀にプロテスタントリズム、カトリックに対して文句を言う奴のグループ、これが起こってきたことはですね、もうカトリックのようなのんびりしたことでは、もうヨーロッパ中は商工業が非常にアップしてきましたから。
18:48商工業という新しいビジネスに参加できないわけです。
18:52商工業という小さな家内工業にしても、大きな工業にしても、あるいは商業という見えざるものに、為替なら為替でやり取りするとかですね、
19:03いうようなややこしい仕事が起こってきますと、農業や牧畜で暮らしてきた人たちでは、それはうまくいかない。
19:13そこから飛び出してきて、都市生活を送る。
19:16そしてそのややこしいビジネスに参加する。それは全部が責任を持たなきゃいけない。
19:21自分。自分が責任を持つ。自分がきちってやる。
19:28それから自分については、自分が自ら助けるものを助けるように、何自分ではなくならない。
19:40それから無駄遣いする。勤勉である。非常に貴族な例で言いますと、カトリックは教会が神様の殺し問屋である。
19:54信者は小売りで、教会からの神様を頂いておればいいんだと言うんですけど、プロテスタントは、信者自身が神様と自家取り行きする。
20:06教会という主なプロテスタントにもありますけど、牧師さんもいらっしゃいますけど、カイゾイ人であって、信者自身が神様と自家取り行きする。
20:20神様と信者の間は、垂直の関係があって、曲がったり、カーブしたりしていない。その代わり信者というのは、人が見ていない時でもきちっとしていない。
20:32プロテスタントの人は、プロテスタントの人はもう見てもわかるというような、きちっとしている。そしてその、なんて言いますか。これを明治人に置き換えてもらいたいんですよね。
20:48ドイツの思想家マックスウェーバーは、1904年から5年にかけて、彼の記念碑的論文を執筆、発表した。
21:04プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が、それである。
21:18英理の追求を良しとしないはずの潔癖な宗教、プロテスタントの倫理が、実は近代資本主義の誕生に大きく貢献したのだとして、逆説的に歴史の事実を解明した。
21:37目先の貪欲を抑制することを知らなければ、決して資本主義は生まれない。
21:44金欲の思想、宗教教育が、そこで大きな役割を果たすと彼は書いている。
21:51マックスウェーバーは、実によく見に来ました。産業が起こってくる、ビジネスが起こってくる、プロテスタンティズムは当然その役割、つまりそのための表裏一体になって進んできて、
22:01国でいうとドイツはカトリックもありますが、プロテスタントの国になりました。スペイン、イタリアはカトリックの国です。
22:08イギリスはカトリックで来ましたが、いろいろな転換の仕方をして、プロテスタントの国になりました。
22:17ドイツはカトリックもありますが、プロテスタントの国になりました。スペイン、イタリアはカトリックの国です。
22:24イギリスはカトリックで来ましたが、いろいろな転換の仕方をして、プロテスタントの国になりました。
22:32カルビンという人が非常にイギリスに影響を与えて、イギリスの政教を生んでいく元になりました。
22:49同時にイギリスは産業革命を生んだ国ですから、非常に産業が起こってきて、ビジネスというものが農村にはなく、牧場にはなかったビジネスという見えない一つのビジネス世界の運営ということをやらなければいけない社会になっています。
23:18そういう社会にプロテスタントリズムは必要だったわけです。自らに対しても厳しくて、他人にも厳しい。
23:29そして貸した金は取り立てるというのはプロテスタントのやり方でした。なかなかプロテスタントもいいことばかりではありません。
23:38借りた金は返さなければいけませんが、カトリック的な曖昧さというのはプロテスタントではありませんでした。
23:45非常に厳しいものでした。だからちょっとこれだけのことを頭に入れておいていただいて、明治時代。
23:52その幕末にですね、上海で翻訳された簡約の聖書その他を読んだ青年が関東地方に、あんなかというと書いてあります。あんなか、ちっちゃい町ですよ。ちっちゃい班がありました。
24:10そこのお侍さんの子で、新島城という青年がいましてですね。後に同志社大学を起こすとですね。
24:19新島城はですね、これだと思ってですね。脱藩して、鎖国は国勢である時代なんですよ。何も通称条約は結んでますけど、鎖国は続いておる。
24:38函館に行きまして、函館でアメリカ人の船長に会いまして、どうしてもそのアメリカへ密出国したいと。
24:50函館でアメリカ船ベルリン号に潜り込むことができた新島は、上海でワイルドローバー号に移され、東南アジアを経え、1年後の1865年、アメリカボストンに着いた。
25:18彼に親切だったテイラー船長が、戦士のアルフィアス・ハーディに報告。
25:25新島はハーディ家に引き取られることになる。
25:30ハーディ氏とその妻スーザンは、信じられない寛容さで、この東洋から来た密出国者を受け入れ、学費のすべてを出して、名門校フィリップス高校に入学させ、
25:45考えられる限りの高い教育を受けさせたのである。
26:00そして、新島はその期待に応えた。
26:07ご視聴ありがとうございました。
26:22フィリップス高校からアーモスト大学へ進学。
26:43大学国領で寮生活を送り、さらにハーディ夫妻の援助で、アンドーバー新学校へ進んで、聖職者としての道を歩む。
26:54フィリップス高校
27:12その間に、故国日本では明治新政府が誕生。
27:16アオジャシンを持たない新政府は、とりあえず欧米国家の見学をしてこようと、岩倉智美を団長とする施設団を結成し、出発の準備をしていた。
27:30アメリカで、施設団受け入れのため奔走をしていたのが、後の文部大臣、森有則で、
27:38彼は新島を正式の政府留学生にし、施設団の案内をさせようと思いついた。
27:46キリスタン
27:50明治になって、キリスタンという名前があまり使われなくなったからに、同じ意味で、野草教というようになりました。
27:57嫌な言葉ですね、野草教。イエスの野草ですけれども、
28:01この中には、プロテスタントもカトリックも入っている野草教。
28:06野草教と、近世の野草教と、正式の留学生3のも矛盾しているんですけど、
28:13そういうことは言ってられなくて、岩倉施設団が来ますから。
28:17だから、彼に案内を任せようと思ったんでしょうね。
28:23きまして、木戸行員が、だいたい教育関係を視察するというので、
28:31新島君に木戸行員好きだというのに、2ヶ月、木戸行員と明治4年に交互を共にするわけです。
28:38木戸行員はすっかり惚れるわけですね。
28:42このキリスタン嫌いで、明治初期のキリスタン弾圧の、
28:49町本人の木戸行員が、新島城に惚れて、彼の日記に、
28:59アメリカかぶれでもない、文明改革かぶれでもない、
29:04実に執実で立派な人間だと、自分は良き友を得たと、
29:09言って書いております。
29:16新島は、木戸行員に自分の出た大学を見学させるだけでなく、
29:24新学校まで見学させるわけですね。
29:27見学する案内人は、後で札幌の学校に来る有名なクラーク博士です。
29:36クラーク博士が木戸行員の案内をするわけです。
29:39だから、木戸行員は初めて外国に来て、それがアメリカで、
29:44そして、彼の教育をテーマで視察した最も印象的で濃厚な相手が、
29:53新島城とクラーク博士です。
29:56クラーク博士は、非常にきついほどの経験なプロテスタントでした。
30:06木戸行員は、すっかり予想して、やはり協備役になるわけではないのですが、
30:12キリスタンは怖くないと思ったでしょうね。
30:16木戸行員の話はこれで終わりますが、
30:21新島城が、つまり彼は一生懸命牧師の資格を得ようとしたり、
30:26いろいろして、いろいろな勉強を重ねて、
30:29ついに牧師の資格を確かえた時に、
30:34私はこの仕組みはよくわからないのですが、
30:37その時に、新学校卒業生として、
30:43聴衆にお説教するのが慣例があったらしいのです。
30:49そのお説教のところには熱心な信者が集まってきて、
30:54その新品の新学校卒業生のいいお説教を聞くわけです。
31:01そのお説教を一生懸命やるわけですが、
31:04新島城もそのお説教をやったわけです。
31:07新島城のやったお説教というのは、
31:10自分の国はこの間革命を起こして、
31:13新しい国になった。
31:15しかし、何をしていいかわからない。
31:17どういう国を作っていいかわからない。
31:19そういう状況だと。
31:23自分はこの国に対して、
31:25日本という国に対して、
31:27キリスト教主義を持って貢献したいのです。
31:33自分は私のために自分の人生を考えているのではないかと。
31:43この国のために良きキリスト教を腐食したいのです。
31:49それについては大学を起こしたいのです。
31:53そのことができない限りは、
31:58自分は日本に帰れないのだと。
32:00つまり、お金がないわけです。
32:03ただ、すぐに長州の一人が立って、
32:09この人はお医者さんで、
32:11なんとかピーターなんとかというお医者さんですが、
32:15当時の1,000ドルが大きかったです。
32:191,000ドルを新島に給付しました。
32:23そうした会場が、
32:24我も我もと言って5,000ドルになりました。
32:265,000ドルが大きいですよ。
32:28最後に、1人の貧しげな農夫が進み出てきて、
32:322ドルを給付しました。
32:34彼にとって2ドルを出したら、
32:36もうお金はないのです。
32:38今は、随分花屋のところから
32:40鉄道に乗ってやって来たのですが、
32:43帰りは2ドルを消しているわけですから、
32:48彼は遥かに歩いて帰ろうと思って、
32:512,000ドルを給付しました。
32:552,000ドルという人は、
32:57ちょっとエクセントリックなところがあるのではないのですが、
33:00そうではなくて、
33:02自分をいじめるのは悪い言葉ですが、
33:06自分を否定し、否定し、否定して、
33:09否定した挙句に、
33:11その否定の力をバネにして、
33:14自分を鼓舞するというような性質を持っていましたから、
33:17彼の演説というのは素晴らしかったと思うのです。
33:21これが同志社大学の基礎になったのですが、
33:24かといって、
33:25日本にクリスチャンが増えたというわけではないです。
33:28随分、情熱のありには実りが少ないのですが、
33:32それにしても、
33:33新島がそういうことがあって、したと。
33:43新島城と共に、岩倉施設団の、
33:54アメリカ東部の教育施設の案内をした、
33:57ウィリアム・スミス・クラークは、
33:59明治8年、日本政府の招きで来日、
34:03札幌農学校教頭となった。
34:06今の北海道大学である、札幌農学校に招かれた時には、
34:16マサチューセッツ農学校の校長であった。
34:27札幌滞在8ヶ月。
34:30少年よ、大使を抱けの役で伝説的になった言葉を残し、
34:35帰国した。
34:39彼が教えている期間中に、
34:41彼の人格的な何かに、
34:47触発されて、
34:49クリスチャンになったという人が、
34:52彼の教え子のほとんどがクリスチャンになったんじゃないでしょうか。
34:55その時、署名、なんか署名するんですね。
34:58ちょっとそのきちっとした、
35:01それのことは、
35:03新戸稲造さんの、
35:08新戸稲造さんも入っていました。
35:10お札の新戸稲造さんも入っていまして、
35:12明治のキリスト教の大きな存在で、
35:16あった、そして外国にも、
35:19人にもよく知られておった内村勘蔵も入っていました。
35:23ほとんど、つまり、コロデスタンとなるわけですね。
35:29新戸稲造は南部藩ですね。
35:32今の東北地方の、岩手県の南部藩。
35:36みんな、明治維新で割り送ったところですね。
35:42南部藩なんてのは、
35:43俗軍扱いにされて、
35:45責任者が腹食ったり、
35:49いろいろした大変な藩です。
35:53それから、
35:55内村勘蔵は、
35:58関東地方の高崎藩のではと思いますが、
36:01これもありよかったところです。
36:04とにかく、
36:08札幌の学校の秀才たちはですね、
36:12大抵は私族なんですけども、
36:15使えるべき種といいますか、
36:19忠誠心の対象である、
36:21お供様を失った青年たちですね。
36:25しかし、
36:31溢れるような忠誠心の持って行き場所はね、
36:34それが、
36:36イエスならイエス、
36:37神なら神という、
36:39その新しい詩を得たということなのか、
36:42私はそういうふうに解釈しているんですけども、
36:46そういうようなことから考えて、
36:50ずっと何をしますと、
36:52もう一つ話があります。
36:54やはり幕末にですね、
36:59幕府から派遣されて、
37:03ロンドンに留学した人がいまして、
37:06中村慶悠、
37:12名前は正直、
37:15私は中村慶悠、慶悠と言っているんですから、
37:18ここでは中村慶悠、
37:20この人は幕府審の中でも、
37:23大秀才でしてですね、
37:28幕府の唯一の最高学校が、
37:31昭平校、
37:32石間にある昭平校ですが、
37:34昭平校の大秀才で、
37:36もう大変な人ですね、
37:45オリジナリティがあったかどうかは別として、
37:47大変な人です。
37:48それは幕府が選んで、これから英学だと、
37:51ロンドンに留学させて、
37:53している間に幕府が破壊してですね、
37:56急遽帰らなきゃいけない。
37:57帰ったら、
37:59幕府がなくなっていて、静岡に移っているので、
38:02静岡に来ました。
38:03なんといっても、
38:05大秀才元五万基というぐらいの人数ですから、
38:08それに家族を含めて静岡に移るんですから、
38:11もう農家の小屋を借りたりしてですね、
38:15爆心の明治時代の静岡における姿は悲惨なもんでした。
38:23その悲惨な爆心たちに勇気づけをしようと思ってですね、
38:28中村慶夫が、
38:30中村慶夫が、
38:32翻訳をするんです。
38:34その翻訳というのはですね、
38:36中村慶夫の、
38:37翻訳は中村慶夫の、
38:42つけたくらいで、
38:44西極立志編という本ですね。
38:49まあ、幕末明治の大ベストセラーが、
38:52福沢諭吉の西洋慶夫で、
38:54明治初年の大ベストセラー、
38:57西洋慶夫の大ベストセラーは、
39:00西極立志編、
39:02中村慶夫の西極立志編と言われてますけど、
39:05明治4年だったと思います。
39:08明治4年に静岡で書いて、
39:10木版釣りで印刷されていたもんです。
39:15数十万、
39:17まあ、長い、
39:19数十万、おそらく明治30年代まで、
39:22読まれたと思いますけども。
39:29ロンドンから帰ってくる、
39:31船の中で読んでいたようですね。
39:33この本を経由は。
39:36著者は、
39:39サミュエル・スマイルでしたね。
39:42サミュエル・スマイルというのは、
39:44ちょっとここに来る前に、
39:47私、念のために本をひっくり返してみますと、
39:51スコットランドの人で、
39:53お医者でもあった人なんですね。
39:55後で、
39:57地方新聞の主観なんかをして、
39:59ちょっと曖昧な、
40:00曖昧と言ったら悪いでしょうけども、
40:02障害を送った人で、
40:05別に高級な思想家ではなくて、
40:07通俗的な、
40:10通俗哲学として、
40:13自助論というのを書いたわけですね。
40:16自助論。
40:18自助論。
40:19つまり、
40:20神というものは、
40:22自ら助ける者を助けるんだという自助論ですね。
40:26自ら助ける者のみは得ないんだと。
40:30これはプロテスタントそのものです。
40:32プロテスタントの、
40:33聖教徒以来のイギリスのプロテスタントのエッセンスを、
40:38いろんな事例で書いてあるわけなんですけども、
40:42だけどその、
40:44こうやったら大金持ちになりましたとかいう話なんですよ。
40:48対してこの、
40:51哲学的な話じゃなくて、
40:54自ら助ける者が実際は、
40:58成功するんだという本でですね。
41:04相互書と言えるほどのものではないんですが、
41:11それでも、
41:13船の中でそれを読んだ中村経由は、
41:16出世主義というようなものではなくて、
41:23しっかり生きていこうと。
41:25卓を破壊して、
41:26爆心はもう、
41:28全都に希望も失って、
41:30静岡で農家の小屋かなんか借りて、
41:35暮らしていると。
41:39元気づけのために変えたわけですね。
41:42それが、
41:44明治の青年によく読まれたというのは、
41:53江戸時代から引き継いできている、
41:56一種の日本的な自立、
42:03自立という特目ですね。
42:06それから、
42:08自助という特目、
42:10これは二宮村のところも言ってましてですね。
42:13江戸時代に、
42:14石田バイガンという人が起こした進学もそうですし、
42:17それから、
42:19普通の農村の、
42:21農村の、
42:23うーん、
42:24武士階級の特目もそうでした。
42:27偶然に、
42:30江戸時代から、
42:32一種のプロテスタンティズムというのは、
42:34日本の風土でした。
42:36勤勉こそ尊いと。
42:39怠け者はいけないと。
42:42それが明治に引き継がれておってですね、
42:47その本を読んだ人は、
42:50異様な話を聞くんじゃなくて、
42:52もっともだと思ったわけですね。
42:54もっともだという風土が日本にあって、
42:57むしろカトリック国よりも、
42:59変な言い方ですけど、
43:01プロテスタントの理解がよく行き届いた。
43:05イシダバイガンは、
43:121685年、
43:15マックスウェーバーより、
43:17正確に200年早く、
43:19タンバの国に生まれた。
43:21京都で、
43:22長家に勤め、
43:24住み込み番頭で終わったが、
43:2645歳で退職した後、
43:28後世のマックスウェーバーの論士とよく似た、
43:31一般大衆のための講義を行った。
43:34オレンズの道路長
43:38私のマックスウェーバーの論士は、
43:413つ目に立ち上がる。
43:43私のマックスウェーバーの論士は、
43:45私のマックスウェーバーの論士とよく似てる。
43:47このマックスウェーバーの論士は、
43:49落語で熊さん八三がご隠居から
43:57言って聞くようにと勧められる関門神学がそれで
44:02これが江戸日本を覆った長人思想
44:05すなわち勤勉の哲学だったのである
44:19バイガンは理順貸し借り所有それを貫く正直の意義を説いた
44:32ウェーバーの言う資本主義の前提条件である
44:49三河武士で徳川家康の部下であった鈴木翔さんは
44:56バイガンよりさらに106年前に今の愛知県安家町に生まれた
45:02石田バイガンの著作が翔さんのものと
45:07しばしば誤って伝えられるくらいに二人の考えは似ていた
45:19理論的な反キリシタン思想家でもあった鈴木翔さんは
45:33結局プロテスタントと同じ理由で
45:36その教義に意を唱えたのかもしれない
45:39彼の著書の中で宗教と世俗の生活は同次元のようである
45:49カトリック国はプロテスタントというのはいけない
46:15例えばさっき冒頭で申し上げたアイルランドでは
46:21今でもですね最大の悪魔はこのプロテスタントやろうというのが悪魔ですが
46:32だからそのアイルランド人にとってプロテスタントの考え方は
46:38いろんな別な形で受け入れられているんでしょうけども
46:42明治の日本人よりは遠いでしょうな
46:46だから明治の日本人の方が何と言いますか
46:50プロテスタントについての
46:54受容が
46:58むしろこの喜びさんだ形で受容していたように思います
47:06経験ということは日本語になっていますが
47:12経験な
47:15あの人は経験な人だと
47:18経験な人だと
47:20経験な人は滅多に使わない感じなんですけど
47:22あれ明治の時に
47:24その
47:24大悪語として作った言葉でですね
47:29プロテスタントの人は常住座が
47:33神様が見ているものですから
47:37くちっとしていると
47:39そして神様に対して
47:40自分の真心を捧げていて
47:43それの
47:44つまり繁栄として世の中に対して
47:46尽くさなきゃいけないと
47:48尽くさなきゃいけない
47:49そういう心の在り方を経験
47:51緩みのない緊張というのを経験というわけなんですけど
47:57経験という言葉では
47:59実に経験な人が伝道者として
48:05たくさん来てましてですね
48:08そしてまた我々は
48:10未だにあしたクリスチャンだと言うと
48:13ああ真面目なんだ
48:14そのようにしてですね
48:17クリスチャンにも西洋では色々あるのに
48:20わざわざ日本ではクリスチャンというのは真面目というような
48:24イメージになっているというのは
48:26明治のプロテスタント
48:28あるいはプロテスタンティズムの在り方が
48:31非常に真面目で
48:32しかも日本の明治人の風土にあったと
48:35明治国家というのは
48:37やはり一種の
48:39これちょっと語弊がありますけど
48:41わざと言いますと
48:42一種のプロテスタンティズムの国家だったと
48:45いうようにも言えそうですね
48:49今日はこのグランスグラフ
48:53ご視聴ありがとうございました
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